夕方、幸福の人

 その部屋は、放課後なのに静かな一角にあった。紫之創は、ここまで持っていたわずかばかりの期待が不安に塗り替えられていくのを感じた。長い廊下には他の誰もいない。夕陽ばかりが差し込む校舎にひとりきり。恐ろしいとか、寂しいとか、そういう気持ちではない。切なさみたいなものが、西陽と一緒に心に染み込んでいって、通り抜けていかない。やはり一人でくるべきではなかっただろうか、けれど特殊な学園であるが故に入学以前の友人はいないし、クラスメイトはもう入部先を決めていて、どうやってもひとりでくるしかなかったのだ。他の部活に入る選択肢は勿論存在する。そもそも、この名前からあまり『活動』を想像できない部活動は、部活動紹介にも現れなかった。諸事情により部長が不在ということで、簡単な紹介文のみでスキップされていた。そんなところに興味をもてという方が難しいはずだが、幸か不幸か、紫之創は持ってしまったのだ。
 その名も『紅茶部』。ほんとうに、なにをするところなんだろう。
 紅茶がすきである。飲むのももちろん、淹れるのも楽しい。加えて誰かのために用意することを、創は厭わない。夢ノ咲学園アイドル科は部活動への加入が必須になっているが、そのなかで好きなことをできれば最高だなんてことは、誰だって考えることだろう。自分の好みにあって、スキルが使えて、その向上も見込める。そうなると、この部活はきっと最適なんだと思う。
 学校案内にしたがってやってきた部屋の前で、右と左を確認する。どういった事情が、他の文科系部室とか階層が異なってぽつんとあるここは、やけに静かで人通りもない。静かにお茶を飲む、ということなら最適だろう。静穏であり、遠くからかすかに生活音が聞こえる。運動部の声、他はこうやって活動をしていることをいやでも理解させられる。けれど、ここは静かだ。この部屋に限定すれば、とても静かで誰かいる気配もない。
(どうしよう、やっぱりちょっと、不安かな……)
 素直に部活動見学をさせてもられば、と思って訪れたものの、早計だったのかもしれない。少なくとも、担任の教師に相談ぐらいはするべきだったと思う。
 やっぱり帰ろう。そう決めるのも無理はなかったけれど、他に興味のある部活と言ってもピンとこなかった。
「あ」
 創の口から短い音が出たのは、部屋から小さな音がした後だった。誰かいるのだろうか。それならそれで、もう少し気配がしてもいいと思うけれど。もしかしたら、窓でも開いているのかもしれない。確認しよう、人の良さが創を動かした。
 深呼吸を挟んで、ドアをノックした。返事はない。やっぱり風が音を立てているのかもしれない。ドアノブに手を掛ける。板チョコレートみたいな色をしたドアは案外簡単に開いてしまって、創を戸惑わせたものの、腕の勢いは止まらなかった。
「し、失礼しま、」
 息を飲むという言葉を実感したのはそこだった。
 夕陽の差し込む窓辺に丸いテーブルと統一されたデザインの椅子に腰掛けて、誰かが本を読んでいる。完成されたようで、おかしいところばかりのそれは創の心を呆けさせた。あまりにも意外なことが多すぎた。ひとがいたことにもびっくりしたし、その佇まいが――有り体に言えば、きれいだった。勿論、アイドル科の人間なんて、みんな何処かしらよいところがあるに決まっている。自分のような入ったばかりの一年生ならともかく、上級生なら尚更だ。それにしても、それは一枚の絵画のような、完成したものでありながら、そこに収まらない波紋を延々と抱いている。
「あら、」
 その完成されないモノは、開いていた青いブックカバーの文庫本から顔を上げて、創を向いた。長い髪が、夕陽に晒されて神秘の色を湛えている。
「あ! あ、あの。ここは、紅茶部で間違いないでしょうか?」
 緊張を抑えて質問する。上級生のネクタイをしめているその人は、最初よりも更に驚いた顔をした。
「きみ、もしかして入部希望? 部活動紹介パスしたのに」
 意外そうな顔をして、椅子から離れる。持っていた文庫本は、テーブル上のティカップの隣にそっと置かれていった。
「まあ、こんな状態だから歓迎だけどね。こんにちわ、ここは、紅茶部で間違いないよ」
 朗らかに微笑むそのひとは、どうみても女性なのに、男子制服を着ている。
「あ。ああ、そうだよね。一年生だもんね。今年は説明会でもわたし達は登壇しなかったし。まあ、まずはこちらにどうぞ。立ち話はなんだし、なんと言っても紅茶部だし……」
「は、はい! お邪魔します」
 迎え入れられて、ふんわりと紅茶の香りが創を刺激した。彼女が使っているカップから漂っているらしい。いいにおい。緊張していた心が、ほんのりとほどけていく。
「ごめんね。紅茶部と言っても、今日は……というか、今はわたしひとりみたいなもので」
「あの、部長が不在だって、部活動紹介では……」
「そう。入院してるんだよね。あと、もう一人いるけど……幽霊部員っていうか、なんていうか。とりあえず今日はいない。しかも、もっと悪いことに、わたしはその部長にまかせきりだったので、きちんとした紅茶の淹れ方を実はわかっていないのです」
 今もティーパックなんだ、と苦笑する。ふと室内と見渡すと、しっとりとして美しいティセットが、棚に丁寧に並べられている。別の棚には、同じように紅茶の四角い缶が、結構な数揃っていた。わくわくする。いったいどんな香りがして、どんな色を出し、どんな味わいを持っているのだろう。それだけで、創の緊張はすっかり飛んでいった。
「…………ねえ、」
 それが、彼女にも伝わったのだろうか。
「きみ、わたしの代わりに紅茶淹れてみる?」
 あとから聞いてみれば、「紅茶缶を見てるとき、部長と同じような目をしていたから」なんて理由だったらしい。言われるがままに紅茶を淹れて、結局翌日には入部届けを提出したのだから、早いか遅いかの違いでしかないけれど。
 創の淹れた紅茶を、そのひとはとても美味しいと喜んだ。部長が不在になってから、面倒くさがってティパックですら淹れないこともあったという。ただ好みはあるようで、ニルギリがいいと、創が希望の紅茶缶を手に取ってからも何度も繰り返した。やっぱりちゃんと覚えないとだめね、なんて笑う。喜んでもらえて嬉しくて、創も笑った。淹れた紅茶は美味しい。
「落ち着いたし、ちゃんと部活の話をしようか。紅茶部はそのまま、美味しい紅茶を飲んでゆっくりしようってところだけれど、――まあ、部長のわがままで作られたようなものだけど――今は見たままの状態なんだよね」
「部長さんは入院されていて、あと、幽霊部員さん……?」
「そう。幽霊っていうか居眠り部員っていうか。ひとりで部活動もなんもないっていうか、ふわふわしてて特に何もやってない。さっきみたいに、ひとりで本でも読んでるくらい」
 そんな彼女の言い分とは別に、その表情は寂しそうではなかった。物足りなくも、切なくもない。むしろ、幸福を噛み締めているような、微笑み。たったひとりで部活動をする、それがなんの苦でもないようだから、創にはその表情がふしぎで、だからこそ放っておけないものに見える。
「先輩は、どうしておひとりでも続けてるんですか?」
 不躾だっただろうか、無遠慮だっただろうか。創にはどちらかわからない。それでも、聞かずに入られなかった。カップから立ち上がった湯気が、創を後押しするように掠めていく。彼女のカップからも、同じように湯気が上がっていた。湯気の通った先の表情は、少し悩むようでもあった。
「んー……、そうだねえ」
 紅茶の香りが充満する部屋で、彼女は目を細める。スラリとした中指に嵌っている指輪が夕陽を反射して、創の眼を一瞬だけ眩ませた。
「ここを作った部長って、こんな部活作るぐらいだから、紅茶が大好きなわがままさんなんだよね。部活がなくなったって言ったら、可哀想でしょ?」
 それだけだよ。と彼女は紅茶を楽しむ。淹れ方もよく知らないし、面倒が多いと言いながらも、ここはすきだと言う。その理由を、創は知らない。きっとこれから知るとしても、彼女とは違うものになるだろう。それだけ、彼女と創は随分と違う人間だとこの短い時間でも解る。
 理由は、知らない。知ったとしても、彼女のそれとはきっと違ってくる。別の人間だから。それでも、それが素敵だと思ったのは本当だ。
「先輩は、ここが好きなんですね」
 そういうと、彼女は照れくさそうに微笑んだ。