「何してるの」
 ぼうっとしていた意識が戻ってきたと同時に、綱吉は其の声を耳にした。優しい声。いつもより一層、柔らかくて寄り添いたくなる声。
「……
 綱吉は目を覆っていた腕を上げて、其の顔を見た。声よりもずっと優しく、彼女は微笑んでいる。起き上がろうとするとは其れを止めて、綱吉の寝転がる豪奢なベッドに腰を下ろした。ぎしり、と一人分増えた重みでベッドが鳴る。悪いとは思ったけれど、今の綱吉には体を起こすことも億劫で、言われるがままに寝たままで居た。別に体調が悪いとか、そんなことは微塵も無い。これはただの心の問題。自分の弱った気持ちの問題。
 其れを理解しているは、綱吉の顔を見下ろすと、サラリと綱吉の前髪を掻き分けた。酷く情けない顔をしている綱吉としてはあまり頂けなくて、其の手を軽く拒否する。ああなんて大人げ無い仕草だ、彼女が俺を気遣っている事はわかっているのに。
「まだ顔色よくないね。……寝てていいよ、仕事は今無いし」
 嘘だと綱吉は知っている。ボンゴレ10代目のデスクに書類が来ない日は無い。前もって休暇と言っておかなくてはどんどん溜まる一方なのだ。ボンゴレファミリーがどの分野のどの辺りまで其の手腕を伸ばしているのは、ボスである綱吉が一番わかっている。リボーンが綱吉に内密にしていることもあるだろうが。
「俺、起きるよ」
「駄目駄目。そんな顔で行ったって、隼人君にまた押し返されるだけよ。…元の鋭気が戻るまで、好きなだけぐったりしてていいよ」
「―――」
 の言葉に綱吉は目を閉じた。言われた事実が尤もであるとは思っているけれど、出なければならない気もする。あまりにだらだらしていると、其のうちリボーンが怒るだろうに。けれど綱吉は起き上がれなかった。この世界に来て初めてのことだったから。まだ、綱吉は消化できないで居た。気持ち悪い。内側から全部ひっくり返されたように、気持ちが悪い。こんなことではいけない、こんなことではいけない。だって俺はボンゴレ10代目。一番確りしなきゃいけない。昔みたいに、無理矢理巻き込まれたからと無責任なことは言えない。俺が選んだから。誰からも強制されずに、自分で、此処に生きようと。―――だから、ちゃんと受け止めなくちゃいけない。
「お疲れ様。頑張ったね、綱吉君」
「……」
 それでも、の手は優しかった。ひんやりと冷たい手が瞼にかぶせられる。昔から冷たい彼女の手。優しくやさしく、けれど甘やかす訳ではないような手。どろりとした生温さは微塵も存在しない、冴え冴えと奮い立たせられるような、けれど泣きたくなるような手。泣くつもりはほんの少しも無かったけれど、綱吉は胸がぎゅうと締め付けられるような気がした。
「…………いつか、」
「うん?」
「いつか、の亡骸に土をかける時が、来る、かな」
「そりゃあ来るよ」
 思いのほか返答が速くて、綱吉は内容はさておき拍子抜けだった。らしいといえばとても其の通りで、思わず飛び起きて見えた彼女の顔はいつもどおりの、何処か含んだところのありそうな無さそうな、にやりとした笑顔だった。
「君さ、あたしが君の為に生きてるって解ってる?」
「な……、ていうかそれやめてよ。いくら俺が10代目だからって、そんなの」
 そうじゃなくて、とは語気を強めて、綱吉の口を人差し指で塞ぎ言葉を遮る。言い聞かせるように言う。突然噤まざるを得なくなった綱吉の言葉は中に飲み込まれて、綱吉は不完全燃焼な気分だった。
「あのね、君は誰?」
「え……と?」
「沢田綱吉。ボンゴレ10代目。でもね、あたしが生きてるのは、10代目の為じゃないの。沢田綱吉、君の為よ。まあ、此処に居る奴皆―――いや訂正、一部を除き。そうだろうけど」
「……何が言いたいんだよ?」
「だーかーら、あたしは君の為に生きてるのに、、君が先に死んでどーすんのよ。君が死んだらあたし生きていけないじゃないの」
(……ええと、そうなるのか?)
 百歩譲って、が自分の為に生きているという話を納得してやって考えれば、確かにそういう式が成立しそうな感じはするのだが、けれど綱吉は納得できないでいた。またいつものように、はぐらかされ誤魔化され嘯かれているような感じがするのだ。の表情が、非常に異常に、とてつもなくとんでもなく、そう感じさせる。
 そんな綱吉の引き気味の感情も読まず、は胸を張って当然という態度で、
「そういうわけだから、あたしは君より先に死ぬのよ」
「いや、威張ることじゃないし!」
 綱吉からツッコミを受けた。
「だいたいそんなのおかしいよ。が、皆が、俺の為って、何だよ其れ。じゃあ最後の最後、俺は、一人じゃないか!」
 こういう風に、苛立って話すのは久々だ。自分の言葉に含まれた気配に、綱吉が一番驚いた。なんだ俺、子どもみたいだ。昔とは違うと思っていたけど、やっぱり何も変わってない。
 けれどは、大した変化も伴わず、ただただ緩く微笑んだ。
「そう。いつかそうなるかもね。……でもね、あたしは君を一人にしたいわけじゃない。あたし達は、君と居たいから戦うの。君が言うとおり、皆で居る為に戦うの。其の為に強くなる―――自分で言ったことでしょう?」
「あ―――」
 綱吉の脳裏に浮かぶのは、もう随分昔の戦い。あの時、自分はそう言って、そう叱り付けて。其の言葉を今、俺が受けている。ひとりで落ち込んでたから。ひとりで抱えようとしていたから。
「……さんは、相変わらず励ますのが上手いね」
「こら、さん付け止めなさい―――って何年前の話よ、これ」
「あははは」
 昔咎められた、当初は呼んでいた呼称で呼ぶと、は昔と変わらない声音で怒った。ああそうだった。あの頃からずっと、あの頃のまま、皆で一緒に、馬鹿馬鹿しく笑って騒いで、其れを守りたいと思ったから。強くなろうと思った、戦おうと思った。
(なら、ぼんやりしてる場合じゃない)
 つらいことではあるけれど、其れを受け止めなくてはいけない。自分の選択だから、責任を持たなくてはいけない。そして立ち止まっては、何処にも行けない。
 ベッドを降りて立ち上がると、がきょとんとした顔をしていた。其の顔がなんだか幼くて、綱吉はつい笑ってしまう。
「行かなきゃ。獄寺君に任せっぱなしだと悪いし」
 ああそういうことか。は綱吉の手をとった。重みの無くなったベッドは音を立てなかった。未練も無かった。それより行かなくちゃ。
 手を繋いだまま部屋の扉の前まで来て、そういやこの手どうしよう、と未だ離すのが勿体無いような気がしている綱吉は漸く気にして、に目をやると、目が合って彼女は笑った。昔なら目線はの方が上で、手を繋ぐなんてことは無かったなと片隅で思った。これだけでも随分な成長のような気がする。
「ねえねえ綱吉君。言うことあるんじゃない?」
「え? ……ああ、そっか」
 上目遣いのが言わんとしているところを理解して、綱吉は笑う。はこういうところはちゃんとしている。いつもは面倒くさがりの怠け者なのに。

「ありがとう、

( そう、だからいつだって、僕らは )


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