物怖じしないタイプだから。それが、私がこの仕事を任された理由ひとつ。あるいは、その仕事を詳しく知らなかったから。そういえば、たまたま前任者が変えて欲しいと言ったところに居合わせた。それが一番の理由かもしれなかった。
 私にもそれなりに嫌な仕事、したくない仕事というものはあるが、そもそもこの大きな家で働かせてもらう、生かせてもらったという恩があるから、私は二つ返事で了承をした。まずはやってみて、それから決めればいいと思った。恩をひっくり返すほどの拒絶があったら、そのとき考えよう。――そう決めて、夜の短くて密やかな仕事を任されたのが、数ヶ月前。それが幸運なのか、不運なのか、客観的にどうかはわからないけれど、私個人としては、幸運だったのだと思う。運命的なんていうほど、ロマンチストではないが、それでも。
 カツン。地下に続く螺旋の、最後の一段を降りる。地上と違って絨毯に覆われていない硬い床は、冷たい空気と一緒に靴音を上に運んだ。もう一度持ち物を確認する。長い蝋燭と、燭台。それだけ。必要なものはそれだけだった。それ以外を望まれたことがない。
 地下室の扉をノックしたところで、返事が来ないことはよく知っている。かといって開け放つわけにもいかない。ノックの後、そうっとノブを回す。廊下の少ない明かりが扉と同じ速度で部屋の中に滑り込んでいく。真っ暗な部屋の中に、ぽつんと小さな灯り。整理された部屋の一際大きな机の上で、随分と短くなった蝋燭に灯った火は、光とともに入り込んだ空気でほんの少し揺れた。乾いているはずなのに、じっとりと湿り気があるような錯覚を覚える部屋に、ひとの気配はまるでない。ただ、ひたすら闇の匂いがする。たった一本の蝋燭では読書も出来ないだろうに、この部屋には書物ばかり。それを読んでいるのかどうかは、わからないけれど。それ以外には少しの金属類。到底、生活をする部屋ではなかった。
「失礼します」
 誰もいないはずなのに一言置くのはおかしいだろうか。否、おかしいことなどまるでなかった。私は使用人なのだから、無言で入るわけにはいかない。背後で扉を閉めると、心許ない蝋燭の灯りだけになった。それに近づく。溶けた蝋が、燭台の大きな皿いっぱいに広がっていた。燭台ごと持ってきたものを変えようとすると、揺れた光の中に、ぬらりと黒く光るものが映った。それは、そろりそろりと音もなく、ゆるやかに動く。そういうものだから、当たり前。私は未だ火の灯ったままの古い燭台を動かして、そのゆるやかな黒に翳す。闇に負けないほど暗く黒い服が見える。私は微笑んで、挨拶をする。
「こんばんわ」
 黒い服の、細身でとても背の高いひと。誰の気配もなかった部屋に、それでも彼の人は其処に立っている。彼の人はとてもシャイなのだ。いや、ただ声が小さいだけなのだけれど、そう思うと愛らしい気がするから、そういうことにしている。彼の人はすらりとした長身を私に少し傾け、蛇のような黒く長い髪を垂らして、返事をする。ほら、返事をくれる。黙っているわけでも、ましてや聞こえないわけでもない。
 あまりの長身も困ったもので、私はこの役目についてから、彼の人の顔を見たことがない。彼の人の弟も背が高いが、もっと灯りの多いところにいるし、そもそも真っ暗な部屋を好まない。彼の人は、私如きの小柄な人間が小さな灯りを翳したところで、表情が翳ったままで窺えない。だから私は、彼の人の些細な動きだけで、判断する。むずかしいことではなかった。彼の人は素直だった。以前、灯りを増やすか聞いたみた。即答でノーだった。
 私が何か言う前に、ことりと小さな懐中時計が置かれた。置かれたというよりも、彼の人の袖から滑り落ちたよう。この暗い部屋に好んで収まっている彼の人の時刻を管理するのも、私の仕事のひとつ。軽く頭を下げてから時計を手に取り、正確な時刻に合わせた時計を懐から取り出す。ほんの数秒のズレを出来得る限り正確に修正して、彼の人の許に差し出す。
「お食事は必要でしょうか?」
 無言。首を振られた気配がする。尽くしがいのないお人。
「何かご入用のものはありますか?」
 これもノー。けれど、この続きを聞くのも私の仕事のひとつ。
「――血は、飲まれますか?」
 返事はなかった。少なくとも、私が彼の人につくようになってから、誰の血を飲んだとかまた誰と契約したとかそういう話は出ていない。彼の人が此処にひっそりといる時点で、やはり今は、言ってしまえば野良なのだろう。食事もたまにしか摂らないから、少し不安ではある。この部屋から動かないのでエネルギーはあまり要らないのかもしれない。とんでもなく燃費がいい可能性だってあるけれど。
「御影様にご子息がお生まれになられました」
 それから二・三、世間の話を伝える。それに興味があるかはわからないが、地上の様子を伝えておいて損はないだろう。止められたことがないので、毎日何かしら報告している。日差しがだんだん弱まってきたこと、過ごし易くなってきたこと。そういう、季節の話がほとんどだ。彼の人はこの暗い、地上から遮断された部屋にひっそりと篭っているから、その感覚が薄くなってしまうのではないか。そういう懸念を報告したら、彼の人の弟が嬉しそうに頷いた。あれはこの仕事に着いて、三日目のことだったか。
 これだけ。燭台を変えて、時計のズレを修正して、ほんの少し話をする。ときどき食事の用意や部屋の掃除もするが、やはりそれだけの仕事だ。なのに、私以外の使用人は皆嫌がった。怖いのだろうと、思う。それもそうだ。私達にとって、"普通"は色欲の彼や彼の連れてきた小さなこどもたちであって、彼の人ではない。此処は地上とはまるで違う。冷たく、静かで、――けれどとても穏やかだと、私は思う。他の人は知らない。知らないから、恐ろしがる。ここの掃除がどれだけ大変なことか、ここがどれだけ平坦で静かなのか、私以外に知る人はもういない。
 返答のない話が済んだ後は、最後の仕事に取り掛かる。古い蝋燭の火を消して、燭台ごと入れ替えて新しいものに火をつけなければならない。ふ、と口をすぼめて吹けば、短い間完全な暗闇になる。その短い沈黙と闇がすき。手順としては完全に間違っているけれど、灯りを増やしたくないとかの人が言うから。他の灯りはないので、頼りになるものは何もないはずのなのに、彼の人は平然と新しい蝋燭に火をつける。夜目が効くどころではない。これも、私だけが知っていること。その一瞬の暗闇の中で、彼の人の目が見える気がするから、すき。見えるわけがないので、やっぱり気のせいなのだけれど。
 ほんの短い暗闇が、けれど溶け込むように優しいのも、気のせいかもしれない。
 その暗闇のあと、ついたばかりの蝋燭の火に照らされるのは、彼の人の長身ではなく、黒い蛇だ。ちろり、舌を覗かせる。少し頭を浮かせて、机の上に添えてあった私の手にそうっと振れる。ひんやりと冷たい、蛇の肌。蛇の鱗。この姿をとったとき、彼の人はとうとう無口になってしまって、けれど多弁だ。舌を出す、触れてくる、そして離れて、でも視線は外さない。そのいくつかの動作の中で、彼の人が何を考えているか、正確にはわからない。触らせてくれるようになったのは、一月経った頃だったかと思う。彼の人から触れてきてくれたのは、忘れもしない雨の日だった。
 気が済んだのかするりと私の手から離れて闇に消える。薄明かりの部屋では、黒い姿を探すのは困難だ。それで終わり。毎日の仕事の一つ。
「何か御用がありましたら、お呼びくださいませ」
 地上に届くその機能が使われたことなど一度もない。ここに彼の人を訪ねるのは、彼の人の弟か、この日課を任されている私だけ。去り際のこのときが寂しい、密やかな逢瀬のようだと、そう考えている自分につい笑みを浮かべる。闇に潜む彼の人からは、見えているのだろうか。きっと見透かされているのだろうなと、円らな蛇の瞳を想う。
「それでは、失礼いたします。ダウトダウト様」
 扉を極力静かに閉じる。閉じ切るその一瞬まで、見送られているような気がした。


 降りるときよりも軽くなった燭台を抱えながら地上に上がる。かつん、かつんと鳴っていた靴音が、ある地点から柔らかい絨毯を踏む音に変わる。地上まで上がってきた証拠だ。地上の窓から空を見上げると、月がまあるく輝いていた。いつもどおりの、20時17分。時刻を確認すると、彼の人につく仕事がどれだけ短いものなのか思い知る。それほど短く感じないのは、静けさのせいか、暗闇のせいか。五感が遮断されるとじっとりと時がゆるくなるような錯覚がある。それとも、その時間にそれだけ価値を感じているのか。
 聞いたところによると、彼の人が此処に――有栖院の館に来たばかりの頃は、朝昼夜と三回、地下室に通っていたらしい。私がこの役目をする頃には、減ってしまっていた。念のため本人に確認してみれば、必要ないとの連れない返事。楽と言えば楽なのだが、尽くす側としては非常に寂しいお話だ。それでもやっぱりこの仕事は嫌われている。怖がられている。それが全く残念でない私は、薄情なのか、淡白なのか、それとも。
 燭台を抱えてまま、窓の傍で一息。食事の準備、最中、片付けで忙しい時間だから、屋敷の中でも外れに当たるこのあたりを通る使用人は少ない。
、」
 なのに、彼はこんなところにいるから、ふしぎなもの。彼の人の弟に当たる、吸血鬼。
「お疲れ様です」
 吸血鬼というふしぎな存在は、そんなに食べなくてもいいんだろうか。彼の人を想うとそういうところに行き着くのだが、けれど目の前の柔和でスタイルのいい男性はそうではない。人間と同じようにお腹を空かせて食事を取るし、紅茶だって嗜む。私を有栖院に連れてきてくれた恩人は、柔和な笑みを崩さずに慈愛を振りまく。日向では美しい蝶の姿をとる。彼と、彼の人。どちらも同じ吸血鬼だと言われてもにわかには信じがたいだろう。彼の人につく仕事が嫌がられる理由の一つが、それだ。此処の人間にとって、吸血鬼とは彼のことであって、彼は誰からも愛されている。色欲の吸血鬼、有栖院の全て守るひと。それが、此処の普通の吸血鬼だ。彼の人から受ける印象とは遠く離れている。人でないという印象が、彼の人はあまりにも強い。だから嫌がられる。ただ尽くすひとがそういうひとだというだけで、何も変わりはしないと、個人的には思うのだけれど。
 彼は私にもにこりと笑いかける。鬼というには、些か可愛らしすぎると想う。
「ダウトダウトは元気にしていますか?」
「ええ。あまりお話はしてくれませんから、私の見解に過ぎませんが」
「十分ですよ。ありがとう」
 彼の手がするりと、カチューシャを避けて私の頭を撫でる。どう考えても成人女性にするものではないのだけれど、彼にしてみれば、私とていつまでも、彼と有栖院のこどもなのだろう。素直に受ける。言ったところで聞いてくれたことがないし、そもそも悪い気はしない。彼を慕う気持ちに大人もこどもも関係ないし、褒められるのは嬉しいことだ。ぼろきれのようだった私を助けてくれた恩が、この家と、彼に対してある。
「貴方が良くしてくださって、私も嬉しいですよ。ダウトダウトに代わってお礼を言わせてください」
 私が彼の人のお世話を任されて以来、彼の脱ぎ癖の次に口癖になっているのがこれだ。と言っても、私にだけなのだけれど。
「みんなが嫌がるのもわかります。私は、暗いところも静かなところも嫌いではありませんから」
 むしろこの仕事を喜んでやっている。だから、そんなに礼を言われるようなことではないと何度も言っているのだけれど。彼はふと申し訳ない顔をして、私から目を反らした。珍しい表情。彼はあまり笑顔を崩さない。
「彼は、やはりむずかしいですか?」
 この質問は、初めてだった。けれど、
「いいえ」
 すぐに返す。彼は嬉しそうに息を吐いて、長い睫毛を伏せた。建前なんかではない。本音も本音。私が全身で感じていること。だって、むずかしいことなんて何もない。蝋燭を変えて、掃除をして、食事の準備。御用がないかと伺って、あれば応えて、なければそれでいい。主に満足してもらう。そのいつもの仕事と何も変わらない。あの部屋の暗さや、彼の人の印象からひとは遠ざかるけれど、彼の人は何も悪いことなどしていないし、悪い人でもない、と思う。先日、久々に聞こえる言葉を話したかと思ったら、地上での仕事で挫いた足の心配をしてくれていた。何も変わらない、静かで、少し声の小さいだけの、素敵な人。皆、地下の雰囲気に扉が開けられないだけ。
「何を考えているか、わかりにくいひとです。貴方がついてくれて本当に良かった」
 繰り返される礼の言葉に、私は笑みを返す。やさしいひとだなあ、といつもいつも、毎日その印象は上書きされる。色褪せない。彼もまた、優しくて、素敵な人。もしかしたら、吸血鬼と言うのはそういうものなのかもしれない。結局吸血鬼と人間の差なんて、瑣末なものなのかもしれない。
「そろそろ寒くなりますね」
 もう一度窓の外を見やる。夜の闇の中でも、秋の色はとてもきれい。
「……ダウトダウト様は、何か暖をとるものは必要でしょうか。それとも蛇の姿で冬眠なさる?」
「冬眠したという話は聞いたことはありあせんねえ……」
「あ、今呆れましたね。私、真面目に考えているのに」
「いいえそんな。本当に良くしてくれるなと。ほら、蛇を苦手にするひとも多いでしょう」
 そう言えば、人間は大体蛇か蜘蛛かのどちらかが苦手だという話を見聞きしたことがある。ともすれば、どちらも平気な私はそれなりに稀有なのだろうか。でも、使用人をする以上そんなことをは言ってられない。緑に溢れた庭があるから、虫なんて毎日ポンポン飛び出してくる。ああでも、さすがに蛇は、彼の人だけだ。蝋燭の明かりに光るかの人の、机を這う黒い姿を想って、応える。
「蛇は好きですよ。ひんやりしてて、静かで――それに、彼の人は特別です」
 彼の眼がほんの少し見開かれる。私はおかしなことを言っただろうか。それとも、おかしな顔をしていただろうか。彼の人のことを思い出していたから、表情までは気がいっていなかった。彼は予想外のことに出くわした、まさに鳩に豆鉄砲、そういう表情をしている。
「いえ、……ふふ、なんでもないですよ」
「またそんなはぐらかして」
「そんなことありませんって。これからも、彼のことをよろしくお願いします」
 勿論。明日も明後日もその先も。この命の続く限り、彼の人の許へ通いましょう。

( 暗影と逢瀬 )


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