穏やかで瑣末な夢

 朝日の滑り込まない朝がまたやってきた。
 寝覚めの悪い性質のため、寝る前には朝日が入るように開けてあるカーテンが、今日ばかりは閉め切っている。お蔭様で覚醒が遅く、目を開けてもすぐ閉じてしまいたくなる。本日、は閉店です。日曜日だし問題ない。日曜日に仕事が入ったらそのときは休日開店するけれど、今日はまるで入っていないので問題ない。個人レッスンもユニットの用事もない。ただのの日曜日。
 一人寝には大きすぎるベッドに両足を伸ばす。掛け布団に包まれた闇は、昨夜から引き続いた温度を保温し続けていて、暖かくわたしの足を飲み込んでいる。幸せな闇に浸って、薄暗い部屋の中で飛んでいった夢を探す。おやすみ世界。こんにちわ夢の中。
 それを許さないのが人間の身体であって、正常にやってきた空腹は、わたしを夢の中に逃がしてくれなかった。おなかすいた。しかたない。たくさん食べるのもわたしのお付き合いしていかなければならないわたしの性質だ。その分身体を動かさなくなったときのことが怖いが、未来のことは考えないことにする。
 空腹と人間らしい生活の為にぬくもりから這い出るか、貪欲な眠気に身を任せるか。どちらも決められないまま、不安定にベッドの中に居続ける。このままだと結局どちらも得られないのだ。自然と、からからの喉から呻き声が出た。その後ドアノブが回る音。
「おや、……まだ起きてないみたいだね」
 部屋に入ってきた柔らかい声が心地よかった。知った声はいつもと変わらない、温和で優しい音をするくせに、やることは極悪だ。それがわかっていて、わたしはたぬき寝入りを決め込む。そのままほんとうに眠ってしまって、ベッドの温度が下がっていたら起きればいいのだ。からからの喉で唾液を静かに飲み込む。おなかすいた。
 声はわたしの近くまでやってきて、冷たい手でわたしの頬に触れる。つんつんしてくる。やめないかそういうことは。こっちは寝るって決めてるんだ。けれど残酷なことに面白いらしく、しばらく突いていたかと思えば髪をかき分け、耳の裏に指の腹を添わせたりしてくる。ぞくぞくと嫌が応にも思い出されて、しぶしぶ目を開けた。何をされるかわかったものではないのだ。
「おはよう、
 柔らかい金の髪が、閉め切った暗い部屋の中で眩しく揺れる。きれいな顔がいつもと同じ笑みの形を作っている。その首に噛み付いたのは先週だったか、その前だったか、もしかしたら昨日だったかもしれない。思い出せない。薄青のシャツの襟に、隠れきれずにちらちらと見える。(かみつきたい)そう思ったから、きっと毎週かみついているに違いない。
「……え、ち」
「それは名前かな? それとも非難? どちらでもまあ、間違っていないけどね」
 からからした喉と口からは、起き抜けらしく舌足らずな音が出る。彼の言うとおり、どちらも間違ってない。昨日わたしの足の甲に落とした唇を、今度は額に触れさせる。滅多に唇に合わせて来ないことが、この男の意地の悪いところだ。わたしの周りには、何故か意地悪ばかりがいる。
 そして目の前の意地悪は、いやもう、意地悪というより残酷なのだ。わたしから布団をひっぺ剥がすのだから。
「僕はシャワーを浴びてくるよ。その間に起きていてくれないかい?」
 朝ごはんが食べられなくなってしまうからね、と布団をなくして飛び起きたわたしの、今度はつむじにキスをする。週末の天祥院英智は、きっとキス魔なのだ。呼吸をするようにキスをする、キスをしないと呼吸できないのかもしれない。夢ノ咲の支配者さまは、その肩書きと裏腹に甘えん坊だ。
 彼は持ってきたらしいわたしの服を寄越して、そのまま手を振って部屋から出て行った。扉が開けっ放しなのは、二度寝を許さないという無言の圧力だ。おそろしい。そこが開いているだけで、ぐっすりなんて眠れやしない。わたしは眠気にさよならするように、薄着のまま遮光カーテンを開けた。眩しくて、布団の中の気だるい温度とは違う暖かさだ。天気のよさが憎い。カーテンを開けたまま、寄越された服を着る。英智はふしぎなことに、起き抜けで身支度をろくに整えないわたしを気に入っており、寄越した服も彼が着ていたシャツやスラックスに比べると、否、比べる必要もなく、だらしない格好だ。それでも上等なものを渡している辺りが、アレが御曹司という計り知れない存在である事実の証明だろう。渡された服はわたしのものでもない、彼のものでもない。そのキャミソール達は、わたしに着られて初めて、わたしのものになる。
 明るい日差しの中で着替えを済ませれば、すっかり眠気はどこかに行ってしまった。大きな窓の向こう、ベランダに出て見渡す。閑静な町の朝は静穏で、ずっと眺めていてもろくな変化もありはしない。それでも飽きがこないから好きだ。夜よりも朝の方が好ましい。昼間は人が増える。夜は、あまりにも静かすぎて恐ろしくなる。だからベッドに潜り込むのだ。
 ベッドに戻り、サイドテーブルから鏡を引っ張り出す。こんな顔であんなきれいな英智と向き合ったと思うと、あまり良い気分ではない。だから起こしにくるな、おんなにやっていいことではない、と繰り返しても、彼から返って来る答えは、耳障りのいい言葉で修飾されたノーなのだ。
「意地悪め」
 たぶんあれは意地悪と、充足によってあんな言葉を吐いてくるのだ。こちらも気も知らないで。愛する喜びと愛される悦びで赤い斑点が浮んだわたしの首周りは、その意地の悪さの証に他ならない。取り留めなくそれに指を這わせていると、小気味いい鼻歌がかすかに聞こえてきた。鼻歌にしては抑揚が激しいのもいつものことだ。
 サイドテーブルに鏡を置き去りにして部屋を出る。先に顔を洗いたかったから、英智がシャワーを浴びているのを承知で洗面所に向かった。彼はわたしの侵入に気がついたようだが、水が床と彼を打つ音に特に変化はなかった。洗面所に二人というのもおかしな話なので、顔だけ洗ってさっさと出て行く。後のことは後のわたしに任せる。なんにもない日曜日の、なんにもないは、いつもにまして大雑把だ。
 廊下とリビングを仕切る扉を開けると、鼻歌はとうとう大きくなる。それまでは届かなかったお味噌汁の匂いが飛び込んでくる。対面式のキッチンでは、わたしの姿を認めたおとこが長い髪を揺らして笑っていた。
「おはようございます、。いつもよりも、ほんの少しだけ、早い起床ですね」
「英智の起こし方がひどいのよ。布団を剥がすんだから」
 それはそれは、と同情するような言葉を、面白いものを見る顔で吐き出す。彼も彼で意地悪である。その横を通って、冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出す。からからの喉はようやく訪れた水分を、勢いよく飲み下した。 
「渉、お味噌汁は?」
 答える前に鍋を覗き込む。味噌が溶かれたそこには、ジャガイモが見受けられた。
「これから絹さやを入れて、完成です」
 朝から絹さやのすじをとっていたんだろうか、このわたしに向けてウインクをした男は。わたしたちが起きる頃にはすっかり身支度を整え、早いときには英智が起きる時点で既に朝食を作り終えていることもある日々樹渉の所業は、付き合いがあってもてんで予想がつかない。朝ごはんを作っているだろう、ぐらいしか正解しない。一番遅く起きてきた罪悪感もないわけではないので、そのまま、昨日買っておいた漬物を適当な大きさに切る。渉は漬物も自前のものを用意にしたがるが(ほんとうに自宅で漬けていそうだから、困る)、生憎とわたしにもお気に入りというものがあるので、ここはわたしのわがままのごり押しだ。基本的に朝食はわたしの趣味である。朝は和食がいい。きっと二人はトーストにハムエッグにサラダにスープとか、そういうものの方が好きそうだけれど、何も言わない。昨晩貪っていった礼とでも言わんばかりに。
 ご飯が炊き上がった音がして、ますますおなかがすいた。匂いなんて最早暴力で、シャワーから戻っていた英智が水も滴るなんとやらというのもそっちのけでご飯を盛る。これもすっかり役割分担されたことだ。今日は漬物を切ったけれど、私は朝食の準備をほとんど手伝わない。彼らがしたがる、というものあるけれども、そうやって、私が食べたいといった朝食を作る彼らを見るのが楽しかった。昨日、漬物と一緒に買ってきた鮭の切り身がこんがり焼けて目の前に現れる。白いご飯に、絹さやとジャガイモのお味噌汁。ほうれん草のおひたしと、今日のお漬物はナス。渉がきれいに焼いた卵焼きがあって、朝食は完成した。英智の白いお茶碗と、渉の青いお茶碗と、わたしの桃色のお茶碗は、渉がにこにこ笑ってもってきたものだ。夫婦茶碗はよく聞くが、同じデザインを三つ用意するなど、店員からすれば、家族のそれであっただろう。
「いただきます」
 三人で、手を合わせて食事を始める。食事の間も渉は賑やかで、わたしがそれに文句をいれて、英智はくすくす笑っている。毎週日曜の、ゆっくりした朝だ。それはまさしく家族のようであろう――けれど、わたしたちは決してそんな優しくて温和なものではない。
 いつも美味しいお味噌汁。五臓六腑に染み渡るというものだ。これを毎週飲むようになったのも、ついこの間からだ。わたしたちはわたしたちの都合と、事情と、愛情を寄せ集めて集まる。用意したこのマンションの一室は、わたしのものでも、英智のものでも、渉のものでもなく、三人のものだ。週末を過ごすだけの部屋。満ち足りた、嘘偽りのない空間。日曜の夕方までの平穏。日が沈めば終る幸福は、けれど、また土曜の夜に再会する。
「今日は、どこかでかけたい気分」
「いいですねえ、この際、遊園地なんてどうでしょう? 手を繋いでお化け屋敷で絶叫したいですねえ」
「渉のせいで、スタッフさんが絶叫しそうだね」
 そういって、英智はふた切れの卵焼きの一つを半分に切った。やわらかい笑みの形をした唇の奥に吸い込まれていく卵焼き。同じものがわたしの皿にもある喜び。それを焼いたのは渉であるという喜び。わたしはそんなものを享受するためにここにいるのだ。
「遊園地は忙しなくなっちゃうからなあ。でかけたいけど、のんびりしたいよ」
「ウィンドウショッピングもいいかもしれないね。、ほしいものがあるって言ってなかったかい?」
「ああ、そうだった。夏にも使えそうなストールがほしいな」
 大型のショッピングモールに行くことが決定した。それよりもわたしはシャワーを浴びるべきなのだが、いかんせん絹さやのお味噌汁がわたしの中で大ヒットしてしまって、おかわりまでした。英智は朝からたくさん食べる方ではないし、渉は食べているところを見ているはずなのに、気がついたら食事が終っている。起床もそうだが、わたしが一番遅いのである。お代わりしたお味噌汁を飲み干して、一際遅れてごちそうさま、とお椀を片付けた。
「お店は逃げないから、ゆっくりしておいで」
 英智はいつもどおり、紅茶を淹れる支度をしながらわたしのシャワーへ送り出した。渉はいつの間にかやっつけていたらしい昨晩脱いだ洗濯物を干して、ご満悦だ。多才なおとこである。というか、なんでもやるおとこである。家事全般はきっとわたしより効率がいい。結婚したいようで結婚したくない。
「じゃあ、お言葉に甘えます。わたしの分はいいからさ」
 三つ分のティカップを用意しようとする英智を止めて、わたしはシャワーに急いだ。使われたばかりのシャワールームは、まだ容易くお湯を吐き出してくれる。頭のてっぺんから爪先まで被ると、満腹感に助けられて忍び込もうとしていた眠気がやっぱりどこかにいってくれた。昨日も、眠る前に長湯をしたけれど、なんとなくベッドの熱が抜け切れてない気がして、しっかり全身を洗い流した。泡をすっかり流し落としたわたしは、鏡に映るには少々淫靡だろう。それもこれも、あのふたりが残していった赤のせいなんだけど。
 あれは、英智の、提案というよりも、わがままだっただろう。渉はそれに楽しげに頷いて、わたしは、少しだけ考えたけれど、結局是と返した。そういうことだ。わたしたちの、わたしたちのまま一緒にいたいというわがままは、わがままというだけあって強欲で、わがままと言うには控えめだろう。時間にして二十四時間、それをわたしたちだけで過ごすということ。きっかり二十四時間とはいかないこともある。個人の事情があることもある、ユニットの事情が挟まることもある。わたしたちはこの二十四時間を在り難がる割に、決して最優先にはしない。だが、何があっても夜から朝にかけてはともに在ろうとする。それがもっとも重要な時間だからだ。
 学園からも、それぞれの住まいからも遠い此処で、わたしたちはわたしたちの肌に触れての喜びを得る。歪に繋がり合う。たぶん、あのふたりをあわせれば、わたしの身体の触っていない部分なんてほとんどないんじゃないかと夢想するぐらい。夢想、そう、夢のような、夜と朝を迎える。夢ノ咲の支配者でも、恐れられる三奇人のひとりでも、特異なユニットのアイドルでもない。わたしたちはわたしたちとして、愛して、愛されて、きっとそのとき、わたしはおんなのわたしになるのだ。誰かを愛するおんなであって、その誰かに愛されるおんなである。その誰かがあのふたりだという、それだけの話。
 それだけの話をするのに、こんな遠くに、こんな部屋を用意しなければならないことが、どういう意味をもつのかわたしたちはよく知っている。
 耳の裏側を水滴が滑るのを感じた。英智が好んで愛撫するところ。
 ――卒業するそのときまで、
 最初に英智が言ったことを、わたしはひとりで、小さく、まるで呪文を教わったようになぞる。
「卒業するそのときまで、ままごとをしないかい」
 コックを捻って、お湯を止めた。ぴたりと音が止んで、わたしの独り言はシャワールームを埋める湯気の中に消えた。
 あの言葉を英智がどんな顔をして言ったのか、わたしも、渉も、全く思い出せないのだ。
 ぱたりと、熱くない雫が床に落ちた音がした。