打った背中が痛い事ばかりが頭を占めて、何が起こったのかよく理解できていなかった。びりびり響いて、動きが取れなくなる。だからといえば言い訳くさいが、けれど理由なんてそんなもんで、俺が目の前にそいつの顔があるのに気づいたのは、唇が塞がれたことに気がついた後だった。
 古泉の馬鹿にキスなんてされるのは初めてでは無いし、かと言って慣れたつもりも、慣れる予定もさっぱり無いが、この度のそれは相当乱暴だった。いつもの丁寧な物腰は何処行ったんだと、頭の片隅で思えるほど、それぐらい冷静に考えてしまうほどで、なんというか、あー……、その、なんだ。俺的には絶対良くない表現なのだが、蹂躙されるってこんな感じなんだろうな。本当に、なんでこんな表現しか浮かばんようなことをしてくれるんだ。
 経験値が(おそらく)ものすごく高い古泉に、格段に低い俺が着いて行ける訳もなくされるがままだった。息苦しいしものすごく恥かしいし、後から何で蹴り飛ばさなかったか自己嫌悪に陥る事が眼に見えている。ちくしょう。

「―――、はっ……」

 漸く開放されると、恥ずかしながらどっちのもんか知れない唾液が俺と古泉の唇の間に糸を引いた。いい加減酸素が足りなくて思考が停止しそうだが、如何にかこうにか、されたことに怒りを覚えるぐらいには正気である。
 先ほど打ち付けられたまま、未だ壁と仲良くしている背中が痛い。同時に奴の手で押さえつけられた手は、眼一杯の力がこめられているのか相当痛い。それでも気にかかるのは、古泉の手が妙に熱く感じることだった。

「……何すんだよ、いきなり」

 空いている手で乱暴に口元を拭う。
 漸く顔を離した古泉は、別人かと思うほど真剣で、悲壮な顔をしていた。俺が悪いことしたみたいな、この場面から見ると悪者は俺と第三者が決定するだろう表情をしていた。なんなんだ、なんでそんな顔しやがる。お前に突然こんなことされて、泣きたいのは俺の方だ。

「泣いても結構ですよ。止めませんから」

 そう笑ったつもりなんだろう。けどあんまり上手くはないな。本当に、如何したお前。あまりにも異常なことが起こっていて、俺は自分の貞操の危機をさておいて心配になっちまうじゃねえか。俺も馬鹿だ。そしていきなりこんなこと仕掛けて来るお前は、多分現時点でこの世の最たる馬鹿だ。

「貴方を手に入れたいから、ですよ」
「ぁあ?」
「涼宮さんが望めば、いつか必ず、……貴方は彼女のものになるのでしょうね」

 だから、其の前に。
 浅い呼吸をやめて深呼吸を一つ、古泉は間としておいた。

「ほんの少しの間だけ、僕のものになってください」

 将に、泣きそうな顔で。
 科白を聞いただけなら、俺はこいつをなんとしても引き剥がし、それこそこいつの長所である顔をぶん殴ってでも逃げただろう。そうしなかったのは、また言い訳くさいことだが、そんな顔をしていたからだ。いつの間にか古泉に甘く為っている自分に気づいて、自分の正気を疑う。やっぱりどうかしちまってるんじゃないか?俺も、お前も。

「僕は正気です」
「何処がだよ。離せ」
「拒否します。……言ったでしょう、泣いても止めないと」

 そんな強調するほど泣きそうな顔をしてるのか俺は。嫌だな、こいつの前では泣きたくない。確かに泣きそうな事態ではあるが、だからといって泣いてたまるか。
 俺は古泉のネクタイを掴んで睨みつけた。如何見たって泣きそうなのは古泉の方で、俺は泣きたい気持ちが少しも無いわけじゃあないが、それより占めるのはベクトルが怒りの方向に向いているストレスだった。

「泣きそうなのはお前じゃないのか、古泉」
「……っ」

 露骨に古泉の顔が歪んだ。ああ、こんな顔も出来るじゃねえか。さっきはつい異常とか思ってしまったが、そうしているほうがよっぽど生き生きしてるぜ、四六時中へらへら笑っているよりな。
 だいたいお前はいつもいつもすかし過ぎなんだ。笑ってりゃあ、皆が皆見ないふりしてくれると思うなよ。是でも観察力には自信があるんだから。俺に眼をつけたのが運のつきと思え。

「こんなことしたって、お前が欲しいもんは手に入らねえだろう」
「―――」

 そう、何も言えないよな。お前は馬鹿だが、其れ位解るだろ。何があったって俺は俺のもんだし、誰にもやるつもりもない。だからお前のものにはならないし、ハルヒのものにもならない。
 「それでも」と古泉が呟いた気がする。俯いた顔が訝しくて覗きこむと、長い前髪が邪魔で見えなかった。とりあえず何か言ってやろうと思ったんだが、生憎何を言うつもりだったかわからない。とにかく、古泉が突然顔を上げてまた貪欲にキスされたんで、俺は言葉を飲み込んじまった。
 あんまり顔が近いんで眼を開けてられないが、古泉の手が俺の服に掛かったらしい。ああもう、ネクタイってこんな簡単に取れるもんだっけか?元から締めてるわけじゃないが、それでも首元が軽くなった。長い指がするするとボタンを外していって、冷たい空気と奴の手が入り込んでくる。俺のささやかな抵抗なんてもんは全く問題じゃないらしい。申し訳程度の行動しかしてないと、自分でも思うが。

「……っ」
「少しの間だけ、我慢してください」
「古泉っ……おい!」

 古泉はもう俺の話なんて聞くつもりは全く無いようで(俺ももう話せる状態じゃ無いんだが)、俺の胸に顔を埋めた。触ってて楽しいのかどうかは俺は変態ではないのでさっぱりだが、やけに自分の鼓動が早くなっているのが実感できてしまって、古泉が触れる度に其の熱さにびくついてしまって、―――とにかく、情け無いことに言葉にしがたい感覚で一杯一杯なのだ、俺は。
 だのに頭は妙に冴えていて、おい初体験が是でいいのか、と思ってしまうほどだ。なんでこんな落ち着いてるんだろうな。今将に男に抱かれようとしているというのに。俺はいやに冷静に、俺を抱こうとしてる馬鹿の声だとか表情とかが、いつもとは違う、人間らしいとも言える其ればかり思い起こして、気遣って、同情では無いけれど変に傾倒していて。

 ああくそ、解ってるんだよ。それくらい。そろそろ言い訳するにも無理があるんだ。残念なことにな。
 こいつを蹴り飛ばさないのも。やけに冷静でいるのも。とんでもないことされるとわかっていて甘んじて受けているのも。
 いつの間にか、俺は。

( Although I am convinced )


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