適度に見舞って、武は隼人の私室を出た。壁に背を預けて突っ立って一分もしないうちに、全力疾走の忙しない足音。すぐに現れたのは矢張り綱吉で、久々の全力疾走に息を切らしていた。そんなに急がなくても、と思う反面、仕方ないか、とも思う。
 武が呆れるほど、綱吉と隼人は自分の気持ちに鈍感だった。一緒に居るようになってもう九年以上が経つ。最初の頃ならまだ武も納得できる。自分達はなんだかんだで騒がしく忙しく慌しく、『皆で一緒』に居るのが好きで、楽しんでいた。そんななか二人がもしや、と武が気になったのは本格的にこの世界を生きることを決めた頃だった。いや、其の前からかもしれない。うすうす勘付いてはいたが、確信をもてたのは此処数年のことだ。自分でも分かったのだから、綱吉の家庭教師は其れこそ最初から気づいていたのかもしれない。
(さっさとくっつきゃあ、こっちもじれったくなくていいんだけどな……)
 先ほど笑みを返して隼人を見舞いに行った綱吉を思う。一応、助言めいたことは言ってみたものの、きちんと伝わっているか怪しい。―――ツナだし、獄寺だし。
 けれど其の不安は、綱吉が戻ってきた時に変わった。
「あれ、山本。待ってたの?」
 そう武に訊いてくる綱吉は何処か嬉しそうで、幸せそうで。武は其処にある笑顔をつい見入ってしまった。綺麗な笑顔、やさしくて、しあわせそうで、綱吉に似合う笑顔だった。
「ん。まあな」
「ありがと。―――ねえ、山本はやっぱ、気づいてた?」
 先ほどと大して変わらない調子の疑問に、けれど武は詰まってしまった。何を言っているのか、一瞬理解できなかったのだ。だから其の一瞬後に理解できて、其の時、綱吉の笑顔の理由が解った。
「まあ……結構前から」
「やっぱり解ってないの俺だけだったんだ。何かなあ、変な感じ。自分の事なのに」
 綱吉は苦笑して見せるが、其れは矢張り何処か幸せそうに武の眼に写った。
「獄寺君には、まだ秘密だよ。そのうちそのうち」
 機嫌よく言う綱吉は、仕事の山に向かうのに如何してか楽しそうだった。理由なんて解っている。きっと暫くは、あの幸せそうな笑顔で笑うんだろう。
(……あいつは、)
 自分の想う人は、綱吉のように幸せなんだろうか。


(でもなんかなあ……。こうなるとなるで寂しいような気がするよなあ……)
 廊下を歩きながら、武は唸っていた。早く気づけばいい、と思っていたくせに、いざこうなると寂しいとは。ずっと一緒に居たからとはいえ、我侭な悩みである。
 先ほどの綱吉の様子から察するに、どうやら彼は隼人の気持ちまでは気づいていないようだった。ついさっきまで自分の気持ちすら気づいていない彼だし、相手はあの獄寺隼人。自身の気持ちにさっぱり気づいていない男だ。仕方ないというところか。じれったさはまだ続きそうだった。
(でも、本当に、一緒になったら?…………あー、やっぱなんか寂しい!)
 そう、唸りながら歩いていると、
「何してるの」
 冷ややかな声がかかった。同じところでぐるぐるしていた武が其の冷たさに驚いたように顔をあげると、其処に居たのは自分に声を掛けるには(哀しいことに)珍しい相手だった。
「雲雀」
「邪魔だよ。ただでさえ図体大きいんだから、歩き回らないでくれる?」
 逢うのは確か一週間ぶりだが、雲雀恭弥の口の悪さは変わらなかった。しかし其れで怒るような凹むような武ではなく、
(出会ってからこれっぽっちも変わってないのに、一週間で変わるわけ無いか)
 冷たい言い分である筈なのに、変わらないという事実を喜んだ。武は自覚あって苦笑いした。矢張り、恭弥に相当夢中らしい。なんとかは盲目というのは本当だ。
「はは、ひでえ言いよう。お帰り」
 恭弥は返事をせず、歩み寄る武をただ其の凛とした目で睨みつけた。其れをいちいち気にしていたら恭弥と付き合いがもてるわけも無く、、武も然り、気にしていなかった。
「どっか行くのか?」
「報告書、提出しないと煩いからね」
「ツナは、今ならどんな雑な報告書でも喜んで受け取ってくれるぜ」
「ふうん。なら、今のうちかな」
 そう呟くと、それ以上というか元から用無し、と恭弥は武の隣を通り抜けた。其れを目で追って、武は当たり前のようにすぐ其れについて行く。恭弥は武を一瞥したが、面倒くさいのか慣れたのか、それとも別に隣に居てもいいのか、何を言及する事も無く、そのままのスピードで足を進めた。許されているようで、武は口元が勝手に緩むのを止めなかった。
 武が恭弥を想うようになって随分経つ。おそらく、綱吉や隼人が無意識に想い合っているのと負けず劣らずな、昔から。そっけない恭弥に、其れでも想いは消えることもなく、ただただ燃え続けるばかりだった。微かに恭弥が返す気持ちが嬉しい。言葉にも行動にも態度にも出ないけれど、想われている自信があった。確信に変わったのは最近のことだ。触れてもトンファーを出される事なく、さらにちゃんと、最後まで事が進むようになったのは。それはとても幸せなことだと、武は実感している。―――恭弥がどうかは解らないが、怒られない分、マイナスな感情を持たれてはいない筈だ。
 ふと先ほどの綱吉の様子を思い出して、訊いてみることにした。隼人が負傷し、目を覚まさなかった間の綱吉は、何にも集中できず書類の山を高くしていくばかりだったけれど。
「なあ雲雀」
「なに」
「お前さ、俺が居なくなったらどうする?」
「……あの忠犬のこと?」
 質問に質問で返されたが、武は其れを突くような真似はしない。下手にやれば恭弥が怒る。それは勘弁願いたい。いろいろ収めるのが大変だし、何より、怒って欲しくなかった。流れに任せて、其の流れを自然に操作しないと、恭弥の相手は出来ない。
「知ってたのか? 獄寺が半日起きて来なくて、うちのボスは仕事を溜める一方だったこと」
「さっきね。どうでもいいけど」
「獄寺はさっき起きて、ツナは其れを聞いて部屋に飛び込んで、それで漸くツナには自覚が出たみたいだぜ」
「じゃあ、もう一方は全然なんだね。相変わらず」
「そうっぽい。……なんだ、気づいてたのか」
 猿でも解るよ、と恭弥は言った。矢張り本人達以外は周知だったらしい。とは言っても、比較的二人に距離が近い一部の人間だけだろうが。それなりに露骨で、それなりに自然だったのだ。隼人と綱吉は。多くの人間があの二人の関係を、じれったさと伴に楽しんでいたんだろう。
「―――じゃなくて、質問。お前、俺が居な」
「くだらないな」
(…………一言……)
 流石の武も、これにはダメージを受けた。武とて雲雀恭弥相手にまともな返事を期待したわけではない。返答が欲しかったのは事実だが、恭弥がそんなことを簡単に言ってくれるとは思っていなかった。けれど、もう少し何かあるだろうと思ったのも事実だった。まさかぴしゃりと一蹴されるとは。しかも科白の途中で。
「君は如何なの」
「ん?」
 武が隣を歩きながら憂鬱になっていると、恭弥が足を止めた。気づくのが遅かった武は、其の分だけ距離が開く。けれど武は其れを縮めることはなかった。雲雀が、あの雲雀恭弥が、そんなことを真面目に訊いてくるなんて。
「君は如何なの」
「俺?」
「そう」
「お前が、居なくなったら?」
「そう」
「お前が居なくなったら―――」
 どうするんだろう。此処から居なくなるという意味ならば。此処を選んだのは自分の意思で、武は此処から離れるつもりはない。恭弥が此処を出るという可能性自体あまりに低い。戦闘好きの恭弥が。だがもし出て行くとしたら。
 もしくは、其れが例えば、二度と触れられないとか逢えないとか、そういう意味であるのなら。
「俺は、多分」
「―――」
「耐えられないな。どうなるか、想像できなかった」
 雲雀恭弥の居ない世界。武には想像し難かった。此処を出るとは思えない恭弥。そして、誰に負けることも想像できない恭弥。そして自分を少なからず想ってくれているだろう、恭弥。彼の知る雲雀恭弥は、そうであったから。
 そしてもし、彼が居なくなった世界で自分は。
「きっと、泣いたり喚いたり、ふさぎ込んだり鬱になったり、忙しいんじゃないか―――あるいは、お前を探したり。すげえ駄目になると思うぜ」
「―――」
 答えを真面目に聞いてくれる恭弥が珍しくて、武は思った事をすらすら言えた。それは情けないばかりであったけれど、自分の正直な気持ちだった。雲雀の居ない世界、其処で生きていく自分。ずっと不安がっていた綱吉の気持ちが今理解できた。これは、仕事なんて、手につくものか。
 恭弥は、答えに満足した様子も不満な様子も見せなかった。ふうん、とそれだけ返して、また歩みを進める。ちょうど武の隣を通った時、ポツリと一言呟いて、武は其の言葉に動けなくなった。
「……なんだよ其れ」
「そのままの意味だけど?」
 腕を掴んで引き止めると、恭弥は予測していたのか大して驚く気配もなく、ただその形の良い唇を笑みに変えただけだった。挑発するような、嘲笑の一歩手前の笑み。いつもなら流せるその笑い方に、武は何故か苛立ちを覚えた。なんだそれは、如何いう意味だ。
 ―――うそつきだね。
 恭弥の声はやけに響いて、通って、耳に残る。嘲笑うような声が、いやに、耳に。
「ちゃんと答えろよ、雲雀」
 明確な回答を避けた恭弥を壁に押し付ける。恭弥は抵抗する様子もなく、いつものように武を見上げて、其の切れ長の眼で見据えた。臆することの無い恭弥の眼には、酷く歪んだ顔の武が映っていた。
 面倒くさそうに溜息を吐く恭弥。それに苛立つ事はあれ、武は其の苛立ちを行動に移すことはしなかった。そんなことよりも、続きが聞きたかった。何を、嘘だと言うのか。無言で言及していると、其の情けない顔に嫌気が差したのか、恭弥はまた溜息を吐いて、武から目を逸らして口を開く。
「僕が居なくても、君はちゃんと生きていけるよ。いつものように、馬鹿みたいにへらへら笑ってね」
「…………お前は、俺が―――」
 お前が居なくなっても、悲しまないと思ってるのか。
 続きはとても言えなかった。其れで頷かれたら、と考えるだけで、ずしりと鉛のように何かが重くなった。そんなに軽く見られているのかと、伝わってなかったのかと。口を噤んだ。言ってしまえば、返って来るのは肯定しかないように思えた。
「君は馬鹿だから」
「―――」
「哀しかろうが何だろうが、僕の知ったことじゃないけど、君はすぐに前だけ見てるよ。ちゃんと生きていける。泣いたり喚いたりしながら、ちゃんと」
 そう君は馬鹿だから。

「―――僕と違ってね」

 くすりと恭弥は笑った。これで満足でしょ、といわんばかりの態度だった。けれど武は其れに反応せず、目を見開いたまま恭弥を見詰め、恭弥の腕を押さえつけたままほんの少しも動かなかった。恭弥にとって、非常に邪魔な状態でしかなかった。
「…………」
「用が無いなら退いてくれない?」
「…………」
「邪魔なんだけど」
「…………雲雀」
 漸く武が口を開くと、なに?と返事はとても苛立たしげに返って来た。武が呆然と見詰める恭弥には照れる様子は微塵も無かった。当たり前のことを言っただけだという堂々とした態度には、少しぐらい恥じらいが欲しいところだ。……恥らう雲雀とか想像できねえけど。
(本当は、さっきのこととか、雲雀の事どれだけ想ってると思ってんだとか、いろいろ訊きたかったけど)
 すごく、如何でもいいことのような気がした。恭弥の言葉ひとつだけで、武は躁鬱が簡単に変わってしまう。子どものようだ。今でも、自分は子どもだ。仕方ないじゃないか。だってこんなに愛しいのだから。
 殊勝に武の言葉を待っている恭弥は、加速度的に不機嫌になっていった。いつトンファーが出てもおかしくない。けれど武は爪の先ほども焦らず、慌てず、そして恭弥の苛立った表情を無視して、
「!」
 身を屈めた。掠めるだけのキスをする。それだけで十分だった。
(もっとさわりたい、けど)
 きっと彼は怒るから。止めておこう。距離と取って見ると、恭弥は不機嫌度合いが増したようで、形の良い唇がアヒルのようになっていた。可愛い、けど、言ったら怒るから。そう思っていると、何笑っているの、とすごまれた。自分がにやけていたのに、武は全く気づいていなかった。


「好きだぜ。雲雀」
「……そう」
 いい加減相手にするのが面倒になった恭弥は、返事はそれだけにして、へらへらしと笑う武を押しのけて自力で脱出した。この男がこう笑っている間は、まともに相手が出来ないと恭弥は知っている。きっと退けと言ってもきかなかっただろう。実際邪魔だと恭弥は言ったのに、武は力を緩める事すらしなかった。
(馬鹿なことを訊いた)
 解り切っていることを聞くのは、愚問だ。予測済みの正答と彼の誤答を、何故聞こうと思ったのか。彼の言葉で、其れが事実でなかろうと、聞きたかったのか。―――馬鹿げてる。
 山本武はきっと、雲雀恭弥がいなくても生きていける。先程彼に言ったように、泣いたり喚いたりしながら、それでも前を見て生きていける。駄目になることは無い。山本武は、山本武のままで、ちゃんと生きていける。それだけの力が彼にはある。自分とは違うのだ。自分はきっと、駄目だから。
 背を向けて歩き出すと、ついてくる足音が在った。しかも其の足音は、何故か先ほどよりも機嫌のよさそうに恭弥には聞こえた。武と反比例して、恭弥は不機嫌になっていく。いい加減苛立ちが積もり、恭弥はくるりと振り向いて、武を睨んだ。
「部屋に戻ったら?」
「俺、今日なんも仕事ねーんだ。有り難い事に」
「……」
「だから、勝手にお前に付き合うことにした」
 一週間ぶりだし、と満面の笑みで言われて、武が中学の頃と全く変わっていないという事実に恭弥は溜息を吐いた。昔もこうして、用もなく応接室に来たり、ついてきたりしていた。相変わらず煩わしい。呆れて物も言えなくなった恭弥は、また溜息を吐いた。
「戻りなよ」
「だから、やだって」
「……これ、」
 恭弥は武に書類を示して、
「出したら、君の部屋に寄るよ。だから、大人しくしといて」
 と言ってまた武を固まらせて、其れを一瞥して歩き出した。規則的な足音が遠退いていくのを呆然と耳にしながら突っ立っていた武は、
「待ってる」
 と聞こえるように言って、先ほどよりも機嫌よく、恭弥とは逆の方向に歩き出した。
 武が歩き出した事を耳で確認した恭弥は、あんな提案をした自分が不思議でたまらなくなった。いくら彼がしつこかったからとはいえ、あの切り離し方では意味が無い。他に仕事が入っていればきっぱりと切り離すことが出来るが、生憎と一週間の出張の為、今日明日は休日と為っている。その理由での断りは不可能だった。面倒くさい煩わしいと、幸せそうな武の笑顔を思い返すと吐きたくも無い溜息を吐きたくなるのだが、
(まあ、でも)
 たまには悪くないか、とも恭弥は思った。―――本当に、馬鹿げてる。

( 言葉なくとも、其処には )


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