人生で一番の失態。
 そう呼べるものを俺はこの歳にして経験してしまったわけだが、是が如何して、後悔なんてもんが浮かばないから、俺は相当救われないいかれ方をしたんだろう。いつからかはしらん。おそらく夏からこっちの、某スマイリィエスパーの所為だと思われる。これっぽっちも俺の所為じゃないぞ。
 人には言えない理由で痛い体では、登校時の坂道は地獄のようなもんだった。というか学校自体が地獄のようなもんで、俺は非常に眠かったり寝たかったりしたんだが、生憎前には教師、後ろにはハルヒの挟み撃ちにあっている。船を扱ぐ程度ならまだしも、ぐっすり寝ようものなら前から注意、後ろから突きが襲ってきて、どちらも俺の成績が心配らしい。ありがたいこった。
 古泉とすれ違うこともなく一日は終盤を迎える。つまりは部活に入るのだが、昨日の今日で、俺はとても行き難い気分で一杯だった。しかし後ろには団長様がいらっしゃるのでサボるとかそんな無礼を働くわけにも行かず、先延ばししたい一心で、スローペースで支度をしていたら、その団長様に引っ張られた。馬鹿力め。
 まあ先延ばししていいことではないし、というかちゃっちゃとさっさととっとと決着をつけてしまいたいので、俺はハルヒの綺麗に丸い頭越しに部室を覗いた。でも、古泉が居ないと良いななんて思ったのは責められることじゃないだろ?うん。

「今日は皆揃ってるわねっ!キョン、アンタも見習いなさいよ、ちんたら準備しないの」
「……おう」
「今、お茶淹れますね」

 ハルヒの言葉に適当にしか返事出来なかった事は許して欲しいね。部室では相変わらず置物のように動かない長門と、眩しいメイド服でお茶を淹れる朝比奈さんと、暇を持て余しているようにも見える古泉が居た。
 あまりにも日常過ぎるある意味非日常な風景に、俺はいつもの席に着くしかなかった。拍子抜けってこういうことを言うんだな。問題の古泉は眼が合うと笑みを深くした。意味深だが、意味なんて空っぽのようにも見える笑顔だ。
 なんだ、悩んでたのは俺だけか?それともあれは夢か何かだったのか?だとしたら俺は今すぐ精神科を受診したいんだが。いや待て、それだと内容を話さなくてはならなくなるな。此処はやっぱり、人が夢を見るシステムの定説を根底から否定し、新たな説を考える為に引き籠っとくところか。

「……大丈夫ですか?」
「――」

 朝比奈さんが淹れたお茶を飲んで、混乱しかけた頭を如何にか落ち着かせていると、古泉の目元が僅かに変化した。一睨みすると肩を竦めて見せて、

「それは良かった」

 だった。何が良かったんだ、何が。
 こんなところで引っ張り出すわけにもいかなかったので、俺は疑問と当惑をそっと胸に仕舞って、いつもどおりの団活動を過ごした。朝比奈さんのお茶を飲み、ハルヒが馬鹿なことを言うんじゃないかとハラハラし、長門の明鏡止水な読書姿に癒され、てんで弱い古泉のレベルアップには全然なっていないゲームの相手をする。
 何も変わらなかった。
 あんなことがあったというのに。
 あんなことがあって如何のこうのと憂鬱になっていたわけではない―――いや少しは憂鬱だったかもしれんが、とにかくすかされるのは不相応だ。無かった事にしたいのか、そうだったら「大丈夫か」なんて訊かないだろうし、かといって事実として受け止めているには、古泉、お前俺の眼を見なさ過ぎだ。のくせに視線を送ってくるな。言いたいことがあるならはっきり言えよ。
 ことの張本人がそんな様子だから、吹っ切れた。もう、俺からアクションを起こす事にする。そのアクションで張本人がどう思うか、どう動くかなんて、知ったこっちゃねーや。全部あいつの所為なんだから。
 居なけりゃいいのにとか思っていた割には、随分行動派なことだ。ちくしょう、これもあの馬鹿の所為だ。










「ちょっと付き合え」

 ともすると聞き逃しそうな声に、それでも僕の耳は確りと捕らえた。申し出があることを予想できていたはずなのに、恙無く今日が終わる事に安堵を覚えていた帰り路。いつもの解散場所に来て、僕は気が抜けていたんだろう、僕の顔を一瞥した彼は、「なんだ、其の顔」と笑った。
 さて彼はどういう反応をするんだろう。僕は彼の隣を歩きながら考える事にする。昨日も考えた事だった。昨日のことは、―――其の時彼は、淡々と、恬淡と、淡白だった。其の時も彼は、僕の顔を見て笑った。
 何もなかったんだと思った。
 ただ行為があっただけで、何も、今まで僕が彼にしてきたことのように、流せてしまう程度のことだったんだと。
 それが、辛くて、苦しくて―――とても、嬉しかった。

「古泉?」
「っ、はい」
「ほれ」

 彼が差し出したのは缶珈琲。思ったより僕は思考に耽っていたようで、公園に着いたことも、彼が自販機でこれを買ってきたことにも気づいてなかった。
 差し出された缶は温かかった。開けるとふわりと珈琲の香りがして、心地いい。中途半端な時間の為かあまり人はいなかった。僕達二人だけが其処に居た。
 ただひたすらそうしていた。
 公園のベンチに座って、離れているわけでも近いわけでもない距離だけを保っていた。彼は何も言わなかったし、僕は―――いつもの僕なら何か、適当なことを話していたんだろうけれど、それは何故か控えていた。彼は僕を見なかったし、僕は彼を見なかった。ただ珈琲の香りだけを共有して、何もしなかった。
 この時間のなんと幸せなことか。このまま時間が止まればいいとすら思えた。なくならなければいい、冷めなければいいと、ちびちびと飲んでいた、彼がくれた珈琲。それだけであるのに、僕は酷くそれに執着して、香りだけ残して空になった途端に絶望した。徐々に冷たくなる缶と、薄れていく匂い。夕陽が沈みきった空を見ると、僕が如何に滑稽な願いを持っていたか、嗤えた。
 空になるのが同時だったようで、彼は立ち上がって、少し離れた、正面にあるゴミ箱まで近づいて其れを捨てた。

「なあ古泉」

 其の位置のまま、振り返らないまま彼は言う。

「お前、ちゃんと考えたか?」
「……昨日の事、ですね」
「ああ」
「考えた、―――その結果のつもりです」

 あの行為も。今日の過ごし方も。
 どちらも僕の我儘なのだ。日々を壊したかったのは僕で、日々を壊したくなかったのも僕だ。だから、本当は喜んでいた。彼と行為に及べた事、彼が微塵も変わらなかった事、何の変化もなく、いつもどおり過ごせた事。

「じゃあ、なんで俺が、大した反応して無いか、考えたか?」
「――」
「頭使えよ、古泉。考えろ。お前は馬鹿だが―――頭は悪くねえよ。俺が保障してやる。だから、いつものように精神分析してみろ」

 得意だろ、と彼は振り向いて言う。
 けれど、僕は思う。彼の内面ほど解らないものはない。彼は何処まで見透かしているのか、解る人がいたら聞いてみたい。きっと其の回答も正解では無いだろう。何故なら、彼は彼のもので、他の誰のものでもないのだから。僕は正直に答えた。

「残念ながら、僕如きでは貴方の内面を計れません。……正直、驚いています。憎まれるか疎まれるか嫌われるか。怒られるか泣かれるか。そう思ってましたから」
「全部はずれたな」
「ええ……、本当に、貴方は何を如何思っているのでしょうね」

 苦笑した。彼は少し考える仕草を見せてから、僕に視線を戻し、また一つ、溜息をついた。ゆっくりとした足取りで僕の方へ距離を詰めた。僕の前で、ぽつりぽつりと、独白のように言葉零していく。

「……そのどれもしなかったのは、必要が無かったからだ。憎くは思わなかったし、疎ましくは……少し思ったがそりゃ俺の怠惰だよ。嫌う理由には成らなかった。怒りを覚えることもなかったし、泣くなんて、まず哀しくなかったな」
「――」
「あの時、お前を蹴り飛ばさなかったのも、やけに冷静だったのも、とんでもないことされるとわかっていて甘んじて受けたのも―――理由は一つだけなんだよ」

 彼との距離が、零に近くなる。彼は少し屈んで、僕と視線を合わす。
 いつものように顰められた顔。引き結ばれた唇。真っ直ぐに僕を見据える眼。
 其のどれもが、僕から自由を奪った。

「何を如何思っているか、て言ったな」
「――」


「俺は、――――――」


 耳を疑った。
 何も考えていなかったのに体が動いた。ポケットに手を入れたまま僕を覗き込んでいた彼を引き寄せて無理な体勢で抱き締めた。嘘のように簡単に彼は僕に体を預けた。少しだけ間を空けてから手を伸ばしてきた。嘘のように優しかった。

「好きです」

 ひたすらに、何度も何度も、繰り返して、其の度に彼は少しだけ頷いた。其の度に僕はまた言葉を繰り返して、

「いい加減止めろ」

 彼がそう言うまで続けた。
 漸く離した時、彼の顔が少しだけ悔しそうで、照れているように見えた。
 僕の中で何かが消えて、其の分何かで埋まった気がした。
 開放すると、彼は僕の顔を見て目を見開いて、

「なんだ、其の顔」

 そう笑った。

( He said " --- " )


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