カーテンの隙間から光が差し、それに誘われて出雲は瞼を上げた。まぶしい。そう思いながらもカーテンを開ける。こうしていれば、そのうち嫌が応でも身体が目覚める。頭はその後で十分だ。
 ほっとする温もりのベッドから抜け出して、散らばった服を掴んで洗濯機に突っ込んだ。そのままシャワーを浴びることにする。彼の引き締まった、すらりとした長身に熱をもった水滴がすべり落ちる。長く浴びていたい気もするが、そうも言ってられない。名残惜しく思いながら、スラックスだけで寝室に戻った。
 見ると白い塊がもそもそと動いていた。一見すると妖怪かなにかのようであるが、害の無いことは承知だ。呆れたため息と伴に立ち去ろうとするも、
「……いずも」
 呼び止められ、もう一度寝室を覗く。白い塊はその隙間から顔を出して、物欲しそうに出雲を見ていた。
「おはようさん、今日は結構早いな」
「ん、こーひー」
「はいはい」
 会話をするつもりはないらしい。完全に目の覚めた出雲と違って、それは寝起きが大層悪い。血圧が低いのかもしれないが、出雲の知ったことではない。子どもではないのだ。ただでさえ、毎日こどもみたいなのものの面倒を見ているのだから。赤い頭の昔馴染みを始めとする面々を思い出しながら、言ったら怒るやろな、と出雲は笑った。
 要望どおりコーヒーを淹れ、朝食の準備をする。溶いた卵を鍋の中でくるくるかき回す。すっかり好みも把握してしまった。毎度毎度作ってやって、好みに合わせて、必然的に覚えてしまった。それにしたってよくやったものだ。もしかしたら、根本的に世話を焼くのが好きなのかもしれない。だからあんなふうに、好きなように起きて食って寝てを繰り返す人間が傍にいるのだろう。そこの白い塊は、まだ欲求を自力で実現させようとするからいい。
「おっと。あかんあかん」
 焦げ付かせてしまう所だった。スクランブルエッグを皿に盛って、あとはまあ適当に、プチトマトとレタスを洗う。ふとそこがタイミングである気がして、コーヒーを注いだマグカップを持って寝室に向かうと、白い塊は布団からの脱皮に成功して、ベッドに座っていた。
「目ェ覚めたか?」
「ああ、ありがとう」
 当初妖怪とも思えたそれは、未だ眠たげな声で、しかしそれでもはっきりと返事をした。出雲とは逆に少し釣りあがった目はしっかり覚醒している。
「ふふ、草薙の淹れたコーヒーは美味しいな。カフェを開くべきだよ」
「俺の本業何か知っとるか、
「今すぐバー・ホムラからカフェ・ホムラ、あるいは喫茶ほむらにするといい。常連ならばここにいる」
「お前はほんま話聞かへんなあ……」
 苦言を呈すると、にこりと微笑まれた。妖怪、もといは、本当に聞く気がないようだ。今更と言えばそれまでなのだが、出雲は頭を下げながら息を吐いた。
「朝飯作っとるけど、どうする? 先にシャワー行くか?」
「いやいや、いやいやいやいや。折角お前が作ってくれたものを、冷たく食べるわけにはいかないだろう。朝食を頂くよ」
「嬉しいお言葉やな。もう少しで出来るから、ちゃんと……あー……」
 とそこで言葉が詰まって、の頭のてっぺんから爪先までを眺める。
「……、ふむ、これではだめか?」
「いや、ええっちゃええけど……あかんっちゃあかん」
「お前だって半裸じゃないか、布面積で言えば私の方が多いくらいだ」
「そういう問題ちゃうわ」
 楽でいいのに、とが口を尖らせる。服を集めた時には既に着ていたのだろうから、寝る前から着ていたのか。は出雲の白いシャツをぶかぶかとだぶつかせて着ていた。いくら女性にしては身長の高い方である彼女でも、それより背の高い出雲のシャツでは大きすぎる。ボタンをいくつか留めて、スタイルのよい身体を出雲の匂いのするシャツですっぽりと包んでいた。
「…………、コッテコテというか、ベッタベタやな……」
「ベターというのは、多数の人間に賛同が得られるということだぞ?」
「そうですね」
「つまり、そう、あれだ。欲情してくれても構わんのだぞ?」
「うっさいわ」
 妖艶とは程遠い、からりとした笑顔を見せるの頭をくしゃりと撫でる。出雲より一つ年上の彼女は、年齢にそぐわない――否、性別にもそぐわない、少年のような笑みを浮かべることがある。出雲はそれが苦手だった。何も言えなくなる顔、というやつだ。仕方が無いので、ごまかして逃亡する。もそれはしっかりと認識しているらしく、逃げ出した出雲に食い下がることは無い。楽しんではいるようだが。
 もうあの格好には文句がつけられなくなってしまった出雲は、極力無視するしかないのだ。そんな元気はすっかり昨晩使い果たしてしまったのだから。日が昇ってまで、というほどタフではないし、いやできないことではないけれど、そこまで本能に素直過ぎるのもいかがなものかと思っている。
 を置いてキッチンに戻り、自分の為にベーコンを焼く。は肉を嫌う。脂っこいものでなければそこそこ食べられるらしいが、無理に食べさせることもないだろう。逆ならもっと問題視するが。
 そういえば、野菜全般ダメな彼はちゃんと食事しているのだろうか。ふと気になったところに、がやっぱりシャツ一枚で現れた。
(やっぱあかんってそのカッコ……)
 じとりと睨むも、けろりとかわされた。食えんやっちゃな。そんな女を食っているのは間違いなく自分なのだが。あるいは食われているのだろうか。
「うん、匂いを嗅ぐと腹が減るな」
 自分の分のプレートを見て嬉しそうに言う。「お前の作った料理は美味しい」が口癖に近いも人並みに料理が出来るはずなのだが、矢張り出雲のそれをねだる。料理は嫌いではないから、素直に可愛いことだと思う。
 出雲のプレートにこんがり焼けたベーコンを乗せて、トーストを脇に添えれば完成だった。二人同時に「頂きます」で食べ始め、二三真面目な話をしながら食事を進め、「ごちそうさま、美味しかったよ」「そら何より。お粗末さまでした」で締める。出雲が片付けようとすると、が横から役目を掻っ攫っていった。
「放っておくとお前は全部やってしまうな、これぐらいは私がやるよ」
「ほな、お願いします」
 テーブルに戻って、コーヒーの香りを楽しみながら、タンマツをいじり時折皿を洗うの後姿を眺める。
(……ロマン、そうロマンやけども……あっかんわ、それ)
 何度も何度も繰り返し、自分のシャツだけ着ている彼女を見て思う。いつも背筋をピンと伸ばして凛としているの、甘えのようなものだと思うと確かにかわいらしいのだが。
 いつもの薄化粧のない顔も、寝起きでくしゃくしゃなやわらかい髪も、知っているのは自分だけなのだろう。出雲はなんとなくそう確信している。の周りに、他の人間がいるようなことが全く想像できない。故意か偶然か彼女が隠しているのかもしれないが、それならそれで、問い詰めるようなことでもない。だからこれは、想像上の優越感に過ぎない。
 ちらりと覗いた内腿に、自分のつけた痕を見つけてしまって、出雲は大きな溜息を吐いた。しかたない、そうしかたないのだ。昨日は大分ご無沙汰だったのだ。彼女は仕事の都合で飛び回っていたし、自分だってしばらくごたごたしていたし。いやだから、しかたないんやって。
 元々知った仲ではあった。鎮目町の裏側で起こるあれこれに、彼女ほど詳しい人間はいない。その情報を頼ったことは数え切れないほどある。ただそのなかで、たまたま互いにそういう気分のときに、そういう関係になって、……何が良かったのかと問われれば、身体の相性がとてもよかった。ベッドの上だけの意味でなく、総じて相性が、少なくとも出雲にとっては良かった。彼女の香りも自分の鼻に心地よくて、指先も絡めるのにちょうどいい細さと長さをしていて。耳をくすぐる声も、自分を見上げる瞳も、吸い付いた肌も、――身体と五感のすべてにおいて、最高に良かった。身体を繋げるにも、同じだったというだけだ。ぴったりくっつくのが当たり前の、そういうかたち。それをパチリと合わせることの幸福感に、自然と吸い寄せられている。
 どういう関係なのかと何度か聞かれたこともあるが、うまい言葉がいまいち見つからなくて困っていた。けれどすぐどうでもよくなった。に言わせてみれば、「名前なんてどうでもいいじゃないか」ということらしい。恋慕と呼ぶには可愛げがない。身体だけだと断言するのは味気が無い。ならばそれ以外の何かで、誰かにそれを伝えるための呼称など不要だろう。出雲との関係は確かにそこにあって、それはそこにしかないのだから。
 そんなことを、シャツ一枚のの後姿を見ながら出雲はしばし考え込んで、決意した。そんな気分になってしまったのだ。もうええわ、どうにでもなあれ。後で連絡して、店には一日クローズの札を下げてもらおう。こういう日があってもいい。あんな格好をしているのが悪いのだ、多分。
 洗い終わってシンクもすっかり綺麗にしたを、後ろから抱きしめ、肩に顎を乗せる。「おや?」と疑問符を浮かべながらも、は出雲に身体を預けてきた。
「どうした、珍しいな草薙。甘えん坊か?」
「なんやそれ。……まあ、それでええわ。そういう気分ってことで」
 抱きしめるにもちょうどいいサイズだ。小さすぎず、大きすぎず。そのままキスもできる。ぴったりとしていて、それでも自由の利くゆとりがある。それが出雲には心地いい。
「お前は本当いい女やな」
「いい男に言われると嬉しいよ。……今日はもう、御免じゃなかったのか?」
「あれや、我慢しすぎるのも身体によくない言うやろ。一日休業や、完全なるオフ」
 少し顔を動かすと、察したのかも動かす。そうして軽く唇を合わせ、音を立てて離す。はくすりと、それはそれは艶っぽく笑った。
「ならば私もそうするか。うん、そうだな。まずは……一緒に風呂に入りたいな、出雲」
 草薙と呼ぶときよりも柔らかい音が、出雲の耳を刺激した。 

( この世の二つとないあなた )


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