時計が真上を指して、昼休みを告げる。同時になる鐘の音を背景に、チラリと書類をまとめる手を止めて見れば、相変わらず上司は懸命に仕事をしているので、はため息を吐かずにはいられなかった。それが聞こえているのかいないのか、上司は変わらず書類とにらめっこしている。その眉間の皺と言ったら、もう一生とれないのではないかと思われるぐらいに深い。そう言ってやってもいいのだが、昔のように機嫌を損ねられるのが常であって、更に、機嫌を損ねる程度のことを簡単に笑い飛ばせるような仲ではないので、言うわけにもいかない。まあ、どうでもいいのだけれど。
 タイプしていた書類をしっかり保存して、は着々と休憩に入る準備をしながら、再度ちらりちらりと上司を見る。はまだ研修状態で、上司の助手を勤めることで仕事を覚えている段階だ。助手なんてそもそも検察事務官の仕事だけれど、隣で見れる分とても勉強になるから、いい配置だとは思う。さらに、その人はとても生真面目で、仕事馬鹿で、その馬鹿の向き加減がよかったのか、成績だって優秀だ。そういう人の下で学べる状況は、すばらしいことだ。
 相手が面倒くさくなければ、だが。
「検事」
「なんだろうか」
「……お昼休みです」
「ム、……ならば休めばよかろう。私に特別許可をとる必要もない」
「…………」
 が言いたいことは、けっしてそういうことではない。そういうことではないことを、この男はてんでわかっていないのだ。いらいらいらいら。なにがどうしてこんなことになっているのか、はいつもいつもいつも悩んでいる。もうこうなって一月は経つというのにだ。
 時間は、お昼休み。就労時間ではあるが、労働からは抜け出させる時間だ。ならいいだろう。今もって労働からは自由なのだ。なのになんで――
「昼休みなんだから、休めと言ってるのよ。御剣」
 この幼馴染――御剣怜侍はその労働から全く離れようとしないのか、過労死するつもりなのかと、はいらいらし続けていた。
 幼馴染といってもたった数ヶ月といえばそれまでだ。その記憶はのなかできちんと処理され、きれいでなつかしい思い出になって、御剣怜侍という人の居た世界を丁寧にしまっておいた。だから、こういうクソがつくような真面目な仕事ぶりは懐かしさそのものであって、本来ならばもう少し、寄り付きにくさを与えるこの男に、親密さを感じさせるようなもののはずだが、そんなことは全くなかったから、はこんなにいらいらする破目に陥っている。
 きれいに磨かれたデスクを力いっぱい叩いたに、その男は漸く書類から顔をあげて視線を合わせた。
「労働は逃げたりしないんだから、ちゃんと休んで。死にたいの?」
「それは脅迫か?」
「あなたが自分自身に殺されるというありがたい予言よ」
 とても上司に対してぶつける言葉ではないのだが。今は昼休みだ。ノーカンだ。もともと、この男がのそれを咎めたことは一度たりともない。ただ、他人ぶってほしいらしい彼の意図を汲んで、其の位置を強いられる時間は部下に徹しているだけのこと。
「……死にたくなければ、ちゃんとご飯食べて、ちゃんと睡眠とって、ちゃんと頭も身体も休めてください、御剣検事」
 言いたいことをまとめれば、そうなる。
 しかし簡潔に伝えたところで、この男が簡単にうなづいてくれないという事実を、はよく知っていた。
「これくらいで死ぬ程度なら、私もそれまでの男だろう」
「仕事に全部ささげることはないと思うわ」
「他に捧げるものもない、捧げるつもりもない」
 三日も寝ていない仕事人間は、これだから。頭がおかしくなっちゃってるんじゃないのか。はそのひらひらしたクラバットを思いっきり引っ張ってその皺のよった眉間に頭突きをかましてやりたい衝動を抑えるのに必死で、二の句が継げない。それをの敗北と受け取ったらしいその男は、切れ長の目を静かに閉じて、
「――そして、捧げることをやめるつもりもない」
 が楽しくもなんともならない言葉を言い放った。に出来ることといえば、血の上ったせいで考えきれない適当な捨て台詞を吐いて、休憩に出ることぐらいだった。


 のため息はつきない。
 結局其の男は、の知る限りにおいて、休憩などは挟まなかった。もしかしたら、隠れてこっそり弁当でもかっくらっているのかもしれない。それぐらいしてくれてる方が、むしろ良い。諸手を挙げて喜ぶぐらいには嬉しい。でもそんなことはきっとない。あの男が休憩らしい休憩をとったのは、昼も数時間過ぎて、明日の裁判の証拠品を全てチェックし終えた後に、「……紅茶を淹れてくれないか」と言ったその時からの30分弱だけだ。それもものすごく久しぶりの休憩だったのようだが。
「あんなんで休めるっていうんなら、こっちも苦労しないわよ……それともなにか、あの男はそれで全回復可能ってか。ハハ、人外」
 嘲るように笑うが、その対象は自分だ。決して御剣怜侍ではない。そのことがいやというほど解っているから、自嘲になる。本当に、死ぬ気なんじゃないの。死んでどうするっていうんだ。大体仕事以外に捧げるものがないって、趣味仕事もいい加減にしてほしい。
「ただ心配してるだけなのに、なんでこんないらいらしなきゃならんのよ……」
 いらいらの原因もう一つある。どうにもこうにも、あの男はとコミュニケーションをとりたがらないのだ。一日目からそうだった。新人です研修ですよろしくお願いします。も彼も、同姓同名の別人だろうとくってかかっていたその顔あわせで、見事に記憶が引き戻された。その瞬間の驚き、その一瞬後の躊躇い。そこは解る。でもそのあとの御剣怜侍の反応は、触れてほしくないようなそれだった。はきれいにしまった思い出。けれど、御剣怜侍のそれは大変厳重に鍵をかけて銀行にでも預けたみたいに頑なだった。ナパーム弾だってへっちゃらそうな封印だった。だからこそ、それを開けられるだろう人間を拒否する。
 はそれに気づいた。気づいたから、触らないでおいてやろうと思った。拒否されるのなら、仕方ない。誰にだって、触れられたくないところはある。けれど、時々、御剣のそれが、ほんの些細なことでほんの少し表に出る。常には表に出ないように配慮されているその拒絶が顔を出す。其の度に、は傷ついて、閉じられた思い出に嘆いている。
(なんで、こんな、寂しい思いしなきゃなんないんだろ)
 つらいくるしいかなしいさみしい。それらはの心に積もるものの、耐え切れないような大きな痛みでもなければ、些細な痛みで躓くような弱さもは持っていなかった。だから、幸か不幸か、この微妙な上司との関係を続けていられる。どかんと爆発させてしまえば、実はいい方向に向くかもしれない。けれど、爆発するようなことはない。
 明日の裁判に備えて早く帰るように言われたは、雨に打たれる検事局の窓を見上げて、早く帰れと言ったくせにまだ其処にいるだろう男を、憎々しげに、哀れむように、
「ばか」
 呟いて、言われたとおり足早に、家路についた。

( きみにとどかない言葉 )


back