目的地へ向かう前に、喫茶店兼花屋に向かう。片割れの通学路にある其れは、小さいながらもいつも多くの色に囲まれている。店主はぱっと見ではこういう女性らしいものものに全く興味がなさそうな、あっても出来なさそうな人間であるのに、あれは何でも無難にこなせてしまうから、師と仰ぎつつも少々妬んでしまう。まあ実際花の手入れをしているのは彼の妹であり、彼はずっと厨房にいたりするから、この妬みは自分の小ささなのだと感じている。
 其の妹は、店の入口で花の世話をしながら落ち着きなさそうにきょろきょろとしていた。おそらく、自分を探しているんだろう。

「――ああ、アッシュ」

 此方に気づくと、彼女はぱたぱたと駆け寄り、其の顔は少々不安そうな其れだった。
 アッシュが此処に来たのは確認の為で、もとから予定していたわけではない。であるのに彼女が―――ティアが探しているものだから、まるで自分の行動を読まれているようで少々癪だった。

「来たんだな?」
「ええ。いつもと同じ、白い花を買って行ったわ」
「……相変わらずだな。しかし――」

 すまないな。とアッシュは躊躇いながらティアに伝えた。自分は気づけていなかったから。今日が其の日であること、彼がそうするだろうこと。もう三度目のそれなのに、気づけてやれなかった。
 今日が其の日と知ったのは、携帯電話が鳴ったからだった。相変わらずの電子音に、夕飯を作っていた手を止めて見てみれば、珍しい名前が映し出されていたから、おそらく今日なのだろうと察知した。其の名前はむしろ片割れの方に届くものであって、自分に届く事など其の日をおいて他には無いのだから。今までも、これからもそうだろう。
 思えば昼過ぎに出かけて行った背中を見て気づくべきだったのだ。自分達は既に一年と数ヶ月を暮らしていて、彼の下手な笑顔も、背負い込み癖も、凡て把握してるはずだったのに。
 ―――口惜しい。
 苦い顔をするアッシュにティアは微笑んで見せて、「なら一本買っていって」と足元にあったバケツから華奢な花を取り上げた。








 日が傾いて、辺りが赤く染まる。赤というよりも橙の、そう探している片割れの髪と同じような色だった。アッシュが歩く方向と逆の其れへ、遊びつかれた子供たちが帰っていく。自分達にも確かにそんな頃があったというのに、あいつはそれを正しく純粋に過ごす事ができなかった。そんなことを思い出して、アッシュの眉間の皺は増えた。
 目指したのは、何の変哲も無いアパートのベランダ。今は誰も住んでいない。これからもそうだろう。この場所はもうあの橙のもので、あれが此処を手放すことはもう無いだろうから。
 其処に座り込む夕陽の赤は、実年齢よりもずっとずっと小さな、それこそ先ほどの子供達のような幼さとか弱さが現れていた。
 地上よりは一メートルと少し高いそのベランダを見上げて、不承不承に名前を呼んでやると、すぐに顔をあげた。

「ルーク」
「っ! アッシュ……」

 小さな声はまたアッシュの眉間の皺を増やした。それでもルークは変わらず膝を抱えたままで、七年前のことを思い出させた。こうして、柵を隔てて過ごした毎日。其処から連れ出さなかった自分と、其処から降りてこなかった彼。
 アッシュは何も言わずに、ただひたすらルークを見詰めた。詰まる所こんな行動はただのお節介以上の何ものでもなく、放っておいてもルークは帰ってくるのだ。相変わらずの下手な笑顔と、無理矢理とわかる空元気で。別にそれでも構わない。彼がそれでいいと言うなら、アッシュがこだわっても何の意味も無い。
 それでも、こうしてきてしまうのは。

「なんで、バレてるかな」
「バレたくないんなら、ヴァンの店で花を買うのを止めるんだな」
「ティアか……。っていうか、いくらなんでもティアとお前が連絡取れるって思ってなかったな……」

 ルークは弱々しく苦笑した。
 沈黙が落ちたのは数秒で、それでもアッシュにとっては長い長い時間だった。おそらくルークにとってもそうで、口を開くまでが数秒だろうが、彼にとって話すかどうかのラインを超えるまでの勇気が必要だったのだ。

「母さんは、」
「――」
「白い花が好きだったんだ」

 はじめてルークの口から母親の話を聞いた。今までは凡て人伝で、ルークは何も話したことが無かった。アッシュも聞かなかった。ちょうど一年前、彼が一人で半日も墓石の前に居た時も、其れを引っ張って帰った時も、問いたださなかった。彼が口を開くのを待とうとか、そんな殊勝な気持ちだったのではない。

「懐かしいな、こうしてるの。前は……帰り道の途中だったし」
「相変わらず俺はお前を連れ出せないがな」
「うん、わかってる。此処から降りるのは、俺の意思だよ。」

 あの頃はなかったもの。此処にいるしかないと思っていた。だってここは唯一必要とされる場所で、きっと自分がいなくなったら此処は崩れ落ちるんだろうという人任せな想像で。
 今あるのは、其処に飛び込みたいという願いだけだ。
 わがままかもしれない。迷惑かもしれない。でも、それでも全部ひっくるめて、其処に行きたい。
 此処に来たのは、ただ懐かしくて、少し寂しくて、忘れないよう刻みに来たからだった。もう来ることはないとは言わないけれど、もう未練はないと思う。
 立ち上がって埃を払い、じっとアッシュを見詰めた。緑と緑の双眸が向き合って数瞬後、ルークがニッと笑った。悪戯する子供ような顔で。

「アッシュ、行くぞ!」
「?、おいっ!」

 フェンスに足をかけて勢いよく飛び出す。慌てたアッシュの顔。其れを面白いと思っていたら足が引っ掛かってバランスを崩し、思った以上に飛べなくて、べしゃっとアッシュの上に倒れこんだ。

「こっの、……屑が!」
「行くって言ったじゃねえか、覚悟しとけよ!」
「にしても引っ掛かる馬鹿がいるか!」
「よ、予定外だよ!予想外なの!」

 奇跡的に怪我もない二人はそのまま罵り合って、それから立ち上がった。もう挨拶みたいなもんだ、とルークはしみじみ思う。
 「帰るぞ」と一言アッシュが言う。

「……何処に?」
「俺達の家にだろうが、とうとうボケたか」

 何ともなしに放たれたアッシュの言葉が、ルークは嬉しかった。
 「ひでえなあ」とぼやいてから先を行くアッシュ並んだ。

「アッシュ」
「なんだ?」
「其れ、何?」

 アッシュの手にある一輪の花を見てルークは「似合わない」と笑った。

( 君と二人で帰る道の先には )


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