それは綺麗な景色で、好きだった場所で、愛していた人で、愛されていた人で。
 けれどもう、掴めないことを知っていた。
 だから歪んで映ったし、感慨も何もなく、ただひたすらな寂寥、無慈悲な空虚、そんなものしかなくて。
 歪んだ景色を映したくなくて、飛び起きた。
 冬の冷たい、朝だった。




「アッシュ?」
「……!!」

 アッシュは驚いた。誰も見ていない、誰も居ないとわかっていたからこそそうしていたのに、がそうやって其処に居るものだから。
 見られていた。今更言いつくろうことすら出来ない。
 泣いていたなんて。
 子供みたいな。

「……勝手に入るな」
「ノックしても、返事無いから」
「……なら、出てけ」
「……」

 は、返事はしない。
 そのまま出て行ってくれるだろうと、アッシュは思っていた。彼女は過剰に踏み込んでこない。まるで自分にもそういう部分があると、人に見せたくないものがあると誇示しているかのように、絶対的な距離を守って近づき、其れを超えるなんていうふざけた真似はしない。
 自分もそれに甘えている。そうすることが、互いに傷つかない一番の方法だと互いが知っている。
 筈、なのに。
 ぎしり、と寝台が鳴って。
 其れがどういうものかを理解する前に、彼女に向けていたはずの背中に、軽く何かが凭れかかった。

「……!」
「嫌」
「なっ……、!!」

 声の仕方から背に居るのが彼女だと知る。声を上げると同時に彼女は尚更体重をかけて来て、アッシュは動けなくなる。ほんの少し動けば、彼女は寝台に仰向けに倒れこんで、きっと彼女から自分の顔が見えてしまう。泣いた痕、少しだけ腫れた眼、揺れ動く瞳。どれをとっても、ひ弱で情けなくて、軟弱で脆弱な、証ばかり。
 彼女にはけして見せたくないものばかり。

「……どけ」
「いや」

 言ったところで彼女が聞いてくれる筈も無く、結局アッシュは其のままの姿勢でいるしかなかった。冷たい朝の空気、冷たい頬、冷たい体。背中だけが、少しだけ温かい。

「ねえ、アッシュ」
「……なんだ」
「理由とか、知りたいわけじゃないし、私には責任持てないから聞かないけど」

 ならどいてくれ。出てってくれ。一人にしてくれ。
 ぐるぐるぐるぐる、色んなものが渦になってぐちゃぐちゃにしている。
 懐古、寂寥、憎悪、執着、嫌悪、孤独。
 頼むから、踏み込まないでくれ。

「ひとりで泣くのって、寂しいよ」
「……?」
「じっとして、小さくなって、ひとりで泣くのって、すっごく寂しいんだ」
「……、其の方がいいと思う人間も居るだろう」
「かもね。私は、嫌だな」
「そんなもん、お前の勝手だ」
「そうかな、アッシュは、嫌じゃないの?」
――
「ひとりは、寂しいよ。ひとりは、悲しい。でもしょうがない。そういうものだから。ひとりになっちゃったら、そう簡単には戻れない。……そんなの、知ってる」
――
「私は、ひとりだよ。でもアッシュは、此処に居る。ひとりとひとりで、二人だ」
「そんな簡単な足し算じゃない」
「うん、私は何も知らないし、アッシュは何も言わない。……だから」
「?」
「何も知らないから、何も言わないから、……此処に居るんだよ」

 ひとりは寂しいよ。 ひとりは悲しいよ。
 ひとりは切ないよ。 ひとりは、辛いよ。

「一分でいいから、ちょっと、こうしていよう?ひとりとひとりで、並んでいよう。多分、何にもならないけど」

 何にもならないけれど。
 指も頬も身体の凡て、取り巻く空気すら、冷たいけれど。
 奥の奥では冷たい感情ばかり、渦巻いて身体を冷やしていくけれど。

「……」

 暖かい背中に、の体温に、アッシュは眼を閉じた。
 ぼんやり聞こえてきた歌が、心地好かった。

( 不自由な自由を持て余している )


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