なんとなく、彼は泣かないのだと思っていた。
 大した理由なんてそれこそ微塵も無く、けれど一種の確信に近いような、そんな風に僕は思っていた。そんなことがあるわけもなく、彼も人の子であり、当然に涙腺を持っていて、其れが死んでいてはとっくに眼が乾いてしまっている。ドライアイと言える域を、将に瞬く間に超えてしまう。だから確かにある筈で、であるのにそう決め付けていたのは、僕の勝手な、憧憬とか、羨望とか、思慕―――恋慕なんてものの所為だと思う。

「あ……」

 振り向いた彼を見て、僕は言葉にもならない、そんな声を出した。彼は僕を確認すると、少しだけ顔を顰めて、其の顔の動きだけで、音も無く涙が彼の頬を伝った。続く雫も、彼の足元にぱたぱたと落ちていく。僕はただ其れを呆然と見詰めていた。

「古泉」
「――」

 ……正直に言ってしまうと僕も男であるので、涙で掠れた声で名前を呼ばれてしまえば、恥ずかしながら反応してしまう。そんな場合ではない事は百も承知で、僕は脳裏を過ぎったいろいろな事を、収拾つかないまま、とりあえずは、仕舞いこめた。

「如何、したんですか?」
「なんでもねえよ。あんま見んな」

 乱暴に目を擦るから、目元は真っ赤になっていた。何度か繰り返したんだろう。彼が部室から出て随分経っていたから、―――つまり、その間彼はずっと泣いていたということになる。
 ひとりで。誰にも見つからないように。
 確かに彼を見つけたのは僕であって、今も彼の隣に居るのは僕であるけれど、当初、僕はほんの少し懸念していたとは言え、涼宮さんが言い出すまでは、探すつもりはなかった。彼はひょっこり、平気な顔で、ただ少し遅かっただけで、帰ってくると思っていた。根拠の無い確信、中身の無い信頼、あるいは先にも述べた、甘えているだけの勝手な感情の為、僕は彼に何事も無いという夢想を、勝手に、根拠無く、意味も無く、思っていた。
 そんなことがあるはずがないのに。
 僕は勝手に彼を理想化し、美化していたのだろう。彼は強く、何に勝って負けて呆れて困惑しても、そんな風に、涙を流すなんてことを、僕は全く、想像しなかった、考えなかった、思わなかった。零として認識していた。
 其の分の距離がある気がした。
 今この瞬間、泣いている彼を隣に置いて、僕は自分に失望した。所詮僕は、彼のように為れなければ、彼女のようにも為れない、脆弱で、貧弱な、ただ少し人と違うだけの、男だった。

「……其の様子だと、今日はもうお帰りになったほうが良いでしょうね」
「?」
「皆さんには僕から言っておきます。流石に其の顔は、見られたくないでしょう。荷物を取ってくるので、待っていてくださいね」

 彼は拍子抜けしたような顔で僕を見る。何か言おうとしたのだろうか、唇が少しだけ動いて、でも動いただけだった。言葉は無く、首肯も無かったけれど、其れは了解のように見えたので、「では」と一言だけ付け足して、踵を―――返そうとした。けれど失敗した。いや、踵を返すだけならば僕は成功していた。けれど、彼から歩き去るという行為には失敗したのだ。無理に遂行しようとすれば確かに可能なのだったけれど、其れは酷く躊躇われたので、僕は少しだけ顔と視線を動かして其の手を見た。
 彼の手が僕の袖の先を、弱々しく掴んで、―――いや、摘んでいた。力もいれずに、添えられただけとも感じられる程度の。僕が少し歩くだけで、其れはすぐに離れてしまうだろう程度の。気づく可能性の方が、其の逆よりも格段に低く思える程度の。
 ある種の賭けのようにも見える、手だった。其れに気づけたことに、僕は安堵を覚えずには居られない。気づかなければ、また僕は、彼との距離を拡げてしまっただろうから。縮むなんて無いと思うけれど、此れ以上拡がるのは、嫌だった。求められる前に気づけない僕は、だからせめて、求められた時はどんなに小さい声でも動作でも気づきたかった。言われてからでもせめてなんて、所詮自己満足に過ぎない。言われてからではいろいろなことが既に終わっている。けれど、終わっていたとしても、だからこそ、彼の声を無碍にしたくなかった。

「古泉」

 涙で掠れて、あまりにも小さくて、其の先は聞こえなかった。けれど、蚊の鳴くような小さな声で、名前を呼ばれた其の事実一つ。求められたという其の事実一つ。其れだけで、未だ涙を流す彼の、隣に居ることを許されたようで、望まれたようで―――
 不謹慎だとは思うけれど、

 嬉しかった。

( My mind amazed simple )


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