廊下が長い。
 なんの変哲もない、冷たい壁と固い床。それらをすっぽりと覆う、品の良い中に下衆な匂いを漂わせている調度品。そのいつもの何も変わりない廊下が、果てしなく長く、苦痛であった。今すぐ此処を抜けてしまいたいのにどうにも進まない。長い長い、永遠を思わせる廊下。そこをひたすら、じりじりと、ゴーディは進んでいる。
 信じられないくらいふかふかの絨毯に足を沈めて、冷静さを保ってくれる冷たさを持った壁に体を預けながら、ずるり、ずるりと摩擦の音を立てて進む。足が重い。それは足のせいではないことも彼はよくわかっている。思考の余裕を許さない苦痛が、それでも頭の隅は冷静で、自分の状態をばかばかしいと笑っている。そうだ、ばかばかしい、愚かで、どうしようもない。焦がれるのはとっくにやめるべきだったのに。
「ぐぁ……」
 ゴーディは低く唸った。誰も聞いてはいない。温度のない城の中で、誰が聞いたとて元より意味などない。けれどそれでも、喚きたい衝動をぐっと抑えて進む。どれだけ進んだかわからないが、振り向くのは怖かった。ただでさえ、灯りに追いやられて隅に凝縮された暗闇が怖いというのに。少しでも遠退けてなかったら、全く進んでなかったら。背中に恐怖の氷を貼り付けられたまま、その氷を大きさを測る勇気はない。融けてなかったら、どうしたらいい。
(闇が怖いなんて、本当ばかじゃねえの)
 闇の緑のソードアイズなのに。
 左目が、痛かった。内側から、ぎりぎりとねじられるように、じりじりとやかれるように。熱い。痛い。痛い。苦しい。熱い。痛い。熱い。いっそ眼球を取り出した方が……いや、それでは意味が無い。そのまま履き捨てられるだけだ、白夜王曰く「ソードアイズはまた生まれる」のだから。
 結局この左目から始まって身体中をぐるぐると巡る痛みと、左目に篭ったまま発散できない熱と、三人仲良くよろしくしてやることぐらいしかできないのだ。せめて、自室に戻りたい。今すぐ休みたい。なのにこの廊下ときたら、すさまじく長い。空気読めこの、くそ。
 罵っていたら吐き気がした。しかし胃の中はとっくに空っぽだ。せり上がるものを押さえ込めるように半ば願いながら、その場に座り込む。その間とて痛みは続く。肩で息を吐くと、多少落ち着ける半面何も無いはずの胃から何か出て行ってしまいそうで、吐き気とは別に気分が悪くなった。
(あー……失敗した、かも)
 一度座り込むと、立ち上がれなくなってしまった。一刻も早く自室に篭って身体を休めたいのに、言うことを聞きやしない。ああもう、このままここで寝てしまおうか。そのほうがいいかもしれない。目覚めたら、勝手に部屋に運ばれているだろうから。
「あの、」
 その声に、落としていた意識を引き上げる。右目だけで見れば、視界にひらひらとした布がある。よく見れば、上品なヒールの靴もある。ゴーディは重たい頭を持ち上げてようやく、それが人間の女だということを理解した。
 スティンガーで埋め尽くされたアトランティアの城の中で、闇のソードアイズと、それを率いる白夜王、そして彼の母親と忠臣以外はほとんど人間はいない。寄り付く商人や技術者ではいても、ただの女というのは、珍しいどころの話ではなかった。
 だから、ゴーディはその女に覚えがある。広い城の中で、全く出会わないということはなかったからだ。ただの人間、それも女は、その匂いだけでゴーディの色んなものを刺激して、そしてたったそれだけで終わる。ここにいるということは、白夜王のお墨付き、お気に入り……何かしらの寵愛を受けているのだろう。そこに下世話な想像をしないわけではないし、興味はあったが今はそれどころではなかった。今のゴーディに、他人を気にする余裕などない。声をかける余力もない。自分の部下なら、話は別かもしれないが。
「放っておいてくれるのが、一番嬉しいんだけど」
 思ったよりもひどい声が出て、ゴーディは内心自嘲した。放たれた側は怯んだようにその黒髪を揺らす。ゴーディがそれだけ言って視線を外すと、すぐに女は足音を絨毯に吸い込ませながら去っていった。はあ。ほっとしたように息を吐く。気遣うゆとりはないのだ。せっかくの遭遇にもったいなかったかもしれないが、追いかける気力もない。――そう思っていたのに、しばらく時間を置いて女はまた現れた。廊下の向こうから、走ってくるのが見えた。ああ物好きなやつだな。
 再登場を果たした女は、何も言わずゴーディの前に座り込む。そして有無を言わさず、前髪の上から左目の、瞼に触れる。
「ちょ、ひっ」
 言葉を返す前に、その冷たさに驚く。それだけ自分の目も熱いのだろうが、にしたって女の指先の冷たさと言ったら、背中がぞわりする程で。反射的に身体を引く。がつん、と背中が壁とぶつかった。
「休むのなら、壁に背中を預けてください」
「は……」
「人間も動物なので、背中に何も無いと不安になりやすいそうです、……確か」
 自信がなさそうな言葉尻の割りに、拒否を許さない姿勢で言う。(なにこのこ、なんか、こわい)それが素直な感想であるが、実際壁にもたれかかると幾分か楽になった。少なくとも、吐き気が大人しくなった。安堵の息を吐くと、女がずい、と瓶を出してくる。透明なそれの中身は、水のようだった。
「飲めるのなら、」
 大人しく受け取って、けれどそれを飲む気にはまだならなかった。飲んだら吐いてしまいそうだ。トラウマのようにしみついた吐き気が、じっと獲物を自分を狙っているような気がする。
「眼は、痛いですか?」
「あぁ? うん、そうね。でも大分楽に、なってきたかな」
 少なくとも、虚勢を張れる程度には。それが通用してくれたらいいなと思う。結局、それが通用したのかどうかはわからないが、女はゴーディが呼吸するのをただただじっと見守っていて居心地が悪い。虚勢はハリボテらしかった。それでも、口にすっぱい匂いが上がらなくなってきたのは本当だ。時間の経過と女の気遣いに感謝はするべきかもしれない。
 そしてそんなことを考えているうちに、視界にぬっとそれは伸びてくる。思い出すのは冷たい手の記憶。それより前の、苛烈な痛み。苦しみ。
「つぁっ、いっ」
 それらはゴーディが身を引くに十分な恐怖の虚像を持っていて、壁に後頭部を強かぶつけるのに当然な勢いをゴーディに持たせた。
「たあ……!!」
「ご、ごめんなさい!」
 女は驚きに手を引っ込めて、頭を抱えて蹲るゴーディにわたわたと謝る。
 ゴーディはゴーディで、急激に頭を揺らしたことによるのか、痛みによるのか、はたまた相変わらずの体調不良か、くらくらと眩暈に襲われた。地面が揺れて、世界がふらついて、前も後ろも右も左も上も下もわからないで。ぐらぐらぐらぐら――
 ――ぽすり。
 柔らかい感触と匂いに、ゴーディは両目を見開いた。いつも、すれ違う度にゴーディの鼻腔を突くにおい。おんなを感じさせるやわらかさ。そういえば、しばらくおんなに触ってないななどという思考はすっかり生まれない。その程度に、その感覚に驚いている。
 それが眩暈による偶然なのか、女が自分から揺れる自分を抱き寄せたのか。ゴーディには計り知れない。けれども、おんなというものの与える安堵はよく知っている。安定剤、鎮静剤、そんな効果が、おんなには確実に存在する。少なくとも、自分にとっては。渦巻く熱も、襲い来る冷たさも、総て零にするような仕組み。ゴーディにとっておんなとはそういうシステムだ。人並みに恋したことがあったかどうか自分でもわからないが、おんなを抱いたことはある。やわらかくて、ここちよくて、自分の静を取り戻せるもの。あるいは、何かを何かに昇華させるもの。――それが、今自分に訪れている。
 ゴーディがさらに驚いたのは、その女が特に拒否を見せることなく自分を受け入れたことだ。それはゆっくりとゴーディのぶつけた頭に、脂汗をかき続けていた背中に手を添える。ふしぎだ、あんなに冷たかった手なのに、今度は温かい気がする。
「だいじょうぶ」
 女は訊いてもいないのに、そんなことを言う。
「大丈夫ですから」
 それはしっかりと重みを持って、ゴーディの耳から落とし込まれていく。繰り返し、繰り返し。痛みと苦しみしかなかったゴーディのなかに、落ちて、沈んで、染み込む。
(……簡単に、言ってくれるよねえ)
 彼女は自分のことを知っているのか、自分が何をしたから、こんな罰を受けているのか、知っているのだろうか。知らないのだろうな。少なくとも、後者は知らないだろう。
 なのに、何も知らない手が少しずつ労わり、庇い、慰め、癒す。背負っていた恐怖の塊を、彼女の無責任な呟きが融解させる。
「…………へんな女」
 口の中だけで呟いた言葉は、自分の中だけで咀嚼される。
 次に深く呼吸をしたとき、ゴーディは背中の氷が融けて消えたことに気付いた。

( 仕組みよりもなによりも )


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