成歩堂法律事務所は、静寂に包まれていた。いつもなら、自称所長の綾里真宵の落ち着きの無い賑やかさや、それに対する龍一のツッコミなんかが聞こえているものだけれど、今日はその「いつも」とは大違いであった。静寂も静寂。物音一つ立てられやしない。どうしたものかと、龍一は溜息をぐっと堪えて、静寂に溶け込む妹の姿をチラリと見る。
 応接用のソファで不貞腐れた顔をしているのは、他でもない妹のであった。ムードメーカーである真宵は生憎と暫く実家に帰っていて、本来ならば龍一一人で過ごす事務所のはずが、朝も早くからがズカズカとやってきて、この顔である。なんだどうしたと声をかければ返事はするが、生返事で何も語ろうとはしないし、イエスかノーの二択しか声に出さない。触りにくさがだんだんと増しての、この静寂であった。
 彼女は歳には似合わない幼い顔を、不満げに歪ませている。龍一は昔からその顔が苦手であった。兄だから妹だからというのが理由だろうが、とにかく、苦手なのだ。幼少の頃に苦い思いでもしたのかもしれない。彼女とは五つ離れているが、そういえば夜泣きで起こされることもあったな、なんてカウントしてはいけない迷惑などを思い出して――
「龍一」
「お、喋った」
 そりゃ喋るわよ、と目線で返された。漸く口を開いたは相変わらず不貞腐れた顔で、龍一が淹れたコーヒーを一口飲む。身内の贔屓目とは思うが、黙っていれば可愛いのに、なんでこんなかわいくなくなったんだろう。不思議でたまらない。
「今失礼なこと考えたでしょ」
「考えてない考えてない」
「……」
「それより、なんなんだよ。朝っぱらからやってきて、怖い顔して」
「別に依頼人もいないからいいじゃん。依頼人もいないから」
「二回言うな。悲しくなるから二回言うな」
 話が進まない。そんな顔するぐらいだから、何か話したいことでもあるだろうに、話しにくいのかなんかのか、は話題にしようとしては自分から話題を変えていく。一体何があったのか、龍一にはさっぱりだ。流石に言ってもらわないと解らない。
「む……そりゃそうだけど」
 その点を指摘してやると、不貞腐れた顔が少し困った色を帯びる。やっぱり言い難いんだろうなあ。これは長年兄をしていなくてもわかることだ。は結構表情に出るタイプだから、詳細はどうあれ大雑把な感情は読みやすい。本人も自覚しているらしいけれど。
 はもごもごと口ごもるだけで、まともな会話にならない。こんな妹を見るのは、龍一としては初めてだった。彼女はハッキリとした性格で、こんなに困っているのは本当に、珍しい。自分に対しては兄だと思っているのかいないのか、無礼な態度で接してきて、わがままを言われることは多くとも、頼られた記憶などまるでなかった。
(ふむ。困っているけれど、言い難い。言いたくない。でも、僕のとこに来たんだよなあ)
 はその男前過ぎる性格のおかげで友人も多い。大学生活も楽しんでいるようだし、頭も悪くないから、大体のことは自分でどうにかできる。何もわざわざ龍一の元で不貞腐れることもないのだ。自分の納得いく形で解決できるだろうし、そうでなくとも環境の似通った友人に頼るほうが解決策は生まれ易いだろう。もっと面倒な問題であれば、たかだか五年多く人生経験を詰んでいる(曰く頼りない)兄よりも、両親に相談する方が断然効率的だ。
(そう、は僕のところにきた。僕に、用があるんだ。それがどんな内容にしろ――言えない話だとしても、だ)
 それを、解らないからと無碍にするのは、よくない。絶対に。
、遠出するか」
「へあ?」
 おかしな声をあげて、はコーヒーのマグカップから顔をあげた。話が繋がらないらしく(僕だって繋げてない)、「何言ってんの」という表情で龍一を見上げている。
「どうせ、依頼人もこないし。たまにはいいだろ」
「へ、うん? なんで?」
「なんでって、お前が不貞腐れた顔してるから。詰まんなさそうだし、遊んでやるって言ってるんだよ」
 子ども扱いした物言いが気に入らないのか、勢いよく立ち上がってぎゃんぎゃんとまくしてたられる。それを聞きながら簡単に着替えを済ます。もとから大した格好もしていないのだけれど。
「大体、どこいくの」
「う……それは考えてなかった」
 怒りを収め出かけることに了承したに言われて、龍一は漸くその問題に気づいた。しまった、何も考えてない。とりあえず、今日一日の気が済むまで付き合おうとしか考えてないのだ。ずっとあんな顔をされるのは頂けない。何かあったのかもしれないし、問い詰めれば語るかもしれないけれど、自分も、だって、もうこどもではないのだから、各々でその線引きは出来るし、そうあるべきだ。
 だから、龍一にできるのはせいぜい、の気を紛らわせること。それぐらいだ。それ以上は、が望まないときっと無理だから。
「あー……海とか?」
「寒くない? かなり寒くない?」
「気温ともう一つ意味がかかっている気がするな……」
「気のせいだよ、あはは」
 今日初めて聞けた妹の笑い声に苦笑いしながら鍵をかける。忘れ物してない?、なんて少し馬鹿にした様な質問に、調子を戻してきていることを感じながら、答える。機嫌がいいのはいいことだから、龍一も嬉しくなる。切符代ぐらいは奢ってやろうと思った。

( その紙切れが思い出になる )


back