「ごめんなさい」

 開口一番それだったから、御剣は動けなくなった。全く、これっぽっちも、一ミリたりとも。だから、が如何して此処にいるのか、何したのか、そのエプロンは何処から準備したのか、この匂いはビーフシチューか、などといろんなところに思考が飛んで、結局のところ何も聞けなかった。
 それぐらい、驚いたのだ。
 が土下座とは、いったい何事なのだろうかと。








 とりあえず、順を追って聞いてみれば、「驚かせてみよう」というらしい心意気で、勝手に入って夕飯の準備をしていたらしい。御剣本人としても、それは素敵な提案であって、有難いことではあったのだけれど。

「何をやったのだ?」
「その、お、怒る……よ?」
「――」

 普通、其処は「怒らないでね」とか言うところなのでは無いだろうか。何の覚悟を求められているのかわからないが、御剣はとりあえず、土下座していたをソファに座らせて、其の前に立った。
 の様子というのは、怒られる事を怖がっていると言うより、心底済まなさそうな、其れだった。あまりに彼女らしくないしおらしさに、事がかなり酷いことなのでは、と不安になる。

「来て、御飯作ってたら、乾燥機が……食器の。乾燥機、止まったから、片付けようって思って」
「それで?」
「それで。……みったん、最近ティセット新しくしたでしょ?よく知らないけど、すごい綺麗な白いやつ」
「ああ……」

 確かに最近、新しいのを一式買い揃えた。の言うとおり、白さに惹かれて。口にはしていないが、其れで紅茶を淹れる度に、内心喜んでいた。新しいものと言うのは誰にとってもそういうものだろう。使うたびに、微笑んでしまうものだ。今朝もちょうど、其れで一服してから出勤した。
 其れが今、話題に上ると言うことは。

、まさか……」
「ごめんなさい、怜侍。……粉々に割ってしまいました」

 真剣な顔をして言われたら、もう溜息しかなかった。肺一杯に空気を吸って、これでもかと吐いた。ううう、との呻き声なのかなんなのか、そんな声が聞こえたが、御剣は大して気に留めなかった。それよりも重要なことが占めていたからだ。ああ、割れた。割ったと確かに彼女は言った。買って一週間しか経っていないものとはいえ、いや、新しいものだからこそ、悔やまれる。何故、如何して、ああ、もう。
 御剣の眉間に、当たり前だが、皺を見つけてしまって、は縮こまった。ああ居たたまれない。こんなところにいられない。本当なら此処からすぐさま立ち去って、一ヶ月くらい家に篭もって罪の意識苛まれたい。此処にいるぐらいなら、彼を前にするぐらいなら其の方がマシだ。けれども真実は等しく明らかにするべきで、というか、逃げたところで絶対にばれる。だったらもう、彼にざっくり詰って貰おう。きっと其の方が後々楽だ。さあ、御剣怜侍。気が済むまで罵ってくれ怒鳴ってくれ怒ってくれ。馬鹿だなんだと貶してくれ。今なら何されたって文句なんてないし、きっと何をしたって正しくいられるぞ!

「……
「はい」
「……とりあえず、恐縮するのは、止めてくれ」

 怒るに怒れないのだ。

「ごめんなさい!気にせずに好きなだけ怒って!!」
「いや、……、もういいのだよ」
「うそ」
「嘘ではない」
「だって、あんなに嬉しそうに紅茶を飲んでたのに。もういいなんて、絶対嘘よ」

 いやになるほど、は頑なだった。だから、御剣は溜息を吐いて、彼女の隣に腰を下ろした。小さくなったままの彼女というのはものすごく、ものすごく珍しくて、しばらくこのままでもいいかと一瞬だけ浮かんだが、どうにか却下できた。

「それでいい。君が……割ってしまったことを後悔してるなら」
「……でも、ティセットは戻らないわ」
「そんなものだろう。また買えばいい」
「買ったからには、前の其れを思い出すじゃない」
「……それは仕方ないな」
「ごめんなさい……」

 また小さくなる。このままいけば、精神的にとはいえ、煙草ぐらいにまで小さくなれるのでは、と馬鹿馬鹿しいことを思った。
 本当、何故いきなり、こんなにしおらしくなるのだろうか。昔の彼女を彷彿とさせる。昔はこんな風に、一度泣き出したら手がつけられなくて、三人でてんやわんやしたものだ。今は一人で、てんやわんやだが。

「私はもう気にしていない。君が、十分に後悔してくれているからな」
「……」
「君はさっき言ったな、「嬉しそうに飲んでいた」と」
「うん、すごく、嬉しそうに。気持ち悪いぐらい」
「……、顔に出ていたのか?まさか」
「ううん。でも見てて解る。怜侍のことだもの。いつもと全然変わらないけど、嬉しそうだなって、わかるわ」
「それでいい」
「は?」
「君が私のことを解ってくれていた。そのことが解っただけで、私は十分だ」
「……」
「君ぐらいだからな、そこまで察することが出来るのは」

 自分の事を、解ってくれる。多くを口にすることが苦手な自分にとって、それは、愛しくも尊きものだ。それが君だなんて。

「……みったん」
「なんだ?」
「言ってること、ものすごく恥かしいって、わかってる?」
「思ったままを言っているだけなのだが」
「何の罰ゲームよ、もう」
「それは、割ったことへの、だろうな」
「ばーか。……ごめんね」

 もういい、と一言だけ言って、軽く優しく、くちづけた。

( そんなものより、君の事 )


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