「やっぱり中は温かい……」
「何か温かいもの―――といっても、相変わらずココアと珈琲しかないスけど……」
「じゃあ俺も相変わらずココアで。あ、電話借りるね、獄寺君」
 珈琲が飲めない綱吉は苦笑して、コートを脱いでいつものようにソファの背にかけた。「慣れ」とか「いつも」とか、当たり前の仕草が妙に嬉しいのは、彼が沢田綱吉であるからだ、と隼人は理解していた。彼の動作、彼の場所―――彼の当たり前がこの家に増えるのが愛しい。綱吉が座る場所、綱吉が好きなもの、彼のものがもっともっと増えればいいと隼人は思う。増えれば増えるほど、10代目の中に自分の場所が増えるような気がしていた。
 思えば今淹れているホットココアも、綱吉の為に用意したものだった。獄寺君家に行ってみたいと言い出した彼に、最初は恐縮し遠慮した隼人も、矢張り相手は10代目、叶うわけもなく、ならばせめて大した物を置いていない家に彼をもてなせるような物でも、と言い出した其の日の帰り道に一緒に買ったものだ。家事に頓着しない隼人は、今まで食事は勿論、食器や消耗品も必要最低限しか持っていなかったが、綱吉が来て以来徐々に増えていった。一緒に買いに出かけたり、綱吉がこっそり置いていったり、隼人が準備したり―――全て、綱吉の為だった。綱吉と過ごすためのもの。彼が此処に来てくれるようになってから、この家は生活感が出てきたと思う。ひたすら退屈なだけだった自分の家が、綱吉のおかげで色づいてきている。今手にしているマグカップも、寒い寒いと言いながら二人で買ったものだ。帰ったらこれで温かいもの飲もう、と綱吉が寒さで頬を赤くして手を繋いで来た事を、隼人はよく覚えている。其の温度も。だから、隼人はいつもこれが食器棚にあるだけで、これを見るだけで幸せになれる。
 矢張りこんな時間に出歩いて相当怒られたのか、渋い顔で電話を終えた綱吉は、ソファに座って何やら嬉しそうにきょろきょろと部屋を見回していた。前に来てから大して変化は経っていないと思うが、けれど時間は結構経っていたので、何か気になるのかもしれない。
「どうぞ」
「ありがとう、っ」
「うわっ!すっげえ手ェ冷たいじゃないですか!」
「えっと……あはは」
 渡すと同時に触れた手は隼人が驚くほど冷たかった。綱吉は誤魔化すように苦笑する。こんな年末―――もう新年だが―――の夜を来たのだから当たり前だ。せめて電話の一本もくれれば、こちらから迎えに行ったのに。素直に一緒に居たいと自分から言えれば、こんなことにはならなかったのに。隼人は自分の手と随分温度の違う小さな手を両手で包んだ。
「こんなに冷たくなられて―――俺の所為で!スイマセン10代目!!」
「え、あ、そんな!俺が勝手にやっただけだし、獄寺君が謝る事無いよ!」
 綱吉は隼人の言葉に慌てながら首を振り、そんなことはいいから、と隼人に隣に座るように薦めた。隼人は未だ情けない顔で、それでも10代目の言うとおり、素直に隣に座った。綱吉は満足気に微笑み、少しだけ隼人との間にあった隙間を埋めた。触れあった腕が服の上からでも冷たくて、より一層隼人は申し訳ない気分になると同時に、其処までしてくれたことが、距離を詰めてくれたことよりもずっと嬉しかった。
 ちらりと覗き見ると、綱吉はまた楽しそうに部屋を見ている。探すというより、見渡すような仕草で、其れは隼人が訊くに十分な表情と動作。
「どうかしました?なんか、嬉しそうスけど」
「うん?そうかなあ」
「別に面白いもん無いと思いますけど……」
 隼人が同じようにきょろきょろし出すと、綱吉は急に顔を赤くした。暫く見渡してから其れに気づいた隼人は、訝しんで綱吉を覗き込む。
「10代目、顔が赤いようですが……あ、やっぱりまだ寒いですか?」
「え!あ、ううん!べべべべべつに!」
「ですが……」
「……あの、いや、なんかさ。……久しぶりだなって思って」
 大慌てで最初ははぐらかした綱吉だったが、心配そうに食い下がる隼人の顔を見ると、渋々だが口を開いた。余程のことなのか、隼人の眼に映る10代目は困り果てた小動物のようで、蜂蜜色の瞳を泳がせている。
「?」
「その、獄寺君家来るのも結構久しぶり、だし。……久しぶりに、ふたりっきり、だし……」
 あまりの恥かしさに動揺して綱吉は「久しぶり」を二回も言った。動揺っぷりは隼人も同じで、頭がパンクしそうだった。逢えた事が嬉しくてすっかり忘却の彼方だったが、これはすごい状況なのだ。俺の家で、10代目と、夜中にふたりっきり……。事実だけ並べただけで隼人は酷く焦った。別に何をしなければならないというわけでも無いのに、何をするつもりもつい先ほどまで毛の先ほども無かったのに、解ると解らないとではえらい違いだ。
(これは。いやでも、据え膳食わぬは―――いやいや10代目にそんな恐れ多い!)
 同じことがぐるぐる頭を過ぎる。テレビの音も遠くて、自分の心臓ばかりがものすごい勢いで鳴っている。其の間も綱吉は隼人の隣を離れず、音聞かれちまいそう、と隼人は不安だった。
 隼人が真っ赤な顔でぐるぐる悩んでいる間、綱吉も同じように、自分の科白を後悔して真っ赤になっていた。まともに嘘も吐けない自分が憎い。嘘じゃなくても適当に、もっと良い返し方があっただろう。こんな事を言ってしまうと、言う前よりも意識してしまってますます状況はまずくなった。視線だけを向けると隼人も相当意識してしまっているようで、眉根を潜めて難しい顔をしていた。
(ああもう本当ごめん獄寺君、俺がこんなこと言った所為で……!)
 けれど、嬉しかったのは本当だった。年末は騒がしくて忙しなくて、何かと二人きりにはなれなかった。他が邪魔だという訳ではないが、矢張り時々、二人きりがいいなと思うことがある。クリスマスがそうだった。イタリアでは恋人と過ごす習慣は無いらしいが、それでも綱吉は二人が良かった。ロマンチックなことを言うつもりは無いけれど、矢張り特別な日は一緒に過ごしたいと思う。それで今日も此処に来たのだから。―――だから。
「ご、獄寺君……」
「はい!な、何でしょうか!?」
「あの、その……俺……、獄寺君が、」

 ―――ピリリリリッ

 其の時、忌々しいほど素晴らしいタイミングで、隼人の携帯電話が鳴った。
「…………」
「…………」
「……あ。で、出ないと!獄寺君」
 喉まで来ていた言葉はすっかり落ち込んで、また具体性を喪失し言葉になら無いものになってしまった。たったこれだけの電子音は、しかし確実に綱吉の勇気を砕き、雰囲気を一変させてしまった。
「……ゲッ」
「……だれ?」
「煩いアホからです……」
 渋々電話を手に取った隼人は、其の画面を見て顔を歪ませた。このタイミングで電話をかけてくる奴など、たとえ誰であっても邪魔以外の何ものでもないのだが、この相手は相当面倒になる相手だった。何でこんなときに、しかもよりにもよってお前なんだよ!思いっきり電源を切ってやりたい衝動に駆られたが、流石に其処まで非道にはなれなかったらしく(もくは後でバレたら面倒と思ったかもしれない)、綱吉に、失礼しますと一言言って物凄く苦い顔で通話ボタンを押した。途端の大声に、隼人は一層顔を顰めた。
『遅いですよ獄寺さん!もう十回はコールしましたよ!レディを待たせてはいけません』
「こんな時間になんだよアホ」
『アホとはなんですか!ハルはアホではありません!―――じゃなくて、其方にツナさんいらっしゃいます?いらっしゃいますよね?いらっしゃいますよね?』
「な、なんでお前がそんなこと……」
『ふふ、ハルはツナさんのことならなんでもお見通しなのです!』
「ああ、そーかよ……」
『なんですかその如何にも面倒そうな返事は!』
「いい加減用件を言えアホ女!!」
 等と隼人が電話の向こうと戯れている間、失礼かとは思いつつ聞き耳を立てていた綱吉は、大体の予想がついた。最早確信であった。三浦ハルに違いない。向こうからの声は聞こえなくとも、隼人の科白を聞けばなんとなく解る。おそらく、新年の挨拶です!とかなんとかで、ハルは沢田家に電話したか訪問したかで其の結果、奈々から綱吉の外出を聞いたのだろう。先ほど自宅には連絡を入れたから、綱吉の居場所は筒抜けである。
 これじゃ、二人っきりは無理かな。綱吉は、拍子抜けたようなほっとしたような妙な気分だった。隼人に全部任せても良いと思ったのは本当で、嫌な気持ちは微塵も無かったけれど、矢張り雰囲気は問題だ。たとえこの電話を終えて、先ほどと同じ状態になったとしても、同じ雰囲気にはなれない。気持ちも―――多分、獄寺君も。こういうのはタイミングが大事だと思う。
 やがて電話に向かいぎゃあぎゃあしていた隼人が、への字口で苦々しい顔で綱吉を振り向いた。
「ハル、なんだって?」
「今から揃って初詣行かないか、って言ってますけど。……どうします?断りますか?」
 隼人が綱吉に訊いているのは、10代目の言い分に従おうとしているからではないことぐらい、綱吉は感づいていた。結局、折れるのは自分や隼人なのだ。このまま二人でいるのも悪くはないだろう。けれど、嬉しいはずの其れは不思議なことに憚れる。二人でいると嬉しいけれど、皆でいるのも楽しい。秤に掛けにくいこの二つは、結局情けなのか何なのかで、皆で居る方に傾く。―――それを嫌だとは、隼人も綱吉も思っていなかった。
 綱吉が苦笑してみせると、隼人も其の意図を理解し苦笑した。そしてコートを取り出し袖を通しながら、電話の向こうに素っ気無く二人とも参加することを伝えた。綱吉はマグカップに残っていたココアを飲み干し、先ほど脱いだばかりのコートを着る。
「結局、いつもと一緒だね」
「スイマセン……。電話、切ってりゃ良かったッスね」
 そう口にはするが、隼人は嫌ではなかった。二人で居るのは嬉しい、けれど皆で居るのも嫌ではなかった。結局、10代目が居れば其れでいいのだ、獄寺隼人は。
「えっと……、ま、また、機会あるよ、うん」
「あ。そ、スね」
 先ほどまでぐるぐる考えていたことを思い出して、二人揃って赤くなり俯いた。けれどいつまでもそうしている訳にも行かず、慌てて隼人が、早く出ましょうか、と外出を促した。


 年が明けた後の空は当然だがまだ暗い。鋭利な冷たさも変わらないのに、先程走ってきたときとは随分違うように綱吉には思えた。相変わらずの寒がりな恋人はぐるぐるマフラーを巻いて厚着をしていて、そういうところ可愛いなあと綱吉は思いながら、彼が家の鍵をかけるのをぼんやり眺めた。
「あのさ、獄寺君」
「はい、なんですか?」
「……俺、嫌じゃない、から。さ、」
「―――」
「だから、その、―――!」
 言葉の途中で、綱吉は唇を塞がれた。瞬間だけれど、距離が零の状態。綱吉の頭は真っ白になった。寒い。冷たい空気。煙草の匂い。獄寺君の匂い。さらさらの銀髪。獄寺君の髪―――目の前の人物のことしか、思い浮かばなくなった。
「……ごく、でらくん」
「スイマセン、10代目」
 隼人が離れると、見えた10代目の顔はぽかんとしていて、可愛いなと隼人は恐れ多くも思ってしまった。呆然を隼人を見る顔はキスの所為か寒さの所為かほんのり赤くなって、きらきらの眼は見開かれている。隼人の言葉を待っているようで、だからちゃんと言えるように、隼人は深く呼吸した。
「俺は、10代目とそういうことをしたいと思ってます。もっと一緒に居て、キスもして、……その、さわったりして……」
「……うん」
「でも、そういうことだけがしたいわけじゃなくて……。なんつーか、俺は、貴方が俺の隣に居てくれるだけで、とんでもなく幸せなんです」
 だから、と言うように隼人は笑った。綱吉も現金なもので、其れだけで、先ほどまで悩んでいたことが如何でもいいことのように思えた。焦らなくてもいいかな、なんて。
「……そうだね。……俺も、幸せ」
「10代目……」
 行こっか、と言って綱吉は隼人の手をとる。自分の恥かしさもさることながら、隼人の狼狽っぷりは途轍もなかった。ああ多分、俺も同じくらい赤いんだろうなあ、と真っ赤な隼人の顔を見て思った。手を繋ぐだけでこれで、キスをするだけで謝るのだ。互いに恐縮してばかりで、のろのろと蛞蝓もびっくりのスピードでしかない。けれど其れが自分達で、仕方の無いことだし、急に進むのは矢張り、少しだけ怖い。
(無理するのは止めよう。今は、いつか来る其の時に、ちゃんと近づいていこう)
 其の道のりまでもが幸せなのだと、綱吉は、温度の違う隼人の手を、強く握った。同じように握り返してきた手が心地好かった。

( 二人で歩いていく道 )


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