が其処に立つと、ほぼ同時に携帯電話が鳴った。タイミングが悪い、と内心悪態を吐きつつ表示を見れば、無視の許されない相手だったから、仕方なしに電話に出た。御剣怜侍。怒らせたらそりゃあ怖いし、なんといっても、この電話の理由は自分だから、出るしかないのだ。

「……もしもし」
「御剣だ。今、何処に居る」
「うんとね、……樹の前」
「は?」

 固まられた。としては至極まともに応えたつもりだったのに、だ。確かに自分は樹の前に居て、そして御剣は居場所を訊いたではないか。
 大して強くない秋風に揺れる髪を抑えて、は詳細が如何にも面倒だから、軽く流すことにした。

「気にしないで、今から行くよ。んと……かなり、時間が掛かる」
「……君が言い出したのだがな」
「ごめんごめん。何ならパスしちゃっていいよ、今日じゃなくても良いし、みったんの予定のつく時で良いから」
「残念だが、今日明日を逃すと検事局に缶詰だ」
「う……ご、ごめん」

 盛大な電話の向こうの溜息を聞いて、はもう一度謝った。いくら足が電車しかないからって、余計なものに乗らないように気をつけよう、と決心してから、電話を切る。
 ああでも、いいもの、見れたなあ。








「ごめん!本当にごめんなさい!!」
「もういい」
「よくない、すっごい顔してる」
「生まれつきだ」
「そりゃあないよ、生まれつきそんなに眉間に皺寄せた奴が―――あああごめんってば!」

 途中で眉間の其れが増えたのがわかって、は謝った。これでもかと謝った。当初の予定とは違う、紅茶の柔らかい香りが隣からして、また謝った。
 当初の予定は、酒の匂いだったはず。
 から言い出したことだった。たまには、と御剣の家で二人で飲もうか、と。渋っていた御剣を説得し、一週間前から楽しみにしていた今日。今朝話し合ったはずの時間を一時間過ぎても、は御剣の家に現れなかったから、彼はそんなふうになっているわけだった。
 彼女が現れたのは、約束の時間の、二時間半後。
 何をするにも、遅すぎる時間だった。

「そんな、書類とか見るのやめてよ」
「誰かの為に早く切り上げたものでな、遣り残しが多いのだよ」
「ううう、本当にごめん!許してとは言わないから、機嫌直して!」

 ただでさえ怖い顔が―――と言いかけて、口を噤んだ。これ以上怒らせたら、どうなるかわかったものじゃない。御剣怜侍は人はいいけど顔は怖い、でも怒ったらもっと怖い。
 少しだけ空いている居間の窓から、の謝罪を嘲笑うかのような冷たい隙間風通る。

「……ねえ怜侍、本当、ごめんなさい」
「……」
「ねえ。……、うう」

 とうとう何も反応しなくなった隣の男に、はかける言葉がなくなってしまった。こうなったら梃子どころかきっと、車で引っ張ったって動かないだろう。意固地さなら負けない自信はあるが、こんなところで張り合ったってどうしようもない。

「…………私との約束よりも、大事だったのか?」
「?」

 永劫に続くかと思った御剣の沈黙が、思ったよりもあっさりと破られた。勿論本人によって。しかしその内容というのは、にとってあまりに突然で、けれどまさかそんなことを言われると思ってなかったので、反応が遅れてしまった。
 ああ、なんだ。とどのつまり。
 一応、確認しておこうと思って、は応えずに問う。

「もしかして、怜侍」
「なんだ」
「……怒ってるというか、対象も無しに妬いてたの?」
「っ!証拠もなくそんなことを言うのは止めたまえ!」
「顔、真っ赤」
「ぐぅっ……!」
「やあねえ、法廷人間は。すぐに証拠証拠って言うんだから」
「君もそうだろう」
「君やなる程じゃないもん」
「論点をすり替えるな!」

 おお、法廷張りの気合だ。
 と思ったけれど、本気で拗ねられても問題なので、は素直に白状する事にした。しかし、まさか、そんなことで怒っているとは思ってなかった。女性と付き合ったことが無いわけでも、まして其の容姿と度胸で少なかったわけでも無いだろうに、羞恥に耐えて問い詰めてくる御剣は、とんでもなく、可愛い。やっぱ怜侍はいじめるものだ。いじめられるものではない。
 御剣が先ほど怒りながらも淹れてくれた紅茶を少しだけ飲んで、喉を潤す。

「……駅で、電車乗り間違えちゃって」
「……」
「そんな顔しないでよ。それで、すぐ降りたんだけど、懐かしい駅名を見つけちゃったから、その、ちょっとくらい、大丈夫だろうと思って、ちょろっと乗ってしまいまして……」

 前言撤回。可愛くない。すごく怖い。
 最早、般若か何かかと思ってしまうほど。きっと今の御剣には二本の角がとっても似合う。とかなんとか、現実逃避をしながらも、は出来るだけ、刺激しないように話を進めた。御剣が問うてくるから、行き先を応えると、彼の表情は驚愕に変わる。

「そんなところまで行ったのか?」
「うん、一本でいけたよ。懐かしいでしょう」

 行ったのは、自分達が一年も満たない時を過ごした、あの街。小さくて小さくて、それでも楽しかった、あの街。まさか其処へ、たった一本の電車でいけるなんて。もしかしたら、たいした距離なんて無かったのかもしれない。あの街を出るとき、それはそれは、感慨深く眺めたものだけれど、一時間と少しでいけるとは。

「少し道路整備とかされてたけど、変わってなかったよ。あんまり懐かしくて、いろいろ探索しちゃった」
「それで、遅くなったと?」
「……はい」

 はあ、と盛大に、御剣は、の目の前で何回目かの溜息を吐いた。其のたびに居たたまれなくなるが居る。しかし場の空気が変わったのは有り難かった。原因とはいえ、故郷の話を引っ張り出して正解だ。

「だから、ほら、電話で言ったでしょ?「樹の前に居る」って」
「ああ。……なるほど、そういうことか」
「うん、皆で木登りした樹。まだあったよ、元気だった」

 そう嬉しそうに言ったあと、ふ、と御剣がかすかに微笑んだのが見えて、はほっとした。御剣はおそらく、四人の中で一番あの思い出を大事にしていた人間で、大事にしすぎてしまいこんでたんだろうと思う。こうしてまた一緒に居るようになって、少しずつ少しずつ、表に出ているのが解る。
 なんだか胸の辺りが心地好くなって、もまたあの頃を懐かしんだ。
 あの樹。よく四人でつるんで遊んだ場所。
 そこで、ふと。

「!なんだ、突然……、?」
「……やっぱり、無いよね。傷」

 突然、御剣の腕を取って、袖をまくって。御剣の声も聞かず、はぽつりと呟いた。大して鍛えてるわけでも無いのにやけにしなやかな御剣の腕をすっと触って、残念そうに溜息をつく。
 其処にあったものはもうない。当たり前のことなのに、如何してだろう、ひどく寂しい。

「……?」
「覚えてない、よね。……うん、今ぐらいの季節。木登りしたとき、私、足滑らせて、怜侍が助けようとしてくれて」
――
「結局、落ちた私よりも、枝に引っ掛けて切り傷をつくった怜侍の方が大変な事になって」
――
「しばらく、四人揃って木登り禁止になったりとかして」
「ああ。君が号泣してたな」
「そ、そんなに泣いてない、と、思う!多分!」
「……」
「うう、どうせ泣き虫だったわよ……」

 あの頃は、涙腺がいつでもフル稼働してるんじゃないかと思うぐらいに、泣き虫だった。自分の所為で怪我をした御剣に対して、の方が怪我をしたんじゃないかと思えるほど盛大に泣いた。は御剣の家に着いても泣きっぱなしで、親御さんに迷惑掛けた、と今なら土下座したいぐらい思える。
 今思えば、あんなに泣き虫だったのに、男の子とばかり遊んでいたとは、無茶をするというか、向こう見ずみたいなところがある。自分でそう思ってしまった。今ではこんなに臆病なのに。

「ま、泣かなくなったのは、君の所為なんだけどね」
「何?」
「いやよ、二度も言わないわ。それよりみったん」

 立ち上がって、勝手知ってる、といわんばかりに振舞って、はワインのボトルを出した。勿論、家主御剣怜侍のもの。

「機嫌も直ったところで、やりなおしましょ」

 が笑って、御剣は仕方無しに、グラスを準備した。

( autumn scrape )


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