は上を見上げて悩んでいた。それからきょろきょろと周囲を見回して、溜め息を吐き、また上を―――本棚を見上げて、むう、と眉を潜めた。
 中学校の図書館の蔵書なんて高が知れていて、大した量はない。けれど読書好きの中学生を満足させるには十分だった。問題なのは、がドがつくマイノリティ好みであることだった。図書室の奥の奥の、一番上にあるような本を読みたがる。だから埃の被った本を引っ張り出して司書教諭を驚かせることもしばしばで、申し訳ないと思いながら椅子を踏み台にすることも頻繁だった。
 のだが。
「…………」
 残念なことに、見つからないのである。椅子が。いつもならすぐ近くにおいてある。最早専用とばかりに、使われない椅子はに登られる為に奥の奥の棚付近にいつも置かれていた。けれど今回は如何した事か、見当たらない。夏休み前に大掃除でもしたのか、其の時にでも退かされたのだろう。
(とりあえず、椅子取ってこよう)
 馴染んだ踏み台が無いというのは、なんとなく拍子抜けで、けれどはすぐに行動を開始した。見上げていても落ちてくるわけではないのだ。次の授業は此処図書館でとはいえ、あまり時間も無い。急いで踵を返し読書スペースに向かおうとした其の時、
「あ」
 は、以前クラスメイトに「何処を如何したらそう上手く足が縺れるのか」と首を傾げられた縺れ方をして、バランスを崩した。急いでいると転ぶ可能性が高くなることは重々承知の上であるのに、またやってしまった自分に倒れこむ刹那の間に呆れた。そして内心嘆息した次の瞬間に、床と膝が仲良くぶつかり合った。倒れ方も板についているので怪我をすることは減ったが、痛いものは痛い。
「……最近増えた気がする」
「?…………はあ? お前、何してんだよ」
 まさか聞かれるとは思わなかった、小さく呟いた嘆きを拾った人間に、誰何のつもりで顔を上げると、は真っ青になって後悔した。なんで、また、こんな、第一、こんなところに……。の頭は混乱したが、すぐにもとの回転を取り戻す。次の授業は、図書館で。国語教師の声が脳内再生される。
(ああそうか、そう、でした……)
「獄寺さん……」
 これでもかと図書館が似合わない男を、は弱々しく呼んだ。とんでもないタイミングで現れた獄寺隼人はものすごい呆れ顔で、いやも自分に呆れているところではあるが、いくらなんでもそんな顔しなくてもいいんじゃないかなあと思う程、呆れていた。
「また転んでんのかよ……どんくせえ奴」
「返す言葉も御座いません……」
 隼人の刺々しい言葉にひしひしと刺されつつ、落とした本を拾って立ち上がる。科白の「また」という部分に、忘れてると良いなあと先日から抱いていたの淡い希望は木っ端微塵に砕けた。
 隼人に転ぶところを見られるのは二回目である。前回の其れはとんでもなく大胆であった為、印象が強かったに違いない。本人としても、あれは久々の大事だったので仕様がないが、自分の失敗は矢張り忘れたいもの、忘れて欲しいものである。中学生にもなって振り向いただけで転ぶなんていうのは、特に。
「お前、5メートル毎に転んでんじゃねえだろうな」
「そ、そこまでではありません。上手くいけば転ばない日だってあります」
「其れが普通だろ。どんくせえ」
「う……仰るとおりです」
 再度告げられた隼人の言葉は、素っ気無いを通り越して辛辣に近い気がしてくる。彼が執心の沢田綱吉以外にそんな口ぶりをするのはそろそろ学校でも当たり前の光景であって、いちいち気にすることではないと解っているが、流石に自分の情けないところを刺されるのは痛いところだった。は自分の情けなさもさることながら、獄寺の言葉にも嘆息せずにはいられなかった。


「で、転ぶ程何してたんだよ」
「あ、いえ、……椅子を取りに行こうと」
「は……?」
「あ、上にある本が取れないのです」
 言葉が足りない、と隼人は思った。前回転倒シーンを目撃した事を切欠に、山本武の幼馴染ということもあって、とは言葉を交わす程度の交流を持つようになった。それからつくづく思うようになっていたのだが、そして今回確信に変わる。は、少し言葉が足りない。今のように目的だけで理由がなかったり、逆もあった気がする。説明が苦手なのかとも思ったが、10代目の補習の手伝いをしたらしいからそうではないのだろう。実際10代目は、彼女のおかげで助かったと言っていたし。
(どんくさい上に言葉が足りねえ……やりづれえ奴)
 隼人の中で出た結論は其れだった。さらに言うと、彼女は隼人の悪態を逐一丁寧に受け取るので、其れもまたやりづらい。武のようにへらへら笑って流すか、三浦ハルのように怒るほうが楽だ。丁寧すぎて要領が悪そうである。けれど仕事が遅いわけではないし、しっかりとやる。どっちかはっきりして欲しいところなのだが、今回はどうも遅い方であるようだ。
「だから、踏み台になるものを、と……あ、獄寺さん?」
 の言葉を無視して隼人は、やりづらい彼女に苛々しながらも奥の本棚に廻り込む。見上げると分厚い本がずらり。中学の図書館においてあるのが不思議なほど取っ付き難い本だった。しかもある地点からは比較的手入れがされているようだ。おそらくが読んで、ついでに埃やら何やらを綺麗にしてやったんだろう。其の境目にある本を手に取ろうと伸ばすと、隼人でも何とか届くといった具合で、なるほど踏み台無しにが取れる訳がなかった。
(山本の馬鹿なら簡単に取れちまうんだろうな……)
 軽々と手が届くであろう男を思い出して、くそったれと胸の内で悪態を吐いた。どうにか取れた分厚い本を、ぽかんと隼人を見詰めるに差し出す。
「おら。これだろ?」
「え…、あ、えと。はい、ありがとうございます」
 きょとんとしていた顔が元に戻るのに多少時間が掛かったが、は何とかそれを受け取った。其の後すぐにもう一冊お願いしたいんですが、といくら下手に出るからと言って其処まで下から始めなくても良いんじゃないかと隼人が思う程申し訳無さそうな態度で言う。大した労でも無いので、言われるがままもう一冊、先程渡した本の隣からこれまた分厚い本をとってやる。分厚い本から順に読もうとしてるんじゃないかと隼人は思った。
「ありがとうございます。本当に」
 これぐらいで頭を下げるのか、とまた隼人は呆れた。つくづく、この少女は丁寧とか謙虚とかを通り越していると思う。最早常軌を逸してるとまで感じる。此処まで出られると色々萎えるというものだ。隼人は溜め息を吐いて返事とした。それでもはにこにこと嬉しそうだったから、
「なんだよ」
「あ、その。えっと。優しい方だと思いまして」
 訊けば、校内でも美人と評判のは、優しくはにかんだ。
「なっ!?お前何言ってむぐっ」
「獄寺さん此処図書館ですっ、静かにしないと怒られますよっ」
 思わず荒げてしまった声を、取ってやったばかりの分厚い本で押し込められた。確かに咎められる音量で隼人は叫んでしまっていた。次の授業の為クラスメイトが此処には何人も居るが、こんな奥の奥からの声に驚きはするものの発生源が見える位置に無いのでわざわざ探しに来る事も無い。だから真っ赤になった顔を見られるわけも無い。見えるのはだけだ。
「……い、いきなり何言ってやがんだテメエ!」
「えっあの、ごめんなさい。でも理由を訊かれるから……」
 本を押しのけてこそこそと音量を下げて噛み付くと、同じように小さな声で謝罪された。小動物のように小さく丸くなりやがって、ああもう、こいつは、何処までやりづらいんだ!
 などとやり取りを続けていると、隼人の声だとわかったらしい綱吉と武に発見され、無駄に赤くなった顔を目撃される被害にあってしまった。
 其の脇で、は獄寺隼人に対する印象をこっそり変えていた。
 

( ときどき、ちょっとだけ )


back