そんなに時間を空けてはいないはずなのに、生まれ育った家は既に他人のもののように感じられた。間取りも調度品も住む人も、何も変わってはいないのに、落ち着かない。そもそも、家族すら自分の来訪に落ち着いていられないようで、宗像礼司はひっそりと溜息をついた。
 最早此処は、他人の城なのかもしれない。
 此処を離れて、一月が経過した。その一月の間、というよりも、ちょうど一月前に自分が変化してしまったのだろうと思う。あれからは忙しかった。何を、どうするべきか、たくさんのことが押し寄せて、けれどそれはそうあるべきところに丁寧に整理されていって、今の自分ができている。美しく、整然と、今立っている自分がいる。くす、と笑みを零すと同時に、目的の部屋に辿り着いた。慣れ親しんだはずの自分の家の、この一月ずっと使われている客間である。
 庭の木々も、池の水面も、変わらず美しいままであるのに、この違和感は何なのだろう。
 礼司はいつもと変わらない、けれどいつもよりほんの少し、感慨深く庭を見渡した。


 礼司のことを「兄さん」と呼ぶ少女が居た。
 直接的に兄妹ではないが、広い親類の、比較的交流の多い家の娘であった。礼司とはそれなりに年齢の近い、綺麗な黒髪を綺麗に結って、少しばかり子どもらしくない表情をする彼女は、彼の家に来るとよく池を眺めていた。子どもの頃は、よく揃って眺めていたものだ。彼女は水面に映る空を見て、きれいな青だねと笑う。風のない日は水面が揺れないから、特にきれいだと言っていた。
 他にも同年代の子どもはたくさんいたけれど、彼女ほどシンプルに単調に時間を共有したものはいなかった。揺れない水面を眺めることは、茶の席に似ている気がする、と今ならば思う。そこには整然とした、自然と作り出された静寂がある。なるほど、これは美しい。礼司はそういう子どもだった。
 ある日、いつもと変わらず交流を楽しもうとすれば、彼女の姿がなかった。その時は病気で療養中だと聞いた。けれど、その後もその後も、訪ねられる時もこちらから訪ねる時も、彼女の姿が見つからないことが続いた。
 それを誰もおかしいとは言わなかった。まるでなにもなかったかのように。
 礼司はそのタブーに気づきながら口を噤み、けれど彼女を探した。気取られないように慎重に。けれど、鋭利に。探して、探し続けて、――
 彼女は暗い部屋に、ぽとりと、取り残されたように佇んでいた。名前を呼ぶと振り向いて、兄さんと応える。
 礼司は自分が彼女に会いたかったのかどうかすら、よく理解できていなかった。理解できていなかったからこそ、彼女を探した。何故彼女の存在が秘匿にされたのか。そんなことよりもなによりも、自分の中の不明瞭をはっきりとさせたかった。
 彼女は思いの外はきはきと話し始めた。自分の中に、不思議な力があること、それで父親に怪我を負わせてしまったこと、周りが怯えて、そして自分がここに納まったこと。
 礼司はそれを、黙って聞いた。それはとても信じられないような話であるが、こんな嘘をつくことに意味があるとは思えない。何より此処でこうして仕舞われていることが、彼女の語る異常の証拠であった。
「でもね、最近は、上手にできるようになったのよ。ちゃんと、制御できるの」
 だからきっと、ここから出られるの。
 また一緒に、水面を見ようね。兄さん。
 彼女の言葉はすぐに真実となった。彼女が言う、制御が出来るようになったこともそうであるが、礼司が彼女を見つけたことが大きかったようである。周囲はいまだに怯えているが、彼女はもう普通の人間と何も変わらなかった。
 それでも、彼女にはもう居場所はなかった。この家には居られなくなった彼女を、礼司はつい口を出してしまって身の振り方が決まるまで、自宅で預かることとなった。礼司の父親も、多少渋い顔をしたが、結局は礼司に同意してくれた。
「ありがとう、兄さん」
 口ではそういったものの、矢張り家族に拒絶された事実に変わりなく、彼女はひどく疲れた顔をしていた。事情は知っているものの当事者ではない礼司には、到底理解しきれない疲労を湛えていた。
「兄さん、私は化け物なのかしら」
 彼女が好きだという庭に面した客間で、彼女が高熱を出して倒れたのはそのときだった。
 ちょうど一月前。
 宗像礼司が、青の王として選ばれたその日のことである。


 異能は異常である。ただそれを知らない人間にしてみれば、恐怖の塊になることがほとんどだ。けれど、それは世界の裏側にあって、確実に世界を動かす何かであった。その何かは、裏側で正確に組織化され、情報は整頓され、すぐに礼司に理解を求め、そして礼司はそれに応えた。――セプター4室長、宗像礼司の誕生は、青の王誕生とほぼ変わらないタイミングであった。
 今なら彼女の疲労も多少、理解できるだろうか。あの日、遥か上空に剣を具えながらも、暴走することなく完璧に制御した礼司には、矢張り解らないかもしれない。王であるがゆえに、極めて孤独である彼を、王以外に理解でいないように。
(何事も、当事者ではなければわからないものだ)
 ほとんどの一般人が、異能を知らないように。自分が知らなかったように。
 眼鏡を上げて、ふすまに手を掛ける。締め切られたその向こうで、彼女は何を思うのだろう。彼女の好きなものが傍にありながらも隔絶されたこの部屋で。
 ほんの少し緊張している。人はらしくないと言うだろうか。礼司は息だけで笑って、手に力を込める。
「兄さん」
 彼女は矢張り、取り残されたようにそこにいた。取り残したのは間違いなく礼司であるのだが、それでも彼女は一月前と変わらず礼司を兄と呼ぶ。
 頬こそ痩せてしまってはいるが、もう伏せってはいないし、体調もよさそうだった。おそらくあの高熱は、彼女がストレインであったからかはたまた彼女自身の感受性のためかは定かではないが、王の誕生に居合わせてしまったせいだろう。だからこそ、礼司は時間と距離をとって、彼女を自分の実家に預けた。そして今日、引き取りにきたのだ。
「随分と時間をかけてしまいましたが、迎えに来ましたよ、
 彼女は首を傾げる。それはそうだ。彼女は今の今まで、この部屋に封じ込められていたのだ。何も知らない。暗い部屋で自分の力と向き合って、なんとかコントロールを覚えて、早く青が見たいねと笑った彼女そのままなのだ。その彼女の目に映る、青い服を纏った自分は、果たして彼女の好んだ清冽な青であるだろうか。
「ここから出ましょう」
 手を差し伸べる。何かを察したのか、彼女は少し怯んだ。
「何処へ行くの?」
「きみが誰にも怖がられないところに。その力を、私とともに使いませんか?」
「兄さん、そこでは、青が見れるのかしら」
「おや、この服では不満かな」
 水面に映る空を愛する彼女は、礼司の言葉に笑った。気に入ってくれたのだろうか。ならば、それに越したことはない。
「それよく似合ってらっしゃるわ。それに、とてもきれい、今までのどの青よりも、礼司兄さんが」
 彼女には見えるのだろうか。青の王としての自分の、その青が。とてもきれいという言葉に、礼司はほんの少し目を丸くして、笑みを浮かべた。
「兄さんは昔からきれいだけれど、今が一番、きれいだわ」
 彼女は礼司の手を取って立ち上がった。
 誕生したばかりの青の王が、一人の青に焦がれるストレインを自身のクランズマンとした、晴天の日であった。

( 君の目に映る僕は )


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