ノーセンキュー

 それはとても美しいモノである。きれいというよりも、美しい言葉がしっくりくる。妖艶と言ってもいいかもしれないが、それにしては温和が過ぎる。美しさが、怪しさで香り付けされたようなひと。なるほど、夜闇の獣である。ケダモノである可能性も否定しきれないが、称する言葉とは裏腹に穏やかで聡明だ。それでも獣を思わせるのは、その赤い目と得体の知れない奥底のせいだろう。飄々として優しげであるのにどこか、いやどこをとっても、妖しさが静かに滲む。そういうモノ。そんな獣の長い睫毛を眺めるという愚かしい時間。暗い部屋で見るその寝顔は、まるで死に顔だ。
 呼吸に合わせて胸が上下する。そこに手のひらを宛がうと、規則正しく鼓動が手に響く。今日もこの獣は生きているらしい。こんにちわ、くそったれな世界。わたしは毎度毎度手を伸ばしては、世界に舌打ちをする。それを安らかな顔で素通りする獣がこんなにも憎らしい。
 極めて小さく名前を呼ぶ。これも約束なのでしかたない。わたしが負けたのか、それとも勝っているのか、甚だ疑問である。小さな音では獣は返事をしない。否、呼ばない名前で呼ぶからだと、わたしの冷たい指先が、わたしの代わりに獣の頬を撫でる。爪がささやかに睫毛に触れる。そんなことが出来るぐらいに無防備で、長い睫毛。流石に獣が身動ぐ。
「おはよう、朔間。お昼の時間だよ」
 黒い睫毛に縁取られた赤い目にわたしの姿が映る。輸血パックも驚きの赤さで、暗がりの色にはわたしの表情まではわからない。わたしに解ることと言えば、寝起きの唇がきれいな弧を描いたことぐらいだ。
「お主の顰め面は寝覚めにいいのう。おはよう」
 わたしの代わりに朔間を起こしたわたしの手が取られて、引っ張られる。もっていくのは手だけにしてほしい。その手はいいかもしれないが、わたしにはいい迷惑だ。こんなものと一緒に棺桶なんてごめんである。わたしの意志の下に手を引き戻す。変わりにもう片方の手を差し出した。購買の紙袋。
「おお、ありがたいのう」
 目を細めたそれは、受け取った暖かい紙袋に手を突っ込む。ご要望に添えたようで、わたしが買って来たランチを朔間は意気揚々と食べ始めた。きらいなもののひとつでも買ってやってもいいのだが、どうもそこまで嫌がらせをする気にはならない。なんと言えばいいか、そうした結果の方が面倒そうだなと思ってしまう。結局、彼が好き好む昼食を買ってきてしまうのだ。カツサンドとか。
 寝起きにも関わらず、朔間はもりもりカツサンドを食べる。自販機で買っておいたトマトジュースにストローを刺して渡す。代わりに紙袋を受け取って、その中に残っているわたしのランチを取り出した。随分と慣れてしまった流れだ。
「今日で終わりなんだからね」
「おや、明日も明後日も、持ってきてくれてよいのじゃよ?」
「いやよ、そんなの」
 奢る約束は一週間だ。次の勝負をするかはわからないが、そのときはぜひともわたしにランチを奢ってほしいところである。わたしが勝てばいいという話。クラスが別なので、次の小テストがいつになるかもわからない。自然と一週間もお昼ごはんを奢らされたことに不満が浮かんで、クリームパンの甘さが遠くなった気がする。牛乳で飲み下す。
 食べ終えたカツサンドのゴミを、くしゃくしゃと丸めて紙袋に突っ込朔間は、何故か毎日この時間、軽音部の棺桶の中でわたしを待っている。授業はどうしたんだという質問は、いわゆる『三奇人』にするにはとても無駄だろう。特に、この吸血鬼には。わたしが心配することでもないのだ。なのに小テストを受けてわたしより点数が上だったことも、知らない知らない。
「素っ気無いのう……」
 わたしからクリームパンの包み紙を取り上げて、やれやれといった風情で朔間は溜息を吐く。包み紙は、彼のそれと同じように紙袋に吸い込まれた。
「あなたに優しくする理由が思いつかない」
「だからと言ってもとからデフォルトで持っている優しさにマイナスすることはないと思うんじゃが……こんなに好いておるのにのー」
 わたしのクリームパンは、最後の一欠けもなんとかわたしの胃袋に納まった。ごちそうさま。むせたけど。
「別に信じてないわけじゃないけど、そういうのを滑り込ませるのはずるいと思う」
「ムード重視かの?」
「そういう意味なら二人っきりの陽の指さない部屋は最高でしょうよ」
 あと、棺桶から出てくれるともっといい。そもそも軽音部の部室に棺桶って、いや今更だけど。
 手放しに信じられるほど誠実さを表に出す男ではないが、それでもそんなことを信じないわけじゃない。タイミングの問題もあるし、何せこの男は愛情を振りまくのが上手なのだ。上手というか、愛情を注ぐ口の用意がいっぱいあるというか。博愛ではないけれど、慈愛の対象が多いというか。彼がわたしに向けて言うそれが、慈愛でないこともまあまあ承知している。
「知ってるからもういいのよ。変わったときに教えてくれれば。睦言はベッドでどうぞ」
 空になった牛乳のパックを揺らす。ストローがくらくら揺れる。逆に、朔間はまだ残っているらしいトマトジュースを一口飲んだ。
「繰り返しに意味はないと? 積み重なって価値のあることもあろうよ。わしはそれが好きなだけじゃ」
「ならそれで喜んでくれるひとにどうぞ」
 紙袋を取り上げる。牛乳パックを紙袋に仕舞いこんで、じゃあね、と立ち上がる。――のを、朔間零は許してくれなかった。
「嬉しくないならそう言ってくれてよいのじゃよ?」
 ああ、このひとはほんとうにいやだなあ。一週間よくもったものだ。そもそも、心臓に悪い。たちが悪い。そしてわたしの意地が悪い。ここを折れてやる気は全くないので、彼が変わってくれることを願うばかりである。
「ばかね、嬉しくないなんて誰が言ったの」
 無駄を積み重ねるのが恥ずかしいと、素直に言わせる気か、このやろう。