好きよ。と。
 彼女は毎日そう言う。一日に一回は必ず、ゴーディのことを好きだと言う。なんでもない、ふとした、彼女にしかわからないタイミング。息をするように滑らかに、歌うように軽やかに。当たり前の積み重ねを、これっぽっちの義務感も湧かせずに、その二文字を、ときに四文字にして口にする。
「だいすき」
「はいはい」
 そしてゴーディが返すのも、たった四文字。ときに二文字。あるいはもっと適当に、投げやりに、おざなりに言葉を返す。けれど彼女はそれに怒ることなく、ゴーディを甘やかして終わる。なんなら、コーネルの方が苦言を呈するぐらいだった。彼に言われると流石にゴーディもいくらかマシな態度をとらずにはいられず、けれどやはりいくらかマシという程度で。
 それでも彼女は、ゴーディに好きだと言い続ける。そこに、願いや祈りなんてものはなく、ただただ伝えるだけのツールとして言葉を紡ぐ。伝えるためのツールであるのに、伝わっても伝わらなくてもいいように。何も込められない、ただの、告白。ひたすら続けられる好意の表現。何の拘束力も、説得力もない、愛しさの開放。
 その意味はその言葉以上になく、重さや力が何もないものだから、ゴーディはそれを聞き流している。のろいとまじないは紙一重だけれど、彼女はどちらも願うことなく、独り言のように呟く。小川のせせらぎのように、さらさらと、それは澄明で透き通ったひとこと。
 彼女はそれを繰り返す。毎日。毎日。


「キミはどうしてそんなこと言ってたのかなあ」
 だってボクは、故郷じゃ札付きだったし、そうなるぐらいには悪いことやってた。召し抱えられたからって性根はあんまり変わらなくって、まあ気は楽だったけど結局そんないい人間なんかじゃない。それにキミに出会って変わったよなんて言うほど、ロマンティックな毎日ではなかったことぐらい、キミもよく知っているでしょ? なぁんでキミはそんなこと言ってたの? ボクはほんとう、ほんとうに、毎日毎日それを聞かされて、
「正直さぁ、めんどうくさいなあって思っていたよ」


 ゴーディがその女と出会ったのは、それこそ、ベタベタで笑い話にもならないような展開だった。ぶらぶらと街を歩いているゴーディに、彼女は声をかける。そこに特別な意味はなかった。ナンパだなんてとんでもない。彼女はそんなものとはまるで真逆の、いたって親切な心意気だけで、一見するとチンピラにしか見えないような男に声をかけたのだ。
「おにいさん、そこの、緑の髪のおにいさんと小さいおにいさん」
 雑踏に埋もれそうなその声は、けれどゴーディの耳に届く。隣を歩いていたコーネルも、いつもの口癖をこぼしながら振り返る。
「これ、おにいさんの落し物?」
 彼女は取り立てた特徴もなく、息を呑むような美しさもなかったけれど、無視を決め込む気にはさせない魅力があったのだと思う。単にきれいなだけの女より、無個性なその花はゴーディを振り向かせた。
「あらま、ちょーっと待ってね」
 彼女が差し出したのは一枚のカード。緑のスピリット。見覚えのあるそれに、ゴーディもコーネルもすぐにデッキを取り出して確認する。彼女はその間、そのカードをまじまじと眺め、スピリットそのものを注視したり、効果を確認したりしていた。
「ゾワッ、一枚足りないっす!」
「危なかったねえコーネルちゃん」
「よかった! はい、落ちてましたよ。おにいさんたちもバトスピするのね」
 喜んで受け取るコーネルに、彼女はにっこりと笑う。通りすがりの何気ない遭遇を、ゴーディは大した理由もなく――あえて言うのなら、退屈だったから。それなりの出会いに変えた。
「ってーことは、キミもするってこと?」
「うん、持ってるよ」
 懐から取り出されたデッキを、彼女は何気なく振りながら示す。なんだかんだと、ゴーディのバトルの相手は限られている。コーネルか、緑部隊のカードバトルドロイド。闇のソードアイズの面々はどうも付き合いが悪いし、誘ってみたところで乗ってこないだろう。同じ相手とのバトルを繰り返していけばどうしても、手の内を互いに理解してしまう。行動を共にしていれば、デッキをいじるのも見えている。だから、これはちょっとした、新しい刺激への興味なのだ。
「せっかくだから、お時間あるならどーお?」
 ――結論を言えば、ゴーディが勝利を収めた。


「最初はそんな強くなかったねえ」
 緑の相手に慣れてなかったもんね。対策も何もあったもんじゃなかった。テーブルの上は散々なことになって、キミはぽかーんと口開けちゃって。ボクもちょっと悪いことしたかなって思ったぐらい。でもそれでキミはボクを追いかける理由を手に入れた。ボクは正直ちょっと面倒なことしたなって思ったけど、バトルすればするほどキミが色んな方法で、どんどん強くなってくるから、うん、ボクはね、楽しかったよ。そういうの。
「それがどうして一緒に暮らす仲になったんだかねえ」
 ボクたちはそれらしいことは何もしなかったのに、気がついたら一緒にいて、キミの作るご飯を食べて、順番にお風呂に入って、おやすみを言っておはようを言って。まあ、ボクらみたいな男所帯にはありがたい存在だったんだけど、
「ありがたいっていうか便利っていうか。お手伝いさんでも雇った気分っていうか」
 そんななかでキミはある日、ボクを好きだと言い出したんだった。
「――どこに惚れる要素があったの?」


 世界で一番好きだと彼女は言うけれど、そんなのは嘘っぱちだとゴーディは思っている。世界を回ったことのない彼女が、なんで一番好きなものを決められるのか、ゴーディはさっぱり信用していなかった。それでも彼女はめげることも飽きることもなく、ひたすらそんなことを言い続ける。まるでそのために世界が回ってるかのように。世界の中心が自分であるかのように。
「もしかしたら中心かもしれないよ」
「そんなワケないでしょ、中心だったらもっと上手く回っているし」
「ゴーディの世界は狭いなあ」
「どう考えたってキミの世界が狭いじゃない」
 テーブルに広げた世界地図を見る。ゴーディの出身はレムリオン。彼女の出身はアトランティア。そして彼女は、この街から出たことはないという。少なくとも、ゴーディの方が比較的、街一つ分世界を知っている。煙たがられるような底にいて、それから城に招集されたのだから、またその分世界を知っている。ゴーディは知っている。世界はそんな都合よく、自分を中心に回るようなものじゃない。けれど彼女は平然と、自分は中心であるという。
「私の世界は私が中心なの。で、私は世界で一番ゴーディが好きなの」
「だからどーいう理屈なワケ……」
「私の世界では、ゴーディの好きにしていいよってこと」
 言っては細い指でゴーディの頭を撫でる。「ゴーディは猫っ毛だねえ」「うるせ、気にしてんの」「かわいいのに!」そう言ってわしゃわしゃと髪をかき混ぜて、ゴーディがそれに怒ってみせる。いつものことだった。そのいつものことを、彼女はとびきり嬉しそうにするのだ。飽くことなくそれを、笑ってみせる。
 ああわずらわしい、けれど、ゴーディは彼女を拒否することができない。好きと言い続ける彼女を跳ね除ける理由が見つけられない。


「キミはそういうボクのこと、解ってたでしょ。ボクも解ってたよん」
 ボクはとってもずるいから。ボクに無償の好意を向けてくれるキミを利用してた。キミはそれに気付いているのに、ボクのそばにいた。キミが黙ってボクを甘やかしているのを知っていた。ボクは何も言わなくて、君は好きしか言わなかった。沈黙って罪深いよね。
「これでも、それなりに悪いとは思ってたんだよ? あー、罪悪感ってやつ?」
 キミは信じられないって、驚くかもしれないけどね。だってキミはずっとボクのこと好きって言うじゃない。いくらなんでも、それなりに付き合いのある人間から言われたら悪い気はしないよ。だからこそ、ちょっとしたもやもやもあったんだけど。
「キミはボクに何も求めてこなかったもんねえ」
 好きって言うだけ言って、それだけだった。恋人になってとか、デートしてとかそういうの全然なかったよね。
 ――そういえば、キスしたことはあったっけ。


 彼女はもの好きというか、変なものを見つけては手に入れてゴーディに見せびらかしに来る。それに対して驚くこともあれば大して興味をそそらないこともあって、ゴーディとしては、日々のスパイスようなものだった。子どものおもちゃを拾ってきては、ひとしきりそれで遊び、案外それが面白かったりする。難しげな本を買ってきては、難しいやと笑ってゴーディに読ませる。難しさに呆れる。多趣味というよりも、アンテナの方向に節操がなかった。受信可能範囲が広すぎる。けれどそのたくさんの興味の中で、ゴーディに対してだけは、毎日ずっとアンテナを向けていた。
「好きな人のことだからね」
「好きでなんでも解決できると思ってない?」
「思ってないよ、それにゴーディは私のこと好きじゃないじゃない。かたっぽだけじゃ何も解決できないよ」
 平然と言ってのける。普通なら、その点は悲しい顔するとか、切なげにするとか、そういうところだと思うのだが。ゴーディがそれが無性に気になって仕方なくなった。彼女はあまりにも、平然と語るのだ。
「好きかもしれないよ?」
「好きなの?」
「うーん……好きってことにしとく?」
「ゴーディはうそつきだなあ」
「あらら、信用されてないのね。ゴーディちゃんショックぅ」
 少しふざけてみればこれだ。ちょっとぐらい期待してくれてもいいだろうに。
 だからきっかけといえば、そういうちょっとした不満だったんだろう。あとは、食事の後だったから、満腹で頭に血が回ってなかったのではないかとか。ゴーディにはそのくらいの理由しか、思いつかなかった。
「はあ?」
 間抜けな声を上げて、ぱちぱちと瞬きする。ゴーディが思っていたよりも長い睫毛がぱしりぱしりと忙しなくまたたいた。
「う、うばっちゃったー……?」
 自分から行動を起こしておいて、ゴーディの頭は全く以って正常ではなかった。本当に、本当に理由がわからなくて混乱していたのだ。なぜ、なぜだ。自分に対して強く思う――どうしてキスなんかしたのだろうか!?


「侵食されてるなーって、思った」
 キミの好きに惑わされてるんじゃないかって、あんまりにも言うものだから、確認したくなったのかもしれない。キミは固まった瞳からぽろぽろ涙を零し始めて、びっくりした、びっくりしたって怒ってたね。うん、確実に怒るトコ間違えているよ。もっと言うことあったんじゃないの? 泣くのをやめたかと思ったら、次は「別にこんなことしなくていいのに」って、なぁんでも解ってるような顔するんだもんねえ。
「別に無理してたわけじゃなかったんだよ。単に嫌じゃなかっただけでさ」
 キミの、ご飯を食べるみたいに日常的な告白は、やっぱりあんまり信じられなかったよ。でもね、キミみたいな子が、ボクのことを好きっていうのは、どうしてなのかなってずっと思ってた。
「だんだんね、キミがそんなに言うんなら、ボクにもそれぐらいの価値はあるのかもしれないって、思えてきてたんだよ、実はね」
 毎日そんな難しいこと考えてたわけじゃない。ただ、何かができるともおもってたわけじゃなかったし、世界なんて変わるわけないと思ってたよ。なんていうのかなあ、いろんなこと無理だろって思ってた。なのにね、君ってば、こんなしょうもないボクを好きって言うんだもん。
 キミの圧勝だよね、これ。ボクはいつまでもキミの好きを理解できないし、信じてなかったけど、もしかしたらって思わせたんだ。解らないし信じられないって言ってたのに、そんな気持ちが芽生えちゃったんだよ。罪深いことだよこれは、キミはボクを、少しずつ少しずつ変えていった。
 なのに、
「ねえ、」
 それなのに。キミはボクを変えていって、もしかしたら、ソードアイズに選ばれたのだって、何かボクに出来ることがあるからかもしれないって思って。――そうじゃなくても、何が目指せるのかもしれないって思わせておいて、
「どうして、キミはあっさり死んじゃったんだろう」
 冷たくなったキミの身体は、とっくの昔に土の中だ。
 ボクはね、キミを失くして、全部失くした気がしたよ。だって、ボクを変えたのはキミなのに、キミがいなかったら変わってしまったボクはどうなるのって話だ。おかしいだろ? 理由がなくなっちゃったんだ。根拠がなくなっちゃったんだ。ねっこがなくて、どうしてたっていられるのってことだよ。足元になんにも、なんにもないんだ。奈落の底は真っ暗闇。そこにボクはいたはずなのに、キミのせいでそれが怖くなったんだ。
「ねえ、どうしてキミはボクなんか好きって言ったの? どうしてそんなことを言ったの? どうして毎日伝えてきたの?」
 ボクは知らないんだよ、キミの理由を知らないんだ。なにもないんだ、ぐらぐらしてふわふわして、不安でたまらない。
「もっと聞けばよかったって思ったよ。今だって思っているよ。どうしたって聞けないけどね」
 ボクはキミからたくさんもらったのに、キミに何か、同じじゃなくても何かを返せたかもしれないのに。キミにもう返すことができないんだ。何かをあげることはできないよ。
 なんで、死んでしまったのかな。キミ

 ねえ、どうして。
 ねえ、

 なあ、おれはさ、

「キミが好きだったよ、たぶん」

 たぶんでも、喜んでくれるかな。まあどうやっても聞こえないんだけど。
 あーやだやだ、アトランティアは滅多に雨が降らないんだから。こういうとき、雰囲気ないんだもん。いやんなっちゃうよ。
 キミは何て言うのかな。泣かないでって言う? ――違うね、きっと、泣くところなんて初めて見たって笑って、腕を伸ばしてくるんだろう。キミは本当に甘やかすのが上手だ。
「その腕も好きだったよ」
 キミの力加減も。
「好きばっかり言うのは、耳にうるさかったけど、それでもキミの声は嫌いじゃなかった」
 たぶん、好きだったよ。
「ほんっと、ボクってだめな男だよねェ」
 きっとキミのこと好きだったよ。君の好きが好きだったよ。こんなどうしようもない男を、なんで好きと言ったのか全く理解できないけど。
「こんなんでも、大丈夫かもって思えたよ」
 だから、それだけは捨てたくないんだ。
「キミはそんなの要らないよって言うのかなあ」
 きれいでしょ。ウスバカゲロウちゃん。闇の緑のソードブレイヴ。本当はちゃんと見せたかったんだよね、間に合わなかったけど。すごくない? これ、カードなのに、剣になって、しかも本当に切れちゃうんだもん。ちくり、ほら痛い。
「ボクはなんでソードアイズなんかに生まれたかわかんないし、理由とか興味ないけど」
 そんなのなくってたって好きだって、怒ってたことあったね。そのときのボクはまるで信じてなかったけど。
「でもね、せっかくだから。やれるとこまでやろうって思う。やれなくても、やってみるよ」
 そう思わせたのは、思わせてくれたのは、キミだから。
「腐ってても仕方ないしね――最近、面白いことも多いんだ。だから。うーん……なんって言うのかねェ。ま、見守っててちょーだい」
 キミがくれたものに、ボクは何も返せなかったけど。足元は揺れていて不安定だけども、とりあえず、それを大事にしようってことにしといたからさ。
「……まあ、上手くいってもダメになっても、生きてたらまた来るよ。ずーっとほったらかしててごめんね」
 キミの好きな花なんて、聞いたこともなかった。聞いとけばよかったね。好きな色とか、好きなものとか。もしかしたらキミは話してくれてたかもしれないけれど、覚えてないや。ごめんね。
 キミがどうしてボクを好きなのか、とか。どこが好きなのか、とか。
 こんなどうしようもないろくでなし、ほんとどこがいいの? 男運がないっていうか、見る目がないって言うか。
 キミみたいな――いい子、うん、キミは本当に、いいひとで、いい女で、いい子だった。そんなキミがこんな男に引っかかって、しかもこんなことになるなんて、世の中ってひどいよね。
 キミの好きはボクにはとても難しかったし、今も、全然自信ないけど。

「キミが、好きだよ」

 冷たい墓石にあたたかい血をこすりつけた所で、なんにもならないのは解っているけれど。
 これは、きっと宣誓みたいなもので。
 何かできるのかもしれないと思わせてくれた、キミへの感謝と、謝罪。
「それじゃ、またね」

( 前を向いていくよ、君がそうだったから )


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