隣で、ふあ、と欠伸の気配がして、視線を向けると、彼はその欠伸の為か少し涙目だった。今朝待ち合わせに来た時から思っていたけれど、どうも、いつもよりも体調が悪く見える。其の事を問えば、

「妹のビデオ鑑賞に無理矢理付き合わされてな」

 睡眠時間が極端に短い、と彼は欠伸を噛み殺しながら言う。頭を支えるのも面倒なのか、ガタガタ揺れるバスの窓に頬杖をついて、けれどあまりの揺れに休めないようだった。
 今日の不思議探しは遠出をしましょう!、と高らかに言ったのは勿論我等がSOS団団長で、待ち合わせに遅れた彼は、今日は全員のバス代を奢ることになった。いつもながら、いやいつものことだからこそ、彼に頭があがらない筈なのに、僕達は皆当然のことのように受け止めている節がある。おそらく、奢っている彼自身、そろそろ義務のように感じているのだろう。

「あほか。誰が好き好んで、五倍の金を払うんだ」
「では、あと数分早く来る努力でも如何ですか?」
「……俺は最近、ハルヒに尾行されてるんじゃないかと思うね」
「おや、僕は逆だと思っていました」
「本気で言ってるなら拳で意見させてもらうぞ」

 それは避けたいところなので、苛立たしげに窓に眼を戻す彼を笑顔で見送った。
 重そうな瞼が何度も何度も、下瞼と接触している。多分、この少ない時間でも、彼は熟睡するのだろう。それほどの疲労が見える。今はまだ無事だけれど、運転手がブレーキをかけた時、頭でも打つ危険がある。
 と思った矢先に、それは起こった。がつん、と後ろからも聞こえたのは、おそらく朝比奈さんのものだろうと勘付く。そして僕の隣で彼女並の失態を演じてしまった彼は、

「……バスすら俺の敵か……」
「大袈裟ですよ」

 他に敵がいたらしい。おそらく、今日に限って全員行動を言い出した涼宮さんや、夜更かしを強いた妹さんのことだろう。彼は相当イライラしてるらしく、こともあろうか僕に向かって訝しげな顔を向けた。

「もしやお前、押してやいないだろうな……」
「いえいえまさか。触ってもいませんよ。触れ合った肩以外は」
「そういう言い方は止めろ。気持ち悪い」

 彼の言い分に肩を竦めてから、指を一本立てて、

「まあ、……ぶつけたら面白いなーとは、思いましたが」
「その長い指を折られたくなかったら引っ込めろ」

 やれやれ、どうやら今日は沸点が低いらしい。いつもなら、もう少し平和な罵りで済むというのに。
 隣で面倒くさそうに、疲れたように溜息を吐く彼を見ていると、矢張り気にかかった。そして、少しだけ、この―――僕と彼が隣に座っているという―――状況を、利用してみようかと、思った。僕は彼がこんな状態であるというのに、自分の事を考えてばかりで、内心自嘲する。

「肩、お貸ししましょうか?」
「……男の肩で寝て何が楽しいのか説いてくれ。退屈で寝れるだろうから」

 残念です、と肩を竦めると、彼は訝しげな目線を僕から外し、窓の外に顔を向けた。彼の姿に疲労を感じて、僕はそっとしておくことにする。幸か不幸か目的地は大分遠くで、上手くいけば彼はそれなりの睡眠が取れるだろうし、僕は彼の寝顔を拝見できるかもしれない。肩を貸す、という行為は結局失敗したものの、寝顔を見れるのは結構役得かもしれない、と思っていると。
 彼が此方を見ていた。眼を丸くして、どうやら少々驚いているようだった。

「如何しました?」
「いや、もっとうざったい程喋ってくるかと思ったら、全然ないから驚いた」

 予想外の内容で、僕はいつもなら何が来ても対応できるように即座組み立てているロジックを、見失った。まさかそんなことで驚かれると思わなかったし、話すことを期待されているとは思わなかったのだ。だから返事の始まりは遅かったし、始まり方も何処かおかしかった。

「……それは、また。僕も黙るときはありますよ」
「いつもは無駄に話すだろうが」
「今日は貴方がお疲れのようだからですよ。これでも心配しています」
「俺がやる気がないと、何故か団長さんが不機嫌になるからな」

 その言い分には多少なりとも、僕を『機関』の人間と見ている点が含まれていて、僕には頂けないものではあったけれど、彼に『心配している』というポイントは伝わっている様でもあるし、何より彼は疲労感で一杯なので、言及することは避けた。

「そういうつもりではなかったのですが……。まあ、この際何も言いません。貴方は休んでいて結構ですよ。ああ、ご心配なく。着く前に起こしますから」
「――」
「何か話した方がいいのなら、話しましょうか?」
「……いや、いい」

 訝しげに顰められていた顔が、ふと軽くなったように見えたのは気のせいだろうか。それが何に起因するのか考えている数瞬の間に、彼の思考の方が先に終わり、そして言葉にしたらしく、だから僕は、その次に起こったことが何なのか、全く理解できなかった。いや、理解なら出来ていたと思う。けれど、どうしてそんなことになったのか、経緯が欠片ほども理解できずに、彼の思惑を考えるという行為は、ぴたりと、電池が切れた時計のように止まったのだ。

「あの」
「お前が言ったんだろ」

 僕の、露骨に戸惑った声に、彼は応えた。腕を組み、体を少しずらして、僕の左肩に頭を傾け―――いや、頭を預けたまま、此方を見ずに。
 確かに僕は、肩を貸すことを提案したけれど、彼は拒否を示したのではなかっただろうか。

「気が変わったんだ。いいから寝かせろ」

 それきり黙りこんでしまい、本当に眠ることにしたらしい。
 規則的な彼の呼吸や、左肩にかかる重さ、伝わる鼓動に、僕は誰にも見られていないのに眼をバスの天井に泳がせてしまう。やけに鼓動が感じるのはどうしてだろう、頚動脈は当たらないし、心臓というのは本来左胸にある筈で。左胸。そう左にある。彼に、僕の左肩に凭れかかる彼に、僕の心臓の音は、聞こえているのだろうか。それが嬉しいことなのか、気まずい事実なのかはわからない。
 顔を少しだけ動かして、見えた色に、僕は無意識に微笑んでしまった。
 彼の顔がほんの少し赤く見えたのは、気のせいではないだろうし、今の僕の顔には、癖になってしまった其れとは、格段に違う笑みが浮かんでいるだろう。

( Like a windfall )


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