何も見えない。何も聞こえない。
 ただふらふらと彷徨っていた。目的はなかったし、理由もなかった。浮遊を落下を繰り返し、帰着と出立を繰り返す。
 自分は何をしているのか、何をしていたのか、何をしたかったのか。
 考えると引き千切られそうな感覚に襲われる。けれど、考えることをやめるわけにはいかなかった。その感覚だけが、自分の輪郭を明確にしてくれる唯一のものであったからだ。やめてしまえば、それこそ本当に霧散してしまうのだろう。ぼんやりとした確信があった。存在していることすら危うい、だがその自覚があるうちはおそらく存在しているはずだ。
 酷い感覚に苦しみながらも、散り散りになりがちな思考を続ける。自分は何をしていて、何をしたかったのか。思い出せない思いつかない。
 けれど、思考が途中で遮られた。自分以外の何かの存在を感じたからだ。
 惹き付けられるような引き寄せられるような感覚が、痛覚を越える程強い力で感じられる。元より彷徨うだけの身だったから、簡単にそちらに体は向く。意識も同様に向いた。その惹き付ける何かも、こちらに気づいたようだった。
 拒絶はされていないようだ。安堵を覚える。
(安堵だと、)
 その思考に行き着いて、いぶかしんだ。それはすなわち、自分は不安であったという証明だ。先ほどまで、その何かを感じるまで、そんなことはなかった。ただ在るだけであり、輪郭を取ろうと必死だった――そもそも、その意思も不安からくるものだったのか。馬鹿馬鹿しい。元より、不安など感じる自分であったのか。焦燥や後悔はあったけれど、
(それらもあったのか、そこからだ。俺は――)
 俺は、そうして、生きてきたのか。
 散りそうな思考がゆっくりと安定する。自分が確立していく。気がつけば足があったから歩く。気がつけば腕があったから伸ばそうとしたが、逆に触れられた。矢張り自分にも形があったのか、触れられることで確かに感じる。感じる。そうだ、ここは寒くて、暗い。音もなく、静寂が痛い。触れられたところだけ、ほのかに温度がある。
(冷たいのは、俺の方か)
 ぐらり。体が傾いた。鈍るどころか機能していなかった感覚が、正常な働きをしていくうちに自分のことが解る。冷たい。痛い。ひどく重たかった。疲れているのか。疲労などそう感じたことも、ああ数えるほどはあったな、なんて考えながら。
「……っ」
 目を覚ました。見覚えの無い天井。どうやらソファで寝かされていたらしい。前髪がわずらわしく感じて掻き揚げる。ゆっくりと周りを見渡すと、先ほどの何もない場所とは違う、こじんまりと落ち着いた室内には、どこか暖かい雰囲気が感じられた。慣れないそれに短い間目を伏せてから、立ち上がる。眩暈を感じたものの、すぐに消えた。未だ何処か疲れているようだが、そうも言ってはいられない。自分の状況を早急に把握しなければならない。何故ここにいるのか、何故こんな状態なのか、疑問符の山だ。目を閉じて、深く呼吸する。
 よくよく見ると、魔除けの類が気づかれない程度に配置されている部屋だった。彼に影響が出るほどではないにしろ、普通の悪魔なら無意識に避ける程度の効果はあるだろう。あまり強すぎると、逆に目立ってしまうから、この部屋の主は、その意味が解っていてかつ無駄なく配置してることになる。多かれ少なかれ、其の方面の知識がある者ということだ。なら、彼が今置かれている状況の説明もできるかもしれない。
 ふと、気配を感じる。そもそもそれまで感じられなかったことが不思議なほど、あからさまな、悪魔の気配。隠そうともしないそれは、どうしてか、大した力も感じられない。
(……解らないことばかりだな)
 ならば自分の目で確かめるしかあるまい。手に馴染んだ刀は無いが、それでも行かないわけにもいかなかった。


「……はあ、」
 大きな溜息をつく。は庭で掃除をしていた。庭といっても所詮小さな其れであり、掃除はまめにやっているから、その行為の目的は逃避だ。リビングには彼を置いてある。目覚めた時、なんと声をかければいいのかわからない。だから、極力近づいていない。彼が現れてから一日――もう昼前だから、一日と半分が経過したが、生活の中心である其処にはまるで近づいていなかった。
 言ってしまえば、怖いのだ。自分の行為が本当に正しかったのか、は今でも自信がない。彼に責められる覚悟はあるが、矢張り不安は拭えなかった。
(もしかしたら、彼を救う方法はほかにもあったかもしれない。でも、時間がなかった。けど、あんなことしてよかったのかな、)
 そんなことをずっと考えている。無為なことだと解っていても、性分としてやめられなかった。水をやったばかりの花を眺めながら、嘆息した。
 そうして呆けていると、ピリリとした感覚に襲われる。何かは解らない。正体を掴もうとあたりを見回すが、自分の目には何も感じ取れなかった。
「……?」
 勘違いか、といぶかしみながらも再度周囲に目をやると、部屋と庭を繋ぐ扉の、ドアノブが揺れた。ぴくりと敏感に反応すると同時に扉が開かれ、現れたのは、当然ながらあの夜の来訪者であった。
 端正な、でも少し威圧感を覚える顔。陽光にきらきらと光る銀色の髪。薄青い色をした目と視線が合って、口を開こうとした時、
「どけ。死にたくないならな」
 彼の言葉に遮られ、疑問に思うより早く本能がその声に従ってを屈ませる。瞬間空を切るような、いやその行為そのものの音がの頭上で鳴る。それは大きな鎌であった。屈んだ一瞬後に見上げたからにも解る。真っ黒な、霧のような布のようなそれは悪魔に他ならない。
(おかしい。そんなわけない。あるはずがない)
 其れはゆったりとした仕草で再び鎌を構える。は動揺のせいかその場で座り込んだままになってしまっていた。そもそも、自分の身だけで対処できるわけでもない。だからこの状況は、彼女を狙うのにはまさに格好の場であったのだが、ひとつ別の要素があった。

 ヒュン、と何かが空を切る音。先ほどのものよりも鋭い高音でそれは鳴った。

 は息を呑む。今まさに自分を襲わんとした悪魔に、青白く光る剣が刺さったからだ。ほんの瞬きの間にそれは、深々と突き刺さった。
「あ」
 小さく声が絞り出る。それと同時に悪魔は声を上げて散った。けれどは、それに構っていられない状況になってしまった。
 銀髪の男が、座り込んだのもとに一歩歩み寄る。は動けない。少しでも動いてしまえば危険であることを承知しているからだ。たった一撃で悪魔を消滅させた剣は用を無くした為か消え失せ、そしてまた現れ――の首に冷たく触れている。
「物分りがいいようで何よりだ」
 彼の声を聞くのはこれでようやく二度目であるが、なんとも力のある声だった。その声の圧力と、首もとの冷たさに、奥の奥から震えた。

( 温もりと冷たさ )


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