数学の話など、最早綱吉の耳に届いてなかった。聞いても理解できる気はしないのだが、聞かないよりはマシの筈だ、といつもなら睡眠欲を掻き立てるばかりの声を必死に聞いているのに、今はそんなことに構っている余裕など無かった。
(駄目だ、やっぱり気になる……)
 教科書を手にしても、ノートをとっても、シャーペンを退屈に任せてくるくる回していても、書き損じに消しゴムをかけていても。何をしても其れは視覚と触覚を刺激し、嗅覚に至ってはずっと刺激し続けているのだ。鼻が詰まっていればいいのに、こういうときに限って詰まらない。先ほどまで綱吉はくしゃみを何度も続けていたというのに。
 綱吉が気にしているのは、自分を覆う暖かいカーディガンだった。いつもなら衣替えまでベストだけで過ごし、其れを不服に思うほど綱吉は寒さに弱くない。だから今日も常と同じようにベストを着ていたのだが、今は、いつもなら着ない、黒のカーディガンを綱吉はまとっていた。
 獄寺隼人のものである。
 綱吉が知る限りでは、隼人は綱吉に比べて寒がりだ。ベストだけの綱吉と違い隼人はカーディガンをまとい、冬場になるとカーディガン・ジャケット・マフラーの完全防備となる。綱吉としても、もこもこしていて可愛いという感想を抱いているが、矢張り時々、着込みすぎじゃない?と口にはしないが呆れる時もある。
(獄寺君、大丈夫かな……)
 そんな寒さに弱い隼人が心配で、ずっと後ろの席に座っている隼人を振り向くと、眼が合った彼は満面の笑みを返した。……大丈夫なんだろう。多分。うん。
 まさかくしゃみで此処までされるとは、綱吉は思っても見なかった。確かに今日は登校時からいつもより寒い気がしていて、悪寒を感じてはいた。心配した隼人が何度も聞いてきたが、全て大丈夫と応えた。自分ではそう思っていたからだ。隼人も、10代目がそう仰るならと大人しいものだった。
 其の状況を決定的に変えたのが、山本武の一言―――こりゃ風邪だろ、である。
 武の加勢で隼人は勢いづき、何としても綱吉を朝から早退させようとしたのだが、其ればかりは綱吉は遠慮を通り越して拒否した。教室まで来ておいていきなり早退とは、よほどの状態じゃないとただのサボりである。家に帰っても煩いばかりで休めるとは思えないし、大体、其処までの状態ではない。必死に隼人と武を説得して、結果二人から―――というか、隼人から―――出てきた妥協案が、この隼人のカーディガンだった。先ほどの早退案を必死で説得した綱吉に、俺のをお貸しします!と詰め寄る隼人を押し込めることなど不可能だった。
 渋々其れを着た綱吉だったが、一枚増やすだけで随分と体感温度が変わった。矢張り、暖かい。着た途端に始業の鐘が鳴り、そのまま授業に雪崩れ込んだのが、袖を通しただけだったカーディガンをちゃんと肩をあわせ裾を延ばしボタンを締めた時、漸く綱吉はこの妥協案の問題点に気づいた。
(確かに暖かいんだけど、有り難いんだけど……!!)
 サイズが全く合わなかった。1サイズ大きいぐらいかと思っていたら、それどころではなく、黒い袖からは綱吉の指先だけが見えて、掌は袖の中だった。なんだこの「男のロマン」状態は。綱吉は溜息を我慢できなかった。自分と隼人と武で、段々と体格差があることは勿論承知の上だったが、まさか此処までとは。リボーンが来てからというもの、熱心ではないとはいえそれなりに鍛えられているというのに、綱吉の体格に変化は全く現れていない。こっそり悩みだったりするのだが、其れをぶちまけた日には、リボーンの鍛え方が異常になることは眼に見えているので、言えるわけは無い。
 今更、二人とは生活リズム其の他がまるで違うので仕方の無いことだが、矢張り、同い年の人のカーディガンでこのサイズ違い。威力は大きい。屈辱だ。
 しかし、綱吉は一番の問題は其れではなかった。確かにこれも問題なのだが、そんな悩みで終わるようなことではなかった。本当に支障が出ているのだ。集中できないし、無駄に動悸は激しくなるし、一つの事しか考えられなくなるという、異常事態。
(……うう、やっぱり匂いがする)
 カーディガンから香る、煙草の匂いと、隼人自身の匂いが問題だった。
 其の所為で綱吉は集中できないでいた。なんだかドキドキして仕方が無い。ぼーっとしてると隼人のことばかり考えている。いくら想い合う相手とはいえ、こんな香りだけで反応するとは。どれだけ好きなんだよ、と自分に呆れて、そんなことを考えた自分がまた恥かしくなった。

(……仕方ないじゃん。好きなんだから、考えちゃうんだから!)

 暖かいのは着ているものが一枚増えただけじゃない。自分の確信に溜息を吐いて、落ち着かないままそわそわもぞもぞと、綱吉は授業を聞き流し、座っていた。

( 君の匂いがずっと傍にある所為で! )


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( 以下蛇足↓ ※素敵に格好よい獄寺など居ません。デレッデレというか変態というか崩壊というか )

 一方其の貸した本人、獄寺隼人はというと
(10代目すげえかわいい……)
 悦に入っていた。
 視線の先は勿論愛しい10代目。隼人は退屈な授業を聞き流し、ただただ一生懸命綱吉の後姿を眼に焼き付けるように見詰めていた。隼人が貸したカーディガンは綱吉に全く丈が合っておらず、指しか出ていない。裾も長い。将に「男のロマン」状態で、隼人は其れが愛しくて可愛くて堪らなかった。
 綱吉が小柄ということは重々承知していた。並んでも頭一つ分小さいし、腕や足も自分より細い。時々見せる頼もしい力を何処に隠しているのか悩むほど、細い。恐らく気にしているのだろうが、隼人にしてみれば其れは綱吉の可愛らしい点として重要な要素だった。
(うわ……肩も細いんだな、ずれてらっしゃる……)
 ベストの時よりも強調される彼の肩幅の狭さは、これがまた非常に愛しかった。常の制服姿でも、肩幅が合ってないように隼人には見えていたのだが、自分のカーディガンを来た10代目は一層肩が細く見えた。女子並なのでは、と思いもしたが流石に其れは無いだろうし、いくら頭の中とはいえ其処まで言うと失礼だ。
(やべえ……すっげえかわいい……どーする俺……)
 10代目は渋くてお優しくて可愛らしくて、何処までも何処までも愛しくてたまらない。こんな素晴らしい人が、自分と想い合っている仲だと考えるだけで隼人は幸せで如何にかなりそうだった。

(あー、抱き締めてえ!!)

 恐らく自分の腕にすっぽり収まってしまうだろう10代目の小さな体の後姿を眺める隼人に、授業など最早背景にしか過ぎなかった。

( どうして貴方はそんなにそんなに! )


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