「相談したい事があるんです」

 お誂え向きに女性陣が早々に帰宅したこの日、「ああ、そうだ」と、古泉は天気の話でもするかのような気軽さで、つまりは全然悩んでなさそうな気楽さでそう言った。別段帰宅を急ぐ必要も無かったし、何よりこいつがそんなことを言い出すことが珍妙で、何か腹に一物どころか七物ぐらいは潜んでるんじゃないかと思われる古泉の内面にも興味があったのもあり、俺は其れを聞くことにした。まあ、そんな気楽に言うんだから、大した問題じゃないんだろうと思いながら。
 今―――つまりその内容を聞いた直後の俺は、其の時の俺をジャーマンスープレックスしたいぐらいには憎くなった。もっと疑り深くなるべきだとひどく反省するね。

「はあ?」

 俺がそんな声を上げたことに違和感は欠片も無い。絶対無い。こいつの話を頭ん中で反芻して、俺はまた疑問符が増えて、其の頭を抱えたくなった。いやむしろ逃げたい気分になった。いきなり家からメールでも来ねえかなあ。卵買ってきてとかそういう、日常的且つ平和的且つ自然な退避が出来る内容で。
 言っておくが、俺は古泉の相談から逃げたくなったんじゃないぞ。ここだけ聞くと其れ以上に酷い人間のようだが、こいつ自身から逃げたくなったのだ。身の危険を感じる。しかも今ここは俺と古泉しかいない。危険極まりない。以前された告白は、そう思うぐらいの威力をしっかり持っていたからな。是非とも可愛い女の子から言われたい科白を、俺は同学年の嫌になるほど面のいい男に言われてしまっている。何でこんな奇妙な経験値ばかり上がるんだ。

「聞き取れなかったですか?では、」
「いやいい二度も言わんでいい。多分ちゃんと理解している」
「聞き間違えたかもしれませんよ」

 それは……非常に有り難い真相なんだが……。いやしかし其の可能性というのは如何なものか。俺はこれで聴力は悪い方ではないし、古泉の声はよく通る、本人には言えないがかなりいい声だ。その組み合わせでこんな内容のことを聞き間違えるなんて、俺はどんなイメージをこいつに持っているんだ?
 微妙な心境のまま返事をしない俺を見て、古泉は何を思ったか肯定と受け取ったらしく、わざとらしく咳払いをして、


「ここ最近、貴方を押し倒して苛めて泣かせる夢ばかり見るんです」


 そして俺はまた逃げたくなった。とりあえず、盤上のナイトを現実逃避の為に進めた。
 こいつとこの手の―――どの手だと言われれば困るんだが、とりあえず、そういう方向の話をすると、いつも俺が負ける破目に陥っている気がする。こいつは途方もなく笑顔で、そのまま言いのけるのだ。最初の言われたのはいつだったか、夏を何度も繰り返した後だったかな、その辺だ。それ以来ずっと、隙有らばというほどではないが、何か切欠があればすぐに、そんな言葉を引っ張り出してくる。
 曰く、古泉一樹は俺のことが好きらしい。恋愛感情の意味で。

「ああ、誤解の無いように言っておきますが、」

 誤解もくそも無いと思うんだが聞いてやるよ。どんな弁明だ。

「性行為という意味ですよ?」
「うるせえ、爽やかに言うなっ!」

 なんでそんな下品な話を長い指を一本立ててにこにこと首少し傾げて可愛らしく見えるような仕草で言っているんだお前は。可愛くないぞ、気持ち悪い。こいつはさっぱり理解できん。
 というかツッコミが随分遅れたが、なんつー夢だ。もうちょっと健全でノーマルな夢を見ろ。小学生が見てもショックを受けない程度の。フロイト先生にでも相談したら如何だ、今なら俺があの世へ無料で送り出してやる。返品できんと熨斗紙つけてな。

「そう怒らないで下さい。これでも真剣なんですよ」
「怒らないでいられるか。いやいられん」
「反語で強調するほどですか……。しかし、本当のところ僕も困っています。もう毎晩、貴方が夢に」
「わかったから何度も言うな」

 くつくつと喉を鳴らして古泉は言った。だから、なんで、そう、笑顔なんだ。
 今すぐにでも立ち去りたいが、流石にこんな話題を放っておくのも危険な気がするので、其処は我慢して話を内容ではなく別の方向へ変える努力をする。本当、なんでこんな相談を、ていうか俺にするなよ。ご本人様だぞ。

「だからこそです。他人に聞かれた日には、僕は外を歩けませんね。立派な変態だ」
「変態とは変態性欲の略らしいぞ。良かったな」
「では、其の持て余した性欲を解消するという方向で話を進めてみませんか?」
「其れが一番お断りだ」

 古泉はいつもの、「困りましたね」と言わんばかりの態度で肩を竦め、俺は長い長い溜息を吐いた。溜息で古泉の性欲が吹っ飛べば良いのにな。銀河系の端ぐらいにまで。そんなことになったら奴も男の子なので其れは其れで大変な気もするが、其れより俺は自分の身が大事なので、現実逃避もそこそこに、天王星ぐらいまで行きかけた意識を部室に戻す。

「いつからだ?」
「大体、二週間程前からかと。最初の頃はもう少しまともな展開だったのですが、最近はもう其れで満足できなくなったようでして、いろいろと手の込んだことを」
「具体的に述べようとするな。お前狙って言ってるだろ」
「ふふ―――まあ、現実に身を置いている間は慣れてしまったというか、退屈になるとつい妄想しがちです。気を抜くと、貴方を如何やっていじめて泣かせて、つまり啼かせてみようかと考えています」
「慣れる処間違いすぎだろ!既に立派な変態だ!!捕まれお前!!」

 本当に、何処かの寺とか山とかで修行して煩悩を取り払わせた方がいいんじゃないだろうか。俺の為に。俺の貞操を守る為に。ある意味こいつの為に。本当にやばい気がする。
 駄目だ、どういう方向に持っていこうとしても全部が全部、俺が嫌な思いをする方向に進むシステムになってやがる。こいつといいハルヒといい、世界はとんでもなく間違っている。全部俺に悪い事が向いているぞ、なんでこんな集中的なベクトルなんだ。全世界俺いじめ大会か。優勝は古泉で決まりだな、おめでたい気持ちがこれっぽっちも湧かないが。

「お前、俺の反応が見たくてそういう事を言っているんでは無いだろうな」

 古泉はまた喉を鳴らして笑う。いけすかん奴だ。
 同じ事を何度も繰り返すと、人は慣れなのか麻痺なのか、動じなくなる。最近の俺はまさに其れで、古泉が何度目かもう解らん告白をしても沈黙したり適当に返すようになってしまった。日常というものは恐ろしく、おそらく非日常に当たるこの部室においても其れは同じで、俺はどうも、古泉が俺のことを好きだということを既に事実として受け止めている節があるのだ。其れはそれで問題なんだがな。

「思うままに言っているつもりです」

 さらりと言うが、其れはそれで大問題だ。ああ、だから相談してるんだったな。忘れていた。如何聞いても、如何判断しても、俺をからかって遊んでるように見えるもんでな。

「先ほども言ったでしょう?僕は真剣です。結構、悩んでるんですよ」
「……俺はお前が何考えているかさっぱり解らん」
「そうですか?解り易いと思いますけど」

 何処が如何解り易いんだよ。

「解りませんか?」

 解らないと言ったばかりだ、お前の耳は機能してるのか?

「ふふ。困った人ですね」
「何の話だ」
「……貴方の事ばかりですよ。僕が考えているのは」
「――」

 ……それはそれは、ごくろうなこった。
 「つれないですね」と笑って、古泉は思い出したかのように駒を進める。会話しながらちまちま進めていたが、なんだか知らんが、いつの間にか絶賛劣勢な俺の黒い駒が、ひょいと、古泉の長い指に持っていかれた。本当、いつの間に心理戦になっていたんだ。こいつ相手にそりゃあ面倒だな。読みにくい。

「チェックメイトです」
「お前……」
「いえいえ、運ですよ、ただの」

 へらへら笑っているので信用ならん。
 思えばこれで負けるのは二回目である。一度だけオセロで負けた。あの時は如何したかな、常日頃の仕返しとばかりに言う事を聞く羽目になったんだが……。ああ、思い出すんじゃなかった。どえらいことをしたんだった。なんで言う事聞いたんだ、俺は。何やってんだ俺。今も、前も。忘れることにしよう。
 そして古泉は暗黙の了解と言わんばかりに、立ち上がって、俺が惨敗したチェス盤のすぐ横に手をつく。

「……の、前に聞きたいんだが、他に語彙は無いのか、お前は」

 これから何をされるか言われるか確信出来てしまった俺は、間を取るために言った。間があろうがなかろうが、実行されるんだろうが、やらないよりはましだ。こいつは同じことしか言わん。レパートリィに欠けているのか知らんが、他に言いようが無いのか、其れ。赤面もんなんだが。

「あるにはありますが……貴方には、直球で言わないとはぐらかされるでしょうし、意味を取り違えられそうです。―――聞き飽きたかもしれませんが、聞いてもらいますよ」

 やっぱりあるのか。なんか言い慣れてそう―――いや、寧ろ言われ慣れてそうになるのか、これは。とにかくそんな感じだしな。其の面で言われた事が無いわけではあるまい。
 屈み込み、俺とほぼ同じ目線になる。近い。非常に近い、しかし負けた手前此処で逃げれば男が廃る。いやまあ、このまま受け入れてても男は随分と廃れている気がするが、まあそれは気にしないことにしよう。つか、逃げた方が、無理矢理夢を実行されそうで恐ろしい。ここは大人しくしておくのが良策だろう。良策と言っても、俺の不快指数が上がることには変わりは無いんだがな……。
 微笑を湛えた古泉が、空いた手で俺の顎を摘んだ。自然と視線が合った眼は、嬉しそうでも、哀しそうでも無く―――ただただ、何かを期待し、願うようだった。

「好きです」

 俺にとっても、おそらく古泉にとっても哀しい事に、耳慣れしてしまった言葉。其れが、目の前の男の形のいい唇から発せられる。
 その唇が重なりに来るのを、俺は予期しつつも抵抗しなかった。
 負けたからな。仕方ない。
 詰められる距離に耐えかねて、俺は瞼を閉じた。

( pretends not to see. )


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