「昔話だ」
神はそう言った。
だらしなく座る彼に吸血鬼は何も言わずに、ただ耳を傾けた。
「あるところに金持ちの親も持つ少女が居た。少女は深窓の令嬢というに是以上相応しい奴はいないくらい、しとやかで病弱で可愛い娘だった。そんなんだから、部屋に篭もりきり篭もらされきりだった。
ある夜、少女が目覚めた。しかし少女は窓もカーテンも閉め切っていて、昼か夜かわからなかったから、カーテンを開けて確認することにした。序でに空気も悪かったから窓を開けた。
其の時、目の前に男が居た。
勿論、少女は目を丸くした。少女の部屋は屋敷の上階にあり、到底人が居るはずない、居られるはずのない処だった。
男も驚いた。いつも夜中に起きている奴も窓も開ける奴も居なかったからだ。だからぷかぷか浮いて散歩らしきことをしていたと言うのに、遠慮も何も無く開いたんだから驚いた。
まず男が空を飛んでいることに疑問を持つべきだっただろうが、少女は違った。
ただはにかんで言った。
『こんにちわ』
男は呆気に取られて、とりあえず返事をした。
『こんばんわだろ、普通』
『ああ、そうでしたね。間違えてしまいました』
普通に返してくる少女に、男はまた目を丸くし、きょとんという表現が相応しい表情をした。そして、
『くっ、ハハハハハ!』
『?』
大爆笑した。
だってわかるだろう。こんな夜更けに、窓を開けたら見知らぬ男が空を飛んでいたというのに、ただ『こんにちわ』といい、二言目には『間違えた』と言ったんだ」
吸血鬼は、とりあえず返事をした。
「……まあ、普通の反応からはかけ離れているな」
だろ?と神は笑った。
それから続ける。
「それから、男はちょくちょく少女の処に行った。少女は友達も居ないからそれはそれは喜んだ。男は少女の其の普通とかけ離れた様子が気に入ってか、其処に居ることが増えた。勿論、人目を避けて夜に。少女はいつも待っていた。約束も何もしていないのに、男が彼女の部屋の前を通りかかると、タイミングよく窓を開けた。顔を見合わせるたび、笑った。
それから、十年近く経った。
相変わらず男は少女の部屋に寄り、少女も其れを楽しみにしていた。
ある日、少女が男に言った。
『私、結婚させられるんですって』
男は目を丸くした。初めて逢った日のように、彼女の顔をじっと見て、きょとんという表現が相応しい表情だった。
『俗に言う政略結婚というものらしいんですけど』
『……へえ』
男は複雑だった。少女はそれ以上に複雑そうだった。
男は知っていた。少女が昔から、恋愛を経ての結婚に憧れていたことを。夢見る少女と呼ぶに相応しい瞳で、其の夢を語っていた。
『顔も知らない人と結婚するなんて……』
『いつ?』
『三日後らしいです』
物事は知らない処で進んでいるものだった。男はそれを承知しているつもりだったが、目の前にするとやはり気分が悪いことだった。
『あの』
『なんだ?』
どうにか止めたいと思考を巡らしていたが、少女に声を掛けられて其れを止めた。
『お願いが、あるんです』
少女があまりに控えめに、謙虚に言うので、男は真顔で少女を見つめた。
『何だ?言ってみろよ』
どんなことでも聞くつもりで、男は返事をした。
『知らない男と結婚してしまうのなら、最後に、』
少女は言った。男に確かにそう言った。さて、何といっただろう?」
いきなり振られ、吸血鬼は一瞬戸惑ったが、すぐに思考した。そして数秒もしないうちに答える。
「『最後に、貴方に抱いて欲しい』、か?」
「大正解」
神はニッ、と笑った。吸血鬼は其れを見て少しムカついたようだったが、神は其れに気づかないフリをして、話を進めた。
「男は最初戸惑った。まさかそんなこと言われるとは思っていなかったからだ。そして一瞬後になって、彼女に問い詰めた。
『なんでそんなところに行き着くんだよ?』
『……私は、貴方が好きです』
頭が真っ白くなる事実を述べられた。
『気づいてなかったみたいですけど、私はずっと、貴方が好きでした。初めて逢ったあの日からずっとずっと好きでした』
『……』
『だから、同情でも憐れみでもなんでも良いんです。一度、一度だけ……』
男は何も答えなかった。彼女にそんな感情があることを知らなかった。勘付かなかった。らしくないことだと思った。
男は正直、彼女を好いていたんだなこれが。だから嬉しい反面、三日後に降りかかる事実を考えると憂鬱だった。
『……やっぱり、いけませんよね』
ごめんなさい、忘れてください。と彼女は言った。
男は、彼女の腕を掴んだ。
『……?』
『後悔しても、知らねえぞ』
男はそう言った。少女は―――いや、女は嬉しそうに笑った。
まあそのあとは、そんなもんだ。
三日後、女が言っていたとおり、彼女は結婚させられた。男は其れ以来、彼女に近寄るのをやめた。自分にも彼女にも良いことではないとわかってたからな。
そうして、一年たったある日。
男は、ある噂を聞いた。
内容は、『女が病死し、其の子どもが行方不明になったこと』だった。
男は驚いて、出来る限りの情報を集めた。それはとんでもない事実を露にした。
女の病死は事実だったが、子供は殺されていた。女の旦那に、殺されたというのが事実だった。
男はまだ調べた。
やがれ、旦那から其の話を聞きだすことに成功した。
酒に酔った旦那は簡単に漏らした。
『あのガキは俺以外の男のガキだった』
だから殺したんだと確かに言った。
男は如何とも反応できなかった。ただ黙り込み、其の場を去った。
自分の子だとは思わなかった。子を為せる存在だと思わなかった。
そして、殺されてしまうなんて。
一度も抱いたことの無い子は、為せると考えていなかった子は、ただ自分を愛し、一度だけと約束した女との子は
殺されてしまっていた。
男は何もしなかった。ただ何も考えずすごした。
復讐なんてしても意味がないと思っていたし、何よりそんな気すら起こらなかった。
ただ毎日がつまらなく過ぎていった。
ある日男は決めた。
決別しようと決めた。
忘れるのではなく、捨てるのではなく、ただ其の感情に別れを告げようと決めた。
それにはどうしよう。
別れを誓うのには、如何したらよいだろうか。
思いついて、男は女がまだ少女であった頃の部屋へ向かった。最早使われていない其の部屋は、あの頃のままだった。普通は嫁入りするときに凡て持っていくなり捨てるなりするだろうが、ただ鏡台だけは違っていた。
小さな箱と、一年前の置手紙。
『ありがとう、愛しています』
それだけ、少女の小さな文字で書いてあった。男は何も言わずに其の隣の小さな箱を開けた。中には銀の環が入っていた。男は知っていた。少女が其れをたいそう大事そうに持っていたことを。いつか夢見るような瞳で話していたことを。
『おじいさんの形見なんです』
『形見ねぇ』
『先に逝ってしまわれたおばあさんとの、エンゲージリングですって』
『…? じゃあばあさん、やっと来たじいさんが嵌めてなかったらショックなんじゃねえか?』
『おばあさんのも、私が持ってますよ』
『……ああ、それか』
少女がぴっと差し出して左手を見て、納得した。其の薬指には銀の環がこれ以上ないくらいぴったり嵌っていた。
『おばあさんが、お亡くなりになる前に私に嵌めてくれたんです。そしたらぴったり合っちゃって、おじいさんも承諾したんで頂いたんです』
懐かしいと男は思った。もう一度見れるわけの無い笑顔を思い出して、ただ無性にそうしたくなった。だから其の銀の環を指に嵌めた。彼女と同じように、左手の薬指に。すると驚いたことにぴたりと嵌った。其れを見て少し微笑むと、男はひかりの差さない部屋で、何も写さない鏡に向かって言った。
『どーいたしまして』
それから
『じゃあな』
それからずうっと、男は其れを大事にしてるってわけさ。いー話だろ。悲恋。悲しい恋の昔話」
其の指で玩びながら言う。きらきらと光を反射する其の環は、吸血鬼には笑いかけているようにも見えた。
「それだけの話さ」
玩ぶのを止め、手のひらで握る。
「そう……、それだけだ」
自分に言い聞かせるかのようなその言葉に、吸血鬼は神を一瞥してから目を反らした。そして口を開く。
「それで、」
呆れるような、興味のなさそうな……逆に言い聞かせるような、溜息を吐いた。
じっと神を見つめて言う。
「お前は、『それだけの話』の為に、どれだけ涙を流したんだ?」
神は黙って、
吸血鬼も、黙った。
響くのは、チクタクと悪戯に時を刻む時計の音。窓の外から聞こえる小鳥の囀り。さわさわと風に揺られる木々の音。
どれも平穏で当たり前で、彼らにはとても残酷な響き。
「くだらねえ」
吐き捨てるように神は言った。本当に下らないことのように、如何でもいいことのように。
くだらないくだらない。
「数えることが、下らねえだろ」
どれだけだろうが、どれほどだろうが
多かろうが少なかろうが、数えることが、くだらない。
「そうだったな……、愚問だった。すまない」
「謝ることでもねえだろ」
快活に笑って神はそう言う。空元気でもない元気でもない、ただ快活さだけを孕んだ笑み。
吸血鬼に、其れは如何映るだろうか。
「まあ、俺の場合はすぐ切れたわけだが」
「切れているわけじゃないだろう」
其の細い指をぴっと神に向け、吸血鬼は神の言葉を遮った。
其の差す方向。
其れは、銀の環。
彼女を忘れていない証。
彼女を愛した証。
彼女を愛している証。
「……まあ、な。お前も、ほどほどにしとけよ」
「……何が」
「あんまり依存して甘えてると、後が怖いぜ?」
「…………」
吸血鬼は返事をせず、神は其れに笑って、
「じゃな」
ひらりと窓から出て行った。
何かのタイミングを見計らっていたかのように。
其の窓を何ともなしに見ていると、ノックの音がした。
「あれ……神さんは?」
「もう帰った」
入ってきた緑色の髪をした狼男に、素っ気無くそう言った。
狼男は持ってきたティセットを如何するか本気が考えており、吸血鬼は其れを見ると彼に気づかれないように静かに微笑んだ。
「あー、如何し……」
「アッシュ」
言葉を遮り、名を呼ばれた狼男はティセットから顔を上げた。見るとすぐ目の前に吸血鬼が立っている。
「……ユーリ?」
まるで子供のように首を傾げて訊く狼男に返事をせず、吸血鬼はゆっくりと、彼に頭だけを凭れさせた。突然のことに狼男は驚くが、ティセットを持っているし彼も凭れかかっているから動けない。
「……如何したっスか?」
「…………」
「ユーリ?どっか悪いんスか?」
「いや……なんでもない」
なんでもないわけがないだろうに、と狼男は思う。顔は見れないから、何を考えているかも読み取れない。
「俺、是片付けたいんスけど……」
「其処ら辺に置いておけ」
「…………そっスね」
手が届く範囲に置ける場所が無いこと知っていながら言うと、狼男は呆れたような返事をした。
そんなやりとりすら、心地好い。
「アッシュ」
「何スか?」
叩けば鳴るように、すぐに返事をする彼が、こんなにも心地好い。
『後が怖いぜ?』
神の言葉が、脳裏を過ぎる。
怖いなどと、
違う。
怖いのではない。
ただ、
ただ、
苦しい。
それだけだ。
( そんな銀の輪を彼はいつまでも )
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