―――みつるぎくんは、

 日差しが眩しくて、少しだけ目が眩んで。
 騒ぐ声が少しだけ遠く感じて。

 ―――       。とってもすてき!

 さぁっと流れる、水の音がよく耳に残った。




「……なんだ、今の夢は」

 起き上がってみると、よくわからない夢だった。自分をあんなふうに呼んでいたのは、沢山いたけれど、あの声でそう呼んでいたのは、ほんの短い期間に一人だ。なのに、その情景がいつのことなのか、何の事なのかよく思い出せない。
 水の音、あれは、確かに。








 聞きなれた携帯電話の呼び出し音に応えて、は通話ボタンを押した。画面にあったのは見慣れた名前だから、特に不審に思う事はなく、ただ久々だなあと思うぐらいだった。そのことを向こうに伝えると、それもそうだと頷かれて、なんだかんだで互いに忙しいのか、と納得した。

「で、どうしたの?みったん」
「一つ聞きたいのだが――― 如雨露で遊んだ覚えはあるか?」
「は?じょうろ?あの、水を撒く?」
「……その如雨露だ。昔、それで遊んだ覚えがあるか、と聞いてるのだが」

 如雨露。あの植物に水を遣る、あれ。御剣の言う其れで、遊んだ覚えがあるかと聞かれれば、そんなこと知ったこっちゃないと応えるしかない。何で如何遊んだかなんて、そんなのいちいち覚えている方がすごい。しかも如雨露なんて、誰でも一度くらい遊ぶのではないだろうか。朝顔に水撒きするとかなんとか、そんなことでそのまま遊んで水びたしにして水枯れさせたり、びしょ濡れになって怒られたり。

「いや、ごめん、……よく、わかんない」
「そうか」
「何?いきなり、如雨露なんて」
「……夢を見たのだ」
「夢?如雨露の?如雨露で遊ぶ夢?みったん、自分の歳わかってる?」

 がからかって言うと、御剣はさらりと流しの年齢と同じ数字を応えた。ああ、昔はもっと可愛かったのにぃ、と思い馳せる暇もなく、御剣が言葉を続ける。

「子供の頃の、夢を見たのだ。君が、……今の君からは全く想像できない、大人しい君が、一緒に居た」
「三点リーダかける二の後の科白が、かなり許せない」
「気のせいだ」
「何処がよ。まあ、子供の頃は、ね。夢にいたの、私だけなの?」

 が御剣と二人で遊んだという記憶はあまりにも少ない。記憶が本ならば、それは一ページの六分の一、ぐらいだろう。そんな記憶が、今になって現れるとは思わない。おそらく、遊んだ記憶ならば、あと二人ぐらいいると思うのだが―――。

「はっきりしないが、おそらく成歩堂と矢張も居ただろう」
「ふうん……、じゃあ、―――無駄とは思うけど、二人にも訊いてみた方がいいんじゃない? 正直、無駄と思うけど」

 二度も言うな。
 念押しすると怒られてしまった。は適当に謝って、手元にある資料を棚に戻した。其の隣から別の資料を取り出して、デスクに戻る。

「んー、もうどうしようもないんじゃない?そんなに気になるの?」
「うム、妙に、な。なにやら、君が言っていたのだが……」
「なんて?」
「其れがわからないから、聞いているのだ」
「あーそっか。其処がメインか。……わかった、一応頭の片隅ぐらいには残しておくよ。記憶探ってみる。他に手がかりない?」
「ム……。ああ、呼び方が、苗字だった」

 呼び方が、苗字。そう言うことは、つまり、今は違うということだ。おそらく、御剣本人や、他の二人ではない。男三人、未だに苗字。まあ、から見れば、それがらしいからそれでいいのだけれど。
 は違う。名前でなんて、滅多に呼ばないし、苗字というと何か違う感じがする―――子供の頃は、苗字に他人行儀さを感じて、名前で呼んでいたけれど。
 其の他人行儀さ。其れを拭う前は、確かに。

「みつるぎくん」
「其れだ」
「ふーん、其の頃か……。じゃあ多分、れっきとした記憶なんだろうね」

 ただの夢だったら、その呼び方はきっと機能しない。おそらく、「怜侍くん」か「みったん」のどちらかの記憶の方が鮮明で、長いスパンを保っているだろう。

「んー……、手がかりはこれくらいか。ところでみったん、仕事中でしょ?結構長電話、大丈夫なの?」

 そう言うと、御剣は電話の向こうで気づいたらしく、「君も仕事だったろう」と済まなさそうに言ってきた。確かに、まだ正午には早い時間だ。いくらが御剣検事より暇とはいえ、成歩堂法律事務所に比べたらものすごく忙しい。

「ああそうだ、みったん、悪いと思ってるなら、ちょっとお願いがあるんだけど」
「……君がそう前置きして、いいことを言われた覚えが無いな」
「奇遇ね、私も言った覚えは無いわ」
「……なんだ、いったい」
「この間ね、時計がぶっ壊れちゃって。ケータイあるからいいんだけど、新しいの欲しいな、なんて」
「……」
「呆れてないで。でね、駅前の時計店に、ビジネスな雰囲気と可愛さを五分五分ぐらいに備えてたのがあったんだけど、ちょっと高めで、その。……ちょっと、検事さん聞いてる?」
「……いくらなんでも、その「ちょっと高め」を人に強請るのは如何だろうか」
「買ってくれたら、みったんの家で待ち構えて、一日ぽっきり「ご主人様ごっこ」してあげる」
「悪いが、全く興味が無い」
「じゃあ三日」
「結構だ」
「一週間で如何だ!」
「遠慮すると言っている、切るぞ!」

 変わらないはずなのに、気のせいかいつもより大きな音で切られた気がした。向こうもこっちも携帯電話なのに。感受性って偉大だと、感慨深げには頷いた。
 繋がる相手をなくした携帯電話を、は肩を竦めてバッグに戻す。適当に読んでいた資料を棚に戻して、少し早いが昼にしようと、バッグを引っ掛けて出た。窓の向こうの空は梅雨を終えてまさに夏空。コンクリートな街並みと、アスファルトの地面が暑さを助長する。

 じょうろ、如雨露かぁ。そんなもので遊んだ記憶、普通覚えているんだろうか。
 如雨露ねえ……。

「あ」

 そうやって、夏の青い空を眺めていると、唐突に、思い出した。
 夏空と如雨露。
 私が彼に伝えた言葉は。










「で、わざわざ来たのか」
「ええそうよわざわざ来たのよ如雨露の話に決着をつけてこのどうしようもない羞恥心を払拭する為に!」

 それはそれは、ひどい顔だった。
 今朝電話したての彼女は、十二時きっかりに御剣の執務室にやってきた。勿論、理由はその電話の内容。くだんの如雨露の記憶を思い出したらしく、それがまた、にとってよろしくない内容だったようだ。どんより曇った目が怖い。真っ青なくせに開き直った顔が怖い。とにかく、ひどい顔。

「今から昼飯なのだが……」
「時間とらないから話すよ」

 決定事項らしかった。御剣は手元の書類を机に置き、整理しながら溜息を吐いて、好きにしろと態度で表す。

「大丈夫。話したら即座に帰る」
「ム……折角だから昼飯でも、と思ったのだが」
「有り難いけど、私は脱兎の如く逃げ帰るわ」
「……いいから話したまえ」

 いい加減に、話が進まない。御剣が先を促すと。は話すと言っておきながら、悩み出した。そんなにいやな内容らしい。ならばわざわざ報告に来なければいいのに、と思うが、そこはらしい心情によるんだろう。「探ってみる」と言った手前、報告しないわけにはいかなかった。バカ正直に近いものもあるが、誠実だと思う。
 たっぷり三分、悩んで、諦めたように溜息を吐き、は口を開いた。

「虹の話よ」
「ふム……虹と、如雨露か」

 の言葉を反復してみると、全く関係ない話題のようであったが、実際御剣の記憶にそれはあった。それは今、口にした瞬間に、思い出せたのだ。
 小四の夏。珍しく、明け方に小雨が振ったある日。
 其の日の朝は、虹が架かっていた。それを見逃した、とがしょんぼりしていて、其の顔を如何にかしたくて。
 如雨露を持ち出して、虹を作って見せたのだ。

「―――ああ」

 刹那に湧いた記憶に、御剣は言葉を漏らした。口元が、少しだけ、しかし今のにとってはものすごく嫌味に、上がった。其の様子を見て、ははっと気づいた。思い出したのだ。絶対。あの夏の日の記憶。あの恥かしい科白もきっと。

「思い出したのなら、私、帰るわ」
「こら、待ちたまえ」
「やだ」

 あんな恥かしい話をされたら、暫く羞恥で一杯になってしまうだろう。口にするな言葉にするな。そう念じながら、は執務室の扉に手を掛けると、
 よりも足のコンパスが長い、検事局きっての天才と謳われる男が、扉を押さえた。

「逃げんでもいいだろう」
「逃げたくなるほど恥かしいのよ」
「諦めろ、。過去の過ちはどうしようもない」
「君が、其れを、さらりと言うな」
「……神様」
「!?」

 御剣が、ぽつりと零すと、は大袈裟に反応した。
 言ってしまった、この男は。おそらくの人生で、一番恥かしい科白を。


「私は、神様みたい、なのだろう?


 ―――みつるぎくんは、神様みたいね。


「――っ 言うな馬鹿!!!」

 ああ、なんであんなことを。私も幼かった。若気の至りって、ああいうことを言うんだきっと。
 無邪気且つ純粋だった、あの頃の自分の夢見がちぶりに、は泣きたくなった。

( brilliant summer )


back