そんな理由は無いと思う。
けれど僕は何故か彼の言うとおり、思っている節があった。
何ともないいつもの帰り道、女性陣の賑やかで可愛らしい後姿を見ながら彼の隣を歩いていると、不意に生まれた会話の隙間に、彼が滑り込ませた言葉は、
「お前、俺のこと嫌いだろ」
だった。其の後に続く言葉は無く、彼も平然としているので、一瞬足が止まってしまった僕は距離が離れてしまった。
何を、言い出すのだろう。
僕は少なからず彼のことは積極的な感情を持って接しているつもりだ。この涼宮ハルヒの欲求を満たす為の集団に属していることに義務を感じ、彼女の思う古泉一樹として振る舞い、彼や彼女達と同じく振り回され、彼女の精神の安定を保つ為に戦い、其れに疲れることはあっても、……その日々を厭う事は無かった。むしろ、もっとプラスな感情を感じている。僕が随分前に捨てて未練も無かったものを、彼女は与えてくれたと感謝すら覚える。そして、其の日々の中に含まれている彼に関しても其のつもりだった。彼に憧憬を感じる事も少なくなければ、尊敬の抱く事もある。僕らとは違い何処までも普通の人間である彼が彼女に選ばれた理由も、なんとなく理解しているつもりではある。
「どうした、置いていくぞ?――置いてかれるぞ?」
「……いきなりあんなことを言われて驚かないほど、僕は愚鈍ではありません」
振り向いた彼に追いついて、言葉を返す。思ったより先ほどの言葉が重かったようだ。彼の眼がいつもと変わらないことがこんなにも重い。彼にとって僕の感情などこんなにも軽い。
何をいきなり。何を根拠に。
「……其れ、話さないと駄目か?」
「あんなことを言っておいて其れは無いでしょう。何かしら根拠が無いと、普通、正面切って言えることではありません」
古来から日本人は他と違い人と違える事を嫌う。和を乱す事を嫌う。無秩序の中に暗黙の了解が生まれるように、守られ続けるように。けれど、彼はそんなことを微塵も気にせず発言した。結果僕は苦しみを覚えた。むしろ彼の方が僕の事嫌っているのではないだろうか。
食い下がる僕に彼は「言うんじゃなかった」と小さく呟いて、僕を一睨み。やっぱり、貴方の方がそう思っているのではないですか?
「別に、大した理由なんか無い」
「では、是非」
「なんとなく――だ」
「それはそれは、曖昧な確信をお持ちですね」
「まあな。……お前がやたら顔を近づけてくるのも、無駄にアイコンタクトが多いのも、嫌っているからこその取り繕いじゃないかと思ってる」
「……なるほど。そういう取り方もあるんですね」
笑うと彼は顔をいつもより顰めさせた。ふい、と顔を背けて、彼女達の後をいつものように着いていく。僕も其れに倣い、いつもと同じように彼の隣を行く。
思い切った発言と、感情の確認をしたというのに、僕たちは変わらない。それは若しかしたら、神がそう願っているからかもしれなかった。僕たちが、一緒にいること。変わらず毎日を過ごす事を、彼女が願っているからかもしれない。
いろいろなことの理由を彼女につけたがる僕は変わらずそうしていて、だからこそ僕は自分に嫌悪を感じずには居られない。
「……俺は、多分、」
ぽつりと零した彼は、零した言葉と其の先を確認するように其処で言葉を切った。ぼんやりと前を行く彼女らの背中を見ていた僕は、自然意識を彼に向ける。視線の先の人物は、諦めたように溜息を吐いた。
「お前の事が、好きなんだと思う」
「――」
「付き合いの積み重ねからとかからくるそういうんじゃなくて。だ」
「――」
「だから、なんとなく、解ったんだと思う」
このときの僕の状態を如何表現しようか。当てはめるならば凡庸な其れでしかない。呆然とか、唖然とか、愕然とか、そんな言葉の羅列だ。茫然自失。これが一番いいかもしれない。
ああ、そうか、きっと。
其れが唯一つの理由なんだろう。
この人は、僕が自分達を騙していること、僕自身を偽っていること、本当のことなんてほんの少ししか言って無いこと、立場を利用していること。全てが全て、酷い人間だとわかっているはずなのに。
僕のことを、好きでいてくれている。
だから。
「……、そのようですね」
「何が?」
「貴方が言ったことですよ―――僕は、貴方が嫌いらしい」
「……」
「おかげで自覚できました。有難うございます」
「別に、礼を言われる事じゃないだろ。そんなの」
「そうでしょうか?なら、有難うございます」
「何が『なら』なんだ。日本語はちゃんと使え。ただでさえ円滑な会話が難しいお前なんだから」
彼は眉を潜めた。夕陽に照らされた横顔は多少なりとも苦しそうだった。其れにどんな意味がどれほど込められているか、僕の知り得るところでは無いけれど、僕に対する呆れとか、そんなものだけではないだろう。きっと。
「僕如きを好きになってくれて、です」
「……嫌ってる相手に好かれて嬉しいか?」
「好意を持たれるのは嬉しい事だと思います―――誰からであれ」
かと言って、好意を返せるとは限らないけれど。
僕は僕が嫌いだ。
だから。そんな僕を好きだと言う貴方を、理解できない。
「ちょっと男子、遅いわよ」
「ええ。すみません」
「……おう」
止まっていた足を速めるよう促される。涼宮さんは何も知らず、また何も知る事はなく、僕たちを相変わらず傍に置きたがる。
それはきっと彼にとっても僕にとっても苦痛で、けれど、楽しい日々なのだろう。
「ん……、キョン?」
「何だよ」
「なんかあった?」
「……何もねーよ」
「そう?顔色悪そうだけど」
けして観察眼が鈍くは無い彼女はすぐに気づいた。先ほどまではなかった彼の変化。気にかけるには十分すぎて、彼も其れを理解しているらしかった。
発端といえば彼なのだが、原因をいえば僕だ。
「夕陽の所為だろ」
「そうかしら……、ねえ、古泉君」
「いえ、彼の仰る通りかと」
僕が肯定すると彼女は納得したらしく、「そうね」と身を翻し、元の並びに戻った。
僕らも何事も無かったように彼女達の後ろに続き、先ほどとは変わった空気の中、彼は「一応」、と前置きして、彼女の追求からの助け舟を出した事に感謝を示した。
「ささやかなお礼ですよ」
「お前に自覚させた事へのか?」
「ええ」
「……、自覚させようがさせまいが、本人から笑顔で言われようが、変われない自分を憎むよ、俺は」
彼は溜息を吐いてそう言った。顰められた顔はいつもと変わらず、僕が思うに其れは好きな相手に嫌いと言われた人間の反応ではない。もっと傷ついた顔ぐらいするものだ。言えば彼は「随分前から気づいていたから」と、苦痛に慣れたと面倒くさそうに言った。
そうであるのに、嫌われている自覚があるのに、変われないから笑えない。とも。
「難儀なものですね」
「そうだな。なんでこうなったんだか」
何度目かの溜息を、深々と吐いた。僕は其れに苦笑する。同情を禁じえない。
如何して僕なんか。
僕が彼らを騙していること、僕自身を偽っていること、本当のことなんてほんの少ししか言って無いこと、立場を利用していること。全てが全て、酷い人間だと自覚している。全ては『機関』の為、『神』の為、世界の為。僕はその為に喜んで全てを捨てた。何の疑いもなく投げ捨てて、深い深い何処かへ落ちて其れは朽ちた。
此処に居場所を持つようになって、それを悔やむことが多くなった。こんなにも素晴らしいものだったのに、僕は投げ捨ててしまった。けれど其れはもう深い深い何処かに落ちて朽ちた。ボロボロに果てた僕自身の何かを、僕は今更惜しがった。何も無い僕に僕は失望した。
吐き気すら覚える絶望と、慟哭すらしなくなった諦念を持って―――僕は此処に居場所を持つようになって、涼宮ハルヒ達と行動を伴にするようになって、彼の隣で、微笑む癖を身につけて。
僕は、そんな僕を、害悪のように嫌った。
だから、
「僕は、貴方が嫌いです」
笑っていえるほど、そう、思った。
知っているよ、と彼は何ともなしに言った。
( coming out )
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