(……仕事、手につかないや)
 綱吉は溜め息を吐いて、目の前の書類を苦々しく見つめた。終わらせなければ部下に迷惑がかかるのは目に見えていて、さらに終わらせないことには自分の願望も叶いはしないと、わかっているのにも関わらず、捗らない。リボーンを仕事に出していて良かったと思う。此処にいたら「しゃんとしろ」とか「うざい」とか散々言われて銃口を向けられていただろうから。
 もう数えるのも止めた溜め息をまた吐いて、書類を一瞥して、綱吉はペンを書類共々投げ出した。
「…………」
 思い浮かぶのは、獄寺隼人のことばかりだった。

 昔から―――それこそ、出会ったばかりの頃から、隼人の自分への忠心と「ボンゴレ10代目の右腕」への執心は、最早異常の域だった。当時はマフィアなんかになるものかと思っていたから、彼の其の行き過ぎた行動力と自分への呼称は迷惑そのものでしかなかったけれど、何度止めさせようとしても隼人は聞く耳を持たなかった。紆余曲折あってなりたくなかった筈のボンゴレ10代目に本当になってしまい、隼人が本当に右腕になった今でも、その座への固執は変わらない。自分への懐きっぷりも。「そのうち耳とか生えるんじゃないの」と冷めた眼で呟いていた雲の守護者を思い出して、綱吉は苦笑した。確かに、不思議じゃない。耳や尻尾。時折本当についているんじゃないかと疑ったことぐらい、綱吉には少なからずある。
 その座への責任か、もしくは自分への敬愛か、隼人はよく綱吉をかばって怪我をした。特に手は生傷の耐えない、荒れた手だった。獲物がダイナマイトなのもあるけれど、それだって、戦う為、綱吉を守る為のもの。ならばその手は、自分の所為で傷ついている。其れに悩むことも綱吉は多かった。一番辛かったのは、指輪の為の、あの時。
「……あの時も、ハラハラしてたな」
 今でもよく覚えている。指輪の為に、勝つ為に傷つき命を張った、彼の行動。其れを見ているだけの苦しみ。意地で残ろうとする隼人に叱咤した自分。帰って来てくれた安堵。
 今も、同じ。待つだけの苦しみ。歯がゆい時間。本当は、飛び出して行きたいのに。

 この道に血を見ることなんて当たり前だ。綱吉も其処まで日和見ではない。覚悟はしていたし、そして何度も乗り越えた事実だ。自分が怪我をしたこともあるし、自分のミスで部下に手傷を負わせてしまったこともある。
(今更何を。いくらあの獄寺君だからって―――)
 事の次第を知ったのは昨夜―――今日の二時を回ったところだった。別件で出ていた綱吉が、漸く自室で休もうとネクタイを外した時。駆け込んで来た部下が伝えたのは、獄寺隼人と部下数名の負傷と帰還だった。皆命に別状はないものの、余程のことだったのか、此処暫くの忙しさの所為か、隼人は泥のように眠った。それから目を醒ましていない。綱吉が仕事の合間に見た時も眠ったままだったし、仕事帰りの山本武が覗きに行った時もそのままらしかった。
「ツナまで青い顔するなよ」
 苦笑した山本が、自分の頭を撫でながら言っていた。もう其れは止めてくれ、といつもなら不満を漏らすのに、今日は何故か安堵を覚えた。いつもと変わらない、大丈夫、獄寺君もちゃんと起きてくる。
(起きたら怒って困らせよう。……全然怒ってないけれど)
 獄寺隼人負傷の報告を聞いた時、綱吉はまた無茶をしたのだと思った。昔から自己犠牲が激しい獄寺君だもんな。いつも綱吉の為、ボンゴレの為。昔より随分改善されたとは言え、未だ無茶をするところがある。その度に綱吉は他の仲間と一緒になって叱りつけたものだ。
 けれど、今回は違った。
 報告に因れば、隼人は、部下を守る為に負傷したらしい。
 隼人の行動のおかげで、彼の部下は命を救われたらしい。今朝報告に来たのは其の救われた本人だった。苦い顔で、自分の所為だと唇を噛んでいた。綱吉は彼の無事を喜び、隼人のしぶとさを諭して養生するよう微笑みかけた。自分に言い聞かせる意味も込めて、微笑んだ。大丈夫、獄寺君なら大丈夫だから。

 それにしても何故自分は此処まで気にしているのか。怪我なんて年中行事。安売りを買い占めているようにあることだと言うのに。
「早く起きてもらわないと。仕事がたまる一方なんだ、獄寺君」
 吐いた息に想いを込めて、綱吉は投げ出していたペンを取ると、同時に携帯電話が鳴った。仕事の電話だろうし、と半ばどころかほぼ面倒くさいという心情だったので、誰からの着信か伝える画面も見ずに其れに出る。
「もしもし?」
「ツナ、」
 呼び名と声で、電話の向こうが武であると解った。そしてその声は、綱吉の返事を待たずに、
「獄寺が目ェ覚ましたぜ」
「! ―――本当に!?」
「ああ。一応検査も終わって、医療班からも許可が出た。寝すぎて頭痛いって顔してる――― 痛っ、本当のことじゃねーか、獄寺」
 くつくつと笑う武の声と、その後ろにある気配に、綱吉の鼓動は早くなった。起きてる、だいじょうぶ、生きてる。今すぐ、其れを、確かめたい。君の姿を見て、君の声を聞いて、今すぐ、獄寺君。
「山本、」
「ん?」
「今からそっちに行く。獄寺君にも、伝えて―――怒ってるって」
 仕事が溜まったのは君の所為だからって。
 電話の向こうで笑い声がして、「じゃあ」と一言、綱吉は電話を切った。未だ手に持っていたペンを投げ出し、溜まっている書類を一瞥して、部屋を飛び出す。
 取るものも取らず、大人気なく走り出した。

「おう。やっぱ走ってきたか、ツナ」
「やまもと」
 隼人の私室の前に居たのは、先ほど電話した相手、武だった。昔よりさらに背の伸びた彼を見上げながら、綱吉は執務室からの全力疾走で乱れた息を整える。最近はデスクワークばかりだったから、堪えるほどでは無いけれど矢張り体力が落ちているのが解る。同じことを考えていたのか、武は綱吉の様子に低く喉を鳴らせた。
「こりゃ、帰ってきたら扱かれるな」
「言わないでよ……。この歳にもなってまだいい玩具なんだから、俺」
 主語が無いが誰の事か簡単に分かる。綱吉を鍛える人間はたった一人、出会った当初は赤ん坊であった彼しかいない。リボーンの修行は、昔ほど奇天烈ではなくなったものの、酷いことには変わりなかった。昔より体力其の他に自信がついたとはいえ、極力遠慮したいところだ。
「獄寺君は?」
「お前を待ってるよ。怒らせた、って魂抜けてた」
「抜けてたら意味無いんだけど……」
 はは、と綱吉は笑ってドアに手を掛ける。少しだけ緊張した。何が起因なのかよく解らなくて、軽く首を傾げると、その様子を訝しんだのか、武が声を掛けた。
「言いたいことあるなら、言ったほうが良いぜ。言わなきゃわかんないからな」
「…………」
 何を言っているのか綱吉にはいちいちピンと来なくて、疑問であったけれど、何故か武のその言葉は的を射ているような気がした。『言いたいことは、言わないと、わからない』。
(獄寺君は、何度言ってもわかってくれないんだけどね……)
 心の片隅で、揚足を取るように意地悪く思ったが、口にはしなかった。
「解った。そうする。有難う山本」
 笑みを返して、綱吉はドアノブを回した。


「10代目」
 入った途端の声は、久しぶりでもないのに綱吉を驚かせた。待ち焦がれた声だ。聞きたかった声、見たかった姿―――包帯姿でなければ、もっと良かったけれど。
「おはよう。長い寝坊だったね、獄寺君」
「……申し訳有りません」
「いいんだよ。君は無茶し過ぎるから。たまにはそれぐらい休んだ方が俺も安心出来る」
 隼人のベッドの脇に椅子を寄せて、綱吉は微笑みながら腰掛ける。ベッドに座る隼人は、先程まで昏々と眠っていたとは思えないほど姿勢も良く、元気もいい。本当に申し訳なさそうに凹んでいる点と治療の痕を除けば、いつもの獄寺隼人だった。其れが嬉しい。
「勿体無いお言葉です。有難うございます」
 しょげていた顔を上げて、隼人は言った。痛々しい右肩とは違い、怪我の気配も、昏睡の欠片すら見せない其の表情は冴え冴えと鋭利で、確りと綱吉を見詰めていた。こういうところは、昔と違う。昔は仔犬のように、見えもしない尻尾と耳をパタパタさせて、噛み締めていたけれど。それほど状況が違うのもある。昔のように勢いだけでどうにかなることでは無いのだ。―――其れが俺の選んだ世界だから。
 その緑の瞳のキラキラした輝きだけは、昔と一緒だった。真剣に綱吉を見詰める双眸。昔から実は綺麗だと思っていた好きな色。だからかもしれない。綱吉は何も考えず、ひたすら自分を見詰めてくる隼人に手を伸ばして、髪と額の間をサラリと通ってこめかみ辺りに手を添えた。
「良かった、獄寺君。本当に、よかった―――」
 言葉にすると、急に、先ほどまでの強烈な不安を思い出した。怪我なんて当たり前。そんな世界だから。一度や二度ではない。なのに、獄寺隼人がたった半日起きて来なかっただけで訪れた不安。進まない仕事。進み続ける時計。上がらない瞼。見えない深い緑の眼。どれだけ待っても針が進むばかりで、隼人は起きて来ない。
(不安で不安でたまらなくて、包帯に巻かれて横たわる君を見ると怖くて怖くて、泣けてそうで―――)
「じゅう、だいめ?」
 手を伸ばしてまま思考に耽っていた綱吉は、疑問符の付いた隼人の声ではっとした。余程情けない顔をしていたのか、隼人の顔は心配そうに歪んでいた。其の顔に申し訳なさを感じた次の瞬間に、綱吉は自分が誰の何処に手を置いているか思い出した。
「わ、ごめん!なんか、心配っていうか、えっと、眼ェ綺麗だなってああああれ?」
「あっ、いや、俺は良いんですが……」
「そ、か。あの、ごめんね」
 音がするほど素早く手を離して、綱吉は乗り出していた身を椅子に戻す。いつのまにこんなに近づいていたのかわからない。隼人の方も対処に困っているようで、緑の双眸を何度も瞬きさせていた。
 こんな風に触るのは初めてだった。いくら出会ってこの方殆ど一緒で、マフィアになってからは本当に一緒に居ると言っても、まさかこんな触り方をするとは。
(―――でも)
 と、心のどこかで声がした。真っ直ぐでひたすら真っ直ぐで、綱吉に伝える其の声は、どうしてだか、自分の声のようだった。泣き出しそうな、張り詰めた声。
(もし、また、怪我をしたら? こんなもので済まなかったら?)
 膝の上できつく手を握った。そんなの、でも、だって。―――そんな、こと。
「あの、獄寺君」
「はい」
「嫌だったら、嫌って言って。―――さわってもいい?」
 綱吉の突然の言葉に隼人は露骨に驚いた。ここ数年は大人びたというか落ち着いたというか、澄ましたような彼がそんな顔をするのは珍しい。けれど綱吉に其れを面白がる余裕はなく、ただただ、希う目線を隼人に向けるだけだった。そんなに願われては、あまりのことに驚いたとはいえ、隼人に断れるわけもなく、
「……10代目がそうなさいたいのなら」
「いつもそればっかなんだから……。まあ今回は、俺、遠慮しないけど」
 いつもの澄ました微笑で答えた。綱吉は呆れつつも其の言葉に甘えて、再び椅子から腰を上げ、隼人に手を伸ばす。今度は、両手。隼人の髪を掠めて彼の頭に腕を回す。隼人の頭が、ちょうど綱吉の肩に収まった。抱き締める、という行為に出たのだ。力は込めずに、ゆるりと、慈しむように。
(消毒液と薬と、……あとやっぱり、煙草とコロンの匂い)
 香ってくる其れに浸り、綱吉は眼を閉じた。暖かい。ちゃんと温度のある、体。生きている獄寺君。焦っているのか少し鼓動が早かった。元気な鼓動、生きている鼓動。瞬きをしたのか肩に睫毛が微かに当たった。動いている体。いきている、ごくでらはやと。
(ああ、そっか)
 彼が生きていることがいとおしい。彼の鼓動が、温もりが、熱が、たまらなく、いとおしい。
 思ってみれば簡単な事だった。何故気づかなかったかおかしい、と綱吉は笑った。簡単じゃないか、やっぱりダメツナだ。こんなことも気づかないなんて。何年一緒に居たんだか。
 俺は、ただ、獄寺君が。

 ―――獄寺隼人が愛しいだけ。

 ふつふつと胸に込み上げて来る感情。嬉しい。この人を愛しいと思うこと。この人が生きていること。
(ああなるほどそういうことか。山本。もしかして、気づいていないの俺だけだった、とか?)
 『言いたいことは、言わないと、わからない』。
(―――でも、とっておこう。伝えるのは怖い。今は、まだ、できれば、このまま。……ごめん)
 綱吉は、隼人を抱き締めたままひっそりと喜びを噛み締めた。

 綱吉が其れに浸っている其の中で、打って変わって隼人は顔に出さずとも狼狽気味だった。いきなり、また、なんで、10代目……。優しい10代目の腕に任せているのは心地好かったし、其処まで心配していてくれた事への感謝と、申し訳なさが同居したけれど、矢張り一番は疑問だった。こんな風に触れられた事は無い。むしろ触れられる事の方が珍しい。
「獄寺君」
「は、い」
 名前を呼ぶと同時に腕が離れた。少し、寂しい。少しじゃない、とても物足りない気分になった。もっと触れて欲しい、触れたい。何故だろう。こんなことをした10代目も、そういう風に思う自分も。隼人が混乱したまま返事すると、綱吉は優しく微笑んで、それだけなのに如何してかどきりとした。どうした自分、何がどうした、本当に。
「あんまり、無理しないでね。―――つらいから」
 それだけ言って、あとは、「お大事に」と10代目は去った。残された隼人は、ぼんやりと、其の背中を見詰めて、ドアが閉じる瞬間まで見詰めた。
「……10代目」
 変わらず優しい笑顔と、初めて包まれた優しい腕を想いながら。

( 今はまだ秘密。触れるのはこわい )


back