あんまり、無理しないでね。―――つらいから。
 そういって笑った人。
 変わらず優しい笑顔と、初めて包まれた優しい腕。
 そういえば、まともに触れたのは、あれが最初で最後だった気がする。


「君って」
 目が覚めるような声だった。はっきりとして、痛烈で、辛辣で。十年も前から、出会ったときからずっとそうであるから、そうでないと少し気味が悪いし、今更文句をつけるつもりはさらさらない。そんな余裕も、隼人の内には存在していなかった。
 後ろからの声に、隼人は返事をせずにただ意識するだけにした。声をかけた本人も返事は期待していなかったようで、間は空くこと無くすぐに言葉を続ける。
「救いようの無い馬鹿だったみたいだね」
 そして言うだけ言うと、其処から立ち去った。もう用の無い場所だと言わんばかりに。実際用など皆無なのだ。本当なら、こんなことをしている暇が無いことぐらい、隼人も理解していた。そして周りに居る人間全てが其れは同じで、けれど少し離れ難かったから。
「……日が暮れるまでには、帰って来いよ」
 其れを皮切りに、足早に、急速に、隼人は一人になった。本来ならばもう一人いると数えたかったけれど、其れは多分、馬鹿馬鹿しい事と分類されるんだろう。声を掛けた武に首肯も言葉も返さず、ただ去っていく足音だけを聞いた。
 何にせよ、隼人はどちらでもよかった。其処に居たって構わないし、居なくても別にいい。誰が居ようが居まいが、心が動くことは無く、ただこの少しの時間だけ、此処に居たいと思った。

 しんとした此処は其の静けさが、静かであるのに耳に障る。抜けるような青い空が忌々しい反面、何処か嬉しかった。今日この時がこの瞬間が、目の前のこの人を表すような高く広い、青空で良かったと思う。けれど直視は出来なかった。耳だけでなく、目まで痛んだから。
「10代目」
 柩の中に収まり花に埋もれるように横たわる彼は、ぞっとするほど白い肌をしていて、生き生きと微笑んでいた10代目に相応しくないと思った。彼を彩る生花の甘い匂いがあまりにも対照的で、煩わしい。隼人は血の通わない頬に手を伸ばしかけて、矢張り其の手を引いた。其れが冷たいことは既に解っている。触れて確かめる事は無い。
 彼に―――沢田綱吉その人に、ちゃんと肌と肌で触れたのはいつだろう。考えてみると、もう二年も前だった。そして其れが最初で最後だった。10代目のファミリーとしてきちんと機能しだし軌道に乗っていた其の頃、ヘマをして怪我をした自分と、半日仕事が手につかなかったらしい彼。其れを申し訳ないと思う反面、何故だか嬉しかった。其処まで思ってくれていたこと―――そして愚かな自分。けれど、あれ以来ずっと忘れられないのはあの温度だった。優しい綱吉の腕を、何度反芻したことか。ふと触れたいと思っては、表には出さず仕舞い込んで、忘れるだろうと封をする。其れを何度も繰り返して―――今、だ。
「本当救いようねえ……。俺、右腕失格ですね」
 貴方のことを、何も解っちゃいなかった。
 結局自分から触れることは一度も無く、こうなって漸く気づいたのだ。馬鹿だ。いや、そんな言葉すら相応しくない。この世で最も愚かな生き物だ。何年一緒に居たんだ。ずっと、隣で、右腕になりたくてなりたくて、認めてもらえて、ずっと一緒に、居て。
(ああ、如何して、)
 何故あの時気づかなかった。何故思い返した其の時に気づかなかった。
(如何して今気づくんだ。今更にも、程がある)
「……何故貴方は、こんな俺なんか、好きになってくれたんですか」
 貴方は気づいていて、そっと黙ってくれていて。
 時折見せた、意味有り気なあの微笑も、用も無かったのに俺の名前を呼んだ事も。―――もう。
 貴方が笑う度にあんなに幸せな気持ちであったのに、呼ばれる度に耳がくすぐったかったのに。
 あの時、心配そうに俺を見る貴方に、あんなに胸が痛んで、抱き締めてくれた腕が、あんなに心地好かったのに。
 もう一度試してみると、手は音が鳴りそうなぐらい震えていた。ああつくづく愚かで臆病だと、隼人は自嘲する。頭はガンガンと鳴るし、喉はカラカラで、眼の奥が燃えるように熱くて。痛くて。体の全部が、心も全て、痛くて痛くて。それでも、せめて、と。精一杯手を伸ばして、漸く触れた。冷たい。もうぬくもりの無い体。鼓動は感じ取れない体。頬を撫でても身動ぎ一つしない、体。

「スイマセン、綱吉さん」
 
「俺、貴方を愛してました。―――愛してます、ずっと」

 身をかがめると、動かない其れに簡単に唇を落とせた。身震いするほど冷たい体。鳴らない鼓動。もう動かない体。―――けれどそれは愛しい貴方。そして、それは、もう。
 柩を閉じて立ち上がる。未練が無いわけがない。本当なら、その空虚な体を抱いて、ずっとずっと、愚かな夢を見ていたい。貴方のことでずっと胸を痛めていたい。其れは幸せなことだろう、けれど貴方は望みはしないから。
 不自然な風が吹いて髪を揺らした。其れは吹き抜けて、隼人はつい眼で追ってしまった。視界を満たす、鮮やか過ぎる綺麗な空。
 ああ矢張り貴方のようだ。
 そう思うと、涙が零れた気がして、濡れていない頬を拭う。けれど濡れた感触は何処にも無くて、もう一度空を仰いで、
「失礼します、10代目」
 隼人は一礼の後、其処から去った。
 心だけが、まだ、痛んでいたけれど、―――行かなければ、ならない。

( 僕が出来ること 何も無いけれど )


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