「はい、ありがとうございました!」
 ぱたん。朗らかな笑顔とともにドアが閉じられる。その隙間から見えた幸せそうな空間には少し嬉しくなって、一日走り回ったというのに疲れも見せず歩き出した。軽い足取り。鼻歌でも歌い出しそうなぐらい機嫌が良い。見上げた茜色の空に夕餉の匂いが溶け込んで、色も無いそれが夕暮れを一層夕暮れらしくしていく。――は今、猛烈に幸せだった。ひとの笑顔を見れるのは、とってもしあわせなこと。少なくとも、彼女にとっては。
 道行く人の邪魔にならない程度に浮かれながら帰路についていると、夕焼けの空の中にぽつんとそれが浮いているのに気付いた。それは見知った影であり馴染んだ姿であったため、空を飛ぶ彼に聞こえるように、声を張る。仲間内でも一際小柄な彼の後ろ姿はしかし反応することなく、が二三度同じように声をかけても同じであった。
 彼――スオウは何を見ているのだろう、生まれのせいか少し違った目線を持っている子だから、の思いもよらない素敵なものでも、見つけているのかもしれない。そう思うと、その素敵なものを、是非とも共有したくなる。は大きく息を吸い込み、叫ぶ。
「すーおーうー!!」
「えっ、なに、……あ、?」
 先ほどとは比べ物にならないぐらいの大きな声に、流石にスオウも気がついて、少しひっくり返りそうになりながらを見下ろす。ようやく見せた反応に嬉しくなったは大きく手を振った。スオウが素直に降りてきて地面に足をつける。今度はが見下ろす側になる。
「何度も呼んだよ」
「ごめんなさい、考え事してて……」
「降りてきてくれたからいいや。配達終わった? なら一緒に帰ろ」
 にしてみれば、幸せな気分のときに幸せの共有をしたい相手を見つけたので、ごくごく自然なことだったのだが。スオウは大きな目をさらに丸くして見せて、一拍置いてから頷いた。
「考え事したいのなら、いいよ?」
「ううん。ぼくも、と一緒がいい」
 そっか。は微笑む。それはとても嬉しいことだ。指を絡めたいぐらいに。


「ねえ
 それは、ぼくにとってとても不思議なことだった。
 はそれをとても自然に行う。けれどスオウにとってはなになのかがわからない。だから、そういった不思議に直面する度に、彼は彼女に質問する。彼女はできるだけ答えてくれる。解らないことは解らないと言ってくれる。全部わかる人ももしかしたらいるかもしれないが、それは自分じゃないことだけは確かだと言う。彼女の答えが、スオウの答えと同じとも限らないとも言う。
「なあに?」
 けれどそれでも、はいたって真面目に答えてくれるのだ。
「どうして手を繋ぐの?」
「? いつもしてるよ?」
「どうしていつも手を繋いでいるの?」
 のそれはとても自然である。スオウはそれが自然であるのか、おかしいのかは解らない。は元々スキンシップの多い方のようだし、スオウ以外にも、年齢性別問わず行う。息するようにひとと触れ合う。けれど、手を繋ぐのは自分だけらしいと気付いてからは、やはり不思議なこととなった。それは決して、わずらわしさからくる疑問でないことも、彼女には伝わっている。
「うんとねー……繋ぎたいからじゃだめ、かな?」
「……どうして?」
「えーっとね、今日は、あたしとっても気分がいいんだよね」
「うん」
「すっごく気持ちよくって、幸せーって感じで、ほわほわーってするんだよね」
「うん」
「だから」
「……だから?」
「だから」
 そこで終わられてしまった。どうにも、これは彼女にも説明できないことだったようだ。だからと言って手を離すようなこともせず、スオウはの説明できない理由で握られた手をほんの少し意識する。あったかくて、ほわほわ。彼女が言った、ほわほわーってする、という感覚は、これだろうか。
「じゃあ、どうして気分がいいの?」
「ひとの笑顔を一杯見たからね!」
 そしてまた、とびきりの笑顔になる。
 スオウが知る限りにおいて、はよく笑いよく動く少女だった。年は十代半ばで、年齢よりもしっかりしているのに、なんだか印象が幼いというのはキザクラの談だ。くるくる回って二つのお下げを揺らしているのが毎日で、スオウは彼女のそんな様を見るのが楽しい。そう、彼女はとても、楽しそうに生きている。それがスオウは楽しい。
「スオウは、どうして今日たくさんお菓子――チョコレートを届けたかは知ってる?」
 こくり。
「キザクラに。今日は、すきな人にチョコレートを贈る日、なんだよね」
 今日は、そういう日らしい。そのチョコレートを手ずから作る人もいればプロの業を頼る人もいる。たった一人の為につくる人もいれば、たくさんの人に用意する人もいる。スイーツメイツはそういう経緯で、ここ数日目を回すほど忙しかった。実際回すわけもないが、それでもその表現が的確であるとスオウが理解するほど、忙しかった。ふたりの知るところではないが、帰宅すればツルギはブリンガーの隣でうなだれているし、ソラとロンはソファに身体を沈めて微動だにせず、ハガクレは疾風丸の羽毛に顔を突っ込んでいる。それぐらいに、配達を頼まれた面子は疲労していた。
「たくさんの人間が、チョコレートを頼んでたね。みんなうれしそうだった」
「そう! それです!」
 ビシ、と指を立ててが得意気な顔をする。スオウはつい目の前に突き出された人差し指を追って瞳を寄せた。瞬きする間に、はもう片方の手を腰に当て、何かを指導するかのように引き戻した指を振る。
「だから、あたしはとってもいい気分なの。配達先の人みんなが笑顔だったから!」
「……は、みんながうれしそうなのが、うれしいんだね」
 そういうこと、と彼女は笑ったので、スオウも微笑んだ。
「ねえ、」
「次はなんだい。どんと来い、できる範囲で! できなかったらごめん!」
「今日みんなが嬉しそうなのは、すきって言う日だからなんだよね?」
 行く先々、荷物を届けた先の人達がみんな笑顔なのは、今日がそんな日だから。チョコレートを届けたスオウにも笑顔を返すのは、ただ待ち望んでいたものがやってきただけでなく、その日という事実がやわらかい色をもって世界に浸透しているから。すきだと伝えることが、伝えられることが嬉しいからだ。
 ならば、
「すきって言うのは、今日じゃなきゃだなの?」
  それがスオウは不思議なのだ。すきだと伝えることがそんなに笑顔を生み出すことなら、もっと伝えたらいいのに。ツルギが言うような、幸せそうな生活に少しでも近づくのではないだろうか。難しいことはわからない、でも、そういうことじゃ、ないの?
「うーん……」
 いつものように、はスオウの質問に答えようとしてくれている。にもわからないことはあるだろう、に限らず、わからないことはあって当然だ。それでも、そんな難しいことを聞かずにいられないのは、自分の我侭かもしれない。けれど、
「あたしも言うのは恥ずかしいんだけど、」
 が応えようとしてくれることが、スオウはうれしいのだ。
「好きーって言うのは、結構恥ずかしいんだよね。悪い意味じゃないよ。ただ、素直に好きって言うのは、すごく緊張するんだよ」
「どうして……?」
「もしかしたら、相手は自分のこと好きじゃないかもしれない。自分だけ好きっていうのは、一般的には切ないことだよ。それは、わかる?」
「なんとなく……。は、どうなの? すきなのに、すきって思われてないのは、かなしい?」
「かなしいよ」
 彼女の口から、そういう言葉が出るのは珍しい。は少し困ったように笑ったから、スオウの胸がちくりと痛んだ。
「でも、なんていうかな、自分の好きを相手にも求めるのは多分我侭なのかもね」
「我侭……」
「そう、我侭だから、好きって言うのは恥ずかしいのかもしれない」
 こつりこつりと、二人の靴が地面を叩く。話し込んでいるせいか、一緒に歩き始めたときよりもテンポが遅くなっている。帰り着く先はまだまだ遠かった。飛んでいけば早いのだろうが、それをする気は全く起きない。
「好きって言うには勇気がいるんだね。初めて伝えるのはとても緊張するよ、いつも一緒にいる人に伝えるのも、なんだか今更で、気恥ずかしい」
「いつも一緒なのに?」
「いつも一緒だからさ。うーん、これはまたあたしには説明できないかも。ごめんね」
 ううん。むずかしいことを聞いているのは自分なのだ。それに、変な誤魔化しをされるより、無理なものは無理と言うはなんだかさっぱりしている気がして、スオウはそれがすきだった。
「勇気が要るから、こういう日に託けて言うんだろうね。勿論なんでもない日に勇気を振り絞る人もいる。でも、今日はそういう日だからって思うと、せっかくこんな日があるんだから、頑張ろうって思えるんだよ」
 ――すき。
 好ましいと思うこと。
「スオウはなにか好きなものある?」
「すきなもの……」
「なんでもいいよ。ひとでもものでも、色でも景色でも、音でも言葉でも」
「わからない。でも、みんなといるのは楽しい」
 一人でいるよりも。ほかの誰といるときよりも。ツルギ達といるのは、疲れない、つらくない、それに、とてもたのしい。
「じゃあ、それを言葉にしてみたらいいよ。まねっこまねっこ」
「いいの? ぼくはよくわかってないのに」
「いいのいいの。わかんないなら、真似してみたらいいよ。それで嫌な感じとか変な感じとかしなかったら、それでいいんだよ、きっと」
 彼女は目を細めて言う。いつもの笑顔よりもずっと真面目で、とびきり優しい。その根拠のない言葉はどうしてかスオウを納得させるもので、それ以上の疑問符を重ねることはなかった。
「よし、帰ったらみんなに言ってやろう! きっとみんな面白い顔して喜んでくれるよ」
 言葉をなくしたスオウの手に、がきゅう、と力を込める。強く握られているのに、窮屈さや痛みは少しもない。優しい力。
 それを意識したとき、唐突に、それは本当に前触れなく、すとんと軽い音を立ててスオウのなかに収まった。
「ぼく、と手を繋ぐの、すきだよ」
 その優しい握力が。そのやわらかい圧力が。とってもとっても、心地いいことに。
「あたしも、スオウと手を繋ぐの、好きだよ。とっても嬉しいときとか、気分がいいときとか、スオウにも伝わらないかなーって思って、手を繋ぐの」
「繋ぐだけで伝わるの?」
「繋がないよりは、伝わるような気がする」
 何もしないよりはいいと言う。うん、確かに、そんな気がする。
(なら、ぼくもうれしいときは手を繋いでみようかな)
 ぼくのうれしいが、彼女にも届いたなら、もっとうれしいかもしれない。

( 伝わるってすてき! )


back