「あんたさ、」

 代名詞で呼びかけると、紫苑は本から顔を上げて思考と視線を此方へ向けた。同時にネズミが白湯の入ったカップを渡すと、紫苑は其れを受け取ってから、

「何?」
「それ、癖か何かか?」
「だから、何が?」

 問い返してきた。紫苑は白湯を啜る。「熱っ」と、顔をしかめてから、今度はゆっくりと飲み下した。
 まったく。いちいちやることなすこと全てが気にかかる。
 ゆっくりと熱すぎる白湯を啜って、しばらく思考を廻らせてからから、ネズミは口を開いた

「やっぱいい」
「なんだよ、それ」

 不満げに、紫苑は開いていた本を閉じた。本よりネズミの発言の方が気になるらしい。何故だか愉快な気になって、ネズミは気づかれないように小さく笑った。

「気になるだろう」
「気にするな」
「無理」
「じゃ、忘れろ」
「それも無理」
「我侭だな」
「君が言うのか、其の科白」

 本棚に持たれ立っているネズミに対し、ベッドに腰掛けたままの紫苑は上目遣いに睨みつけてくる。庇護欲をそそる仕草だけれど、其れを簡単に表に出すのは躊躇われた。

「ネズミ」
「いーから、気にすんなって」
「だから、無理だって言ってるだろう」

 しまった、と思い、溜息を吐きたくなったが我慢しておいた。
 紫苑が、簡単に諦める性質ではないことはわかっていたのにも関わらず、ポロっとこぼしてしまった。大いなる失敗だ。
 ネズミを言葉を待ちながら、全く引く様子の無いシオンとの睨み合いが続いた。
 小さく鳴いて、小ネズミが紫苑の膝の上から肩へ上がった。其の灰色の身体が、紫苑の艶のある白い髪にほんの少し触れる。
 気に入ってると自覚のある、紫苑の髪。襟から微かに覗ける、脆弱に見えるほど白い身体と、赤い蛇。
 らしくもなく、美しいと思う彼の。

「……、自覚するととんでもないな、俺も」
「ネズミ?」

 紫苑の声を無視して、白湯を飲み干す。
 カタン、とカップを置いてから、紫苑の正面に立ち、屈む。互いの吐息が触れ合う程の距離。流石の紫苑でも動じるかと思ったが、そうでもなかった。
 ……違うか。
 確かに、動じてはいる。驚いてはいる。
 けれど、何処か、緊張感に欠ける。
 理由は、すぐにわかった。
 信頼。
 自分に対する、紫苑からの絶対の信頼。
 何処から沸いてくるのか疑ってしまう、その自信とともに。
 紫苑は、今、身を危険さらしている。
 もしもネズミの手にナイフがあったら、紫苑のその首を、多大な慈悲をもって苦痛も感じさせずに掻っ切ることが出来てしまうのに。
 あまりにも無防備で、幼稚な紫苑の行為。
 その危うすぎる信頼と無駄な自信は、如何してなのだろうか。
 何度も思ったことだが、さっぱり理解が出来ない。
 というか、あまりしたくないんだと、自覚している。
 理解してしまえば、終わりだろうから。
 ぐ、と紫苑の襟を掴んで逃げられないようにする。きっと、こんな『保険』も、紫苑のこの無防備さを考えれば必要ない。
 ほんの少し身体を傾けると、唇は簡単に触れ合えた。
 紫苑の手からカップが落ちそうになるのを、灰色の眼で見つめていた。零さなかっただけよしとしよう。
 触れるだけの簡単なそれに対し、紫苑は暫し固まった。

「な、……?」

 出てきた言葉、というか声。驚きすぎて、くだんの優秀な脳も働かないらしい。まあ、こんなことをしても平然と廻るような天然さだと、最早救いようも無いだろうけれど。
 紫苑の声に応えず、彼の横を抜けてベッドに転がる。もともと一人用だから、二人で居ると必然的に狭い。既にそれすら慣れてしまったけれど。

「その癖、直した方が良い」
「癖?」
「考える時、あと本を読む時、唇に触る癖」

 ―――触れたくなる。

「家ん中ならまだしも、外では控えとけ」
「……あ、えっと、うん」

 未だ何処かぼんやりした様子で、紫苑は返事をした。其れを聞いてから、彼に背を向けるように寝返りを打つ。
 まったく。
 紫苑からは全く見えない位置で、笑む。
 「外では控えろ」だなんて、何を心配しているんだか。
 先程触れた唇をなぞる。
 未だ身動き一つしないらしい紫苑に「おやすみ」と声を掛けてから、瞼を落とした。

( クチビルノスルコトハ? )


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