其れを見つけた時、まさか、と隼人は思った。時刻は夜なのだから、公園の外灯だけではおそらく見間違いもするし、第一こんな時間にうろつく人間ではない。猜疑に駆られ、確かめる為に目を凝らしたけれど、矢張り、隼人の眼に映る其れは見知った影だった。
(……何してやがる)
 其処に居るだけなら、隼人は素通りした。凝視することも疑うこともなく、見間違いで済ませ、たとえ其れが見間違いでなくても気には留めなかった。場所は公園、誰が居てもおかしくは無い。けれど、其処に居ると確信できてしまった人影の、思いつく人物像と時刻を考えると有り得ないと思えた。勝手な想像ではあるが、こんな小雨のぱらつく夜は、大人しく部屋でまた本でも読んでいるだろうに。
「……チッ」
 舌打ちと同時に拳を握り締めて隼人は其の影に近づいた。もとより大した距離もなかったが、何故か―――予感とでも言うのか、嫌な感じがして、足早になる。其の間も目標は其処から微動だにしなかった。生きているのか怪しんでしまうほど、動かなかった。だから隼人は其処に辿り着いた時、声を掛けられず、
「……ごくでらさん」
「…………っ」
 其れが―――がゆっくり顔をあげるのを待つしかなかった。彼女の声はひ弱で、確かにいつもそう元気一杯なんて人間ではないが、だからと言ってこんな小さく細々とした様ではなかった。芝生に座り込み、自分を見上げる彼女は、何があったのか、元気が無いでは済まない様子だった。だからだ、と隼人は思う。
「なに、してんだよ」
 聞いてしまった。気になってしまったのだ。常とまるで違う、魂の抜けたようなが。
 隼人はを多く知っているわけではない。ただのクラスメイト、精々山本武の幼馴染程度としか知らない。武に連れられて沢田家で勉強会をしたり、其れを切欠に笹川京子・三浦ハルと仲良くなっていたりして、いつものどたばた騒ぎに巻き込まれることはあるものの、隼人はと大した関係を築けては居なかった。まるで興味が無い、というわけではないが、歩み寄ろうと思う程ではなかったのだ。彼女の存在は自分にもそして敬愛する10代目にも悪影響は無いようだし、彼女も積極的に関わっては来なかった。ただ綱吉が気に入っているようなので、隼人は何も口出しはせず、其処に居れば其れで良いし、居ないからと言って違和を感じる事は無い。
 どちらでもいい存在。そうであるのに、ざわつくのは何なのだろう。
「えっと……その、」
 問うと言い淀むに、理由の解らない苛立ちは更に募って、とにかく、と募った苛立ちを押さえきれず、隼人は乱暴にの腕を掴み―――ぞくりとした。
 先程より距離が近くなったは、いつの間にか止んでいた小雨にずっと晒されていたのか、少し濡れていた。水気を含んだ髪は重そうに彼女の顔に掛かり、白い手は驚くほど冷たい。其の冷たさに、隼人は優先順位を切り替えることにした。放っておいていいものじゃねえ。
「……何してたんだよ、お前」
 思わず低い声が出て、が少し怯えたのが見て取れた。口篭る彼女の返事を待たずに手を引き、近くにあるベンチに向かう。途惑いつつも振り解かないを其処に座らせると、待っているように言い聞かせ、小走りで先程通り過ぎた自動販売機に向き合う。冷たい手を反芻し、(こういう真似は出来れば遠慮したかったが)何か暖かいものを、と其処に並ぶ缶を見て、一度適当に珈琲を選択した。其の後記憶を―――確かは珈琲よりも紅茶を飲む人間だった気がして―――振り絞って、普段なら絶対買わないミルクティの缶を手に取る事になった。
 取り出して顔をあげると、小雨は止んでいた。

 選ばせるように、珈琲とミルクティと両方差し出すと、はミルクティを選択した。正直有り難かった。そんな甘ったるいもの飲んでたまるか。隼人は少しスペースをとって隣に腰掛ける。は冷えた指先を暖めるように缶を握り、其れを開けはしなかった。其の様子を一瞥し、隼人は努めて常と変わらぬ態度で、無言で缶を開けて其れを飲む。煙草とは違った苦味が、暖かさと伴に喉を滑り落ちた。
 暫くそうして、ぼんやりと珈琲を口にしていると、漸くが缶を開ける音がした。同時に甘い匂い。矢張りあれを選択してくれた事は有り難かった、と隼人は内心安堵した。記憶を振り絞っての選択だったが、正解かどうかはともかく、間違いではなかったらしい。少し待つと、ほう、とが溜め息をついた。安堵のように思える其れだった。
「……きかないんですか」
「…………」
 漸く口を開いて、それか。隼人は溜め息を吐きたくなったが、胸のうちに留めて置く。先程の状態から、期待は全くせずに座っていただけだが、そんな風に口を聞かれるとは頂けない。距離を置かれているような口ぶり。自分達の距離は今現在の物理的な其れと同じだと隼人は理解しているが、がそんな風に言うこと自体の珍しさがあった。根絶丁寧な彼女の、人との関わりを円滑にする口ぶりは何処に言ったのか。形だけの丁寧語が残って、其れに彼女らしさは無かった。
「さっきは答えなかったじゃねえか」
「それは、……すみません」
「……言いたいなら聞いてやる。聞かせたくないなら言うな。―――言いたくて、聞かせたくないなら、聞かないふりしてやるよ」
「…………今日の獄寺さん、やさしいですね」
「ああ!?何言ってんだ!!」
「あ、ごめんなさい……でも、なんか、えっと、はい」
 流れを無視したの発言に、思わず隼人は声を荒げた。顔を真っ赤にしている自覚は隼人には無いが、も其れに気づくことなく謝罪を口にした。大人しく謝った彼女を見て、隼人は意図せず上げていた腰をベンチに戻し、ポケットから煙草を探る。拉げた箱には一本しか残っておらず、長話だと困るな、と思いながら其れを咥えて火をつけた。
「猫がいたんです」
 隼人が一度煙を吐き出して、もう一度煙草を咥えてから、は口を開いた。
「野良で、いつも薄汚れてて……この辺りに、居て、何度か御飯をあげたこともありました」
 それなら隼人にも心当たりがあった。この公園近辺でよく見かけたあの猫。10代目も気に入ってらしたな、と思い出して、其れでも意識は彼女の声に澄ます。しかし、すぐあるだろうの声は無かった。訝しんで一瞥すると、けれど彼女の表情に変わりはなく、手は缶をいじっていた。言葉を選んでいるようだった。
「…………死んだのか」
 言うとは頷いた。彼女の言葉を思い返すと全て過去形で、今とは違うことを消極的に示していた。正確な理由は解らないが、野良猫を死なせてしまう要因など、山のようにある。随分と年をとっていたようにも見えていた。
(……ああ、だから手が)
 隼人は一人納得した。先程取ったの手は土で汚れていたのだ。思えば、冷たさに驚いて其の手を見たとき、全ての爪に土が詰まって、黒く汚れていた。服も泥だらけで、けれどは微塵も気にかけていない。
「すき、だったんです。猫。……昔、短い間、飼ってて……。でも、すぐ他人の手に渡っちゃいました。……今はもう、無理ですけど、やっぱり、好きで……それで」
 其れで、今はもう土の中の猫を、ほんの少しだけ、気に留めて、情を移して、愛していた。飼うこと、傍に置くことは難しいから、せめて。
 壊れる愛しいもの。無くなる大切なもの。
 其れを悲しむことを、隼人は止める気にはならない。其れが言葉に出来ないほどの悲しみであることは理解出来ているつもりだし、常日頃遠慮がちであるの、素直な気持ちを止めようとは思えなかった―――だからこそ、苛立った。に。
「…………、
「…………」
「笑って話すんじゃねえ。イライラする」
 隼人の言葉に、は目を丸くしてみせた。実際隼人は、胸がぐるぐるしていて嫌になっていた。苦笑とはいえ、無理に笑って話すが。なんで笑ってやがる、なんで今取り繕う必要があるんだ。
「……湿っぽくなるじゃないですか」
「十分湿っぽい格好だろうが」
「…………、だって、解ってたんです。あの子が野良で、お年寄りで、いつそうなってもおかしくないって、獄寺さんもご存知でしょう―――」
「…………」
「―――そうであろうとなかろうと、生きる事は難しい事です。ご存知の筈です。誰でも、どんな生き物でも。何かしら、生きていくことが辛辣な生命は、あります。必ず。……あのこは、他よりずっと可能性が高くて、私は其れを知っていた。知っていて、好きになって、だから、」
「それでも」
 言い聞かせるように続けるに、とうとう獄寺の怒りは頂点に達した。俯いたの肩を掴み顔を上げさせる。見開かれた瞳は乾いて、涙なんて気配すら無くて、其れがまた隼人の苛立ちを煽った。
「―――お前は悲しいんじゃねえのかよ」
 語気を強めて言うと、はぴたりと停止した。ボタンを押したように。ただ隼人を見詰めて、目を見開いて。次第に小さく震え出す。薄い肩が細かく震えるのが手から伝わる。隼人を見詰める瞳が、微かに揺れていた。
「でも、」
「でももくそも無え。こんな時まで、何我慢してやがんだ、テメエはっ」
 大きな眼にじわじわと涙がたまるのが見て取れた。端から見れば隼人が泣かせているようだが、そんなことは如何でもいい。第一誰も居ない夜の公園だ。
 まるで悲しむ資格が無いような話はもううんざりだった。そんなものは関係ないだろう。理解した上で、なんて、心を痛めることがそんなことで左右される筈が無い。先ほどまで呆然としていたは、悲しむことを放棄していた。遠くにおいやっていたのだ。
 ついに許容量を超えた涙が一筋、の頬を滑り落ちた。其れを皮切りにぽろぽろぽろぽろと零れ出す。は俯いて、嗚咽も抑えて、ただ震えて其処に居た。其処で泣いていた。ただひらすら悲しんだ。悲しんで、涙を流した。涙を流して、死を悼んだ。

 泣けばいいと思う。心を痛めているのなら。なくしたことは悲しいから。自分で無くとも、この歳になると涙腺は機能する機会は減る。もそうであるはずだ。年をとるごとに泣く機会は減っていく。誰も彼も、悲しみを零す機会と機能を減らしていく。ならば素直に泣くべきだ。涙は流さないと枯れてしまうものだから。
(泣きてえんなら、最初っからそうしてりゃいいんだ)
 耐え忍んで欲しくない。時々くらい、こうして、静かな夜に。
「…………」
 けれど。
 隼人は自分の限界が解っていた。自分は彼女の何でも無いし、彼女は自分の何でもない。隼人は自覚し、ただただ涙を流すの隣で、煙草をふかすだけった。其れしか出来なかった。
 其れだけの、其れが、いやに口惜しかった。

( 涙する彼女を抱く腕など )


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