ジェイドの言葉に目を丸くする。驚きが隠せるわけが無い。それほどのことをこいつは言ったのだから、受け止めきれない心を抑えながら、もう一度繰り返すように頼む。
が軍を抜けるそうですよ」
 一言一句変えることなく言い放った。
「はあ?あの、仕事馬鹿が?」
 冗談にも程があるというものだ。自分が知る限り、彼女は軍人が似合うといえば少し語弊があるが、それでも誇りとこだわりをもって仕事をしていた。そう、似合うというよりは、それに相応しくあろうとしている。していたはずだ。自分も、彼もそれをよく知っている。のバックボーンは其処にあるはずだし、それを若干打ち砕いたのも自分達であるからなおさらだ。
「ええ、私のところに届けが来ていました――一週間前に」
「言うのが遅えぞ」
「申し訳ありません。陛下はお忙しいと思いまして」
 いつもどおりにんまりと微笑んで言いのける。ああ、こいつは、まあわかっていることだ。性格の悪さだけなら誰にも負けないだろうから。実際今も自分は仕事中なわけで、けれどそれをほっぽりだして彼女に会いに行きたいわけで、
「だめですよー陛下。抜け出したりしては」
「親友のよしみで見逃してくれたっていいだろ?」
 笑顔で断られた。
「いけませんねえ。これではいつ逃げ出すか解らない。仕方ないので、私が四六時中監視しておくことにしましょう」
 訂正。お前はいい奴だジェイド。


 は本を読んでいた。正式に退官してから三日経つが、流石に荷物の整理も終わってしまってやることがなくなってしまった。手持ち無沙汰になるのはもう何年ぶりだろうか。仕官した時からだから、ざっと十年程。義兄であり上司である男には「仕事馬鹿」と評されていたから、時間があると困ってしまう。家の者に相談したところ、篭りきりなのだから出かけてみればと案が出た。それもそうかと、静かな場所に赴く。――なんだかんだ言って、騒がしい場所はあまり好みではない。結局、はグランコクマの図書館の片隅で、ひっそりと本を読んでいた。
 しかし、それも斜め読みだ。あまり頭に入ってこない。読んではいるのだが、興味は無いのだ。先ほどの悲劇の本はもっと楽しく読めたものだが――
「……?」
 入り口がにわかに賑やかになる。図書館という場所を踏まえても耳障りという程ではないが、何分は集中を切らしていたので気がついた。音量的に喧嘩の類ではなさそうだから、出る幕もないだろう。その思考に至ってから、自分がもう人を取り締まれる立場でないことを思い出して、苦笑した。身に、染み過ぎだ。子どものころからそれしか考えてこなかったから、当然といえば、当然。
 ため息を吐きながら、本を手に取り席を立つ。せめて、もう少し集中できる本を探そう。つまらない本を読むのは有意義ではない。知識にならないレベルなら、なおさらだ。
 椅子から立って体の向きを変えた途端に、人にぶつかった。
「…すみま」
 謝ろうと下げていた顔を上げて、止まる。
(……この人は、何してるんだろう)
 深い深い溜め息を、吐いた。
「そんな顔するなよ」
「もともとこんな顔ですので。――何なさってるんですか、こんな所で」
 ああなるほど。先ほどの小規模な喧騒はこれか。わからないでもない。身元がバレなくったって、この人は、女の子が振り返るぐらいには、いいつくりをしているのだ。そんな出歩いていい立場ではないけれど。お忍びでつけているのであろう眼鏡が、義兄を思い出させて腹立たしくなる。レンズの奥では、を驚かせたことに喜んでいるような光を瞳が湛えていた。それをまた腹立たしく見ていると、少し帽子をあげて「似合うか」なんて聞いてくる。「どちらかといえば、似合うのかもしれません」早口で返した。
「冷たいな、お前に会いに来たんじゃないか」
「……挨拶にでも行ったほうがよかったでしょうか」
 そういうわけじゃないけど、と彼は言い難そうにする。あまり此処でおしゃべりを続けるのもよくない。図書館は静かであるべきなのだ。は彼とそそくさとその場を後にした。
「それで」
 歩きながら話を続ける。としては続ける話も何もあったものではない。退官する。それだけの話だ。義兄との繋がりで比較的よくしてもらっているが、そもそもが自分はそんな立場ではないのだ。なのに、わざわざ抜け出して来るとは、何を考えているのだ。
「辞めてどうするつもりなんだ?」
「さあ、どうしましょう。ガルディオス公爵の妻にでもなりましょうか」
「……嫌味だな」
「どちらにですか」
「どっちにも」
 困ったように笑う彼に、何も返さないまま歩き続ける。元々長い会話を楽しむ方でもない。彼も彼だ。聞きたいことがあるのなら、そのためにわざわざ此処まで来たのだから、言えばいいのに。先を促す意味も込めて視線を投げかけると、彼は少し真剣な面持ちになって考え始めたようだ。悩み始めた、の方が正確かもしれなかった。
「どうして、辞めた」
 結局彼は単刀直入に言うことにしたらしい。漸く口を開いた頃には、大通りを抜けて公園にたどり着いていた。ベンチに腰掛け、落ち着いて話をする気になったらしい。も二人分スペースを空けて腰掛ける。眉を潜められたのが視界の端で解った。
「……」
 しかしどうして質問には答えにくい。それがには不思議だった。何も勢いで辞めたわけではない。自分の肌にも合っていたと思うし、何より自分が、自分の意思で目指してきた職であった。この歳にしてはいい立場にもつけていたと自負していた。だからこそ、辞める決意は容易ではない。それら全てを自分なりに蹴散らせる理由を見つけたはずだ。だから、聞かれれば答えられるはずだった。
 けれど。彼には答えられない。言葉が詰まる。
(……いやだな、本当に)
 本気の目を向けてくるから、いやだ。義兄のように、冗談めかして聞いてくれるのならばそれでいいのに。薄くバターをトーストに塗るように、少しだけ冗談を交えてくれば答えられる。
「見切りをつけたわけでも、愛想がつきたわけでもありません」
 を射抜く目はやまない。
「でも、貴方にはお話しません」
 私は挫折を知られたくないのだ。見切りをつけたわけではない、疲弊してしまったわけではない。けれど、私の心が折れたことを、貴方に知られたくはない。潔く貴方を終えたいだけだ。
「お話できません。ですが、理由が自分にある等と、思い上がらないでください」
 貴方は私に本気ではないくせに。
 本気で聞くから、嫌いだ。
 こんな口をきくのもきっと最後だ。大体将軍でもないのにホイホイと口をきいていた事実の方が恐ろしい。そう、私は、けじめをつけなければ。
「……お話は、以上ですか?」
 立ち上がれば、レンズの向こうの瞳は見えない。それでいい。この人が傷ついてしまえばいい。きっと私に未練もないくらい。冷たい奴だと終わればいいのだ。それで全部終わる。
「……解った。お前がそう言うんなら言わないんだろうな」
 物分りのいい返事だった。ほっと胸を撫で下ろす。聞き分けなく食い下がるかもしれないとも思っていた。でも、矢張り予想通りの返事だった。私も、この人も、子どもじゃない。それだけだ。
 はしばしの間彼の言葉を待ったが、もう何も無いようだ。本当に、こんなことの為に、来た。監視の目を潜り抜けて、城から抜け出して。馬鹿だ。でも、それすら愛おしい。
「では、そろそろ帰りましょうか。城までお送りします」
 と言い掛けた声が途切れた。急な圧迫感には言葉を詰まらせる。
「一人で帰れるさ」
 そうは言っても彼はを離さない。少し息苦しい。でも苦しくは無かった。彼は一瞬前に腕を引いた時とは違って、優しい腕をしているから。
(やさしいひと、いじのわるい、ひと)
 にしてみれば、この優しさは毒だ。今まで、この腕を振り解けたことは無い。強い腕を持っているくせに、縋るように抱きついてくる。大きな子ども。そう思ったこともあった。今は、それとは違う気がするけれど、なんていえばいいのかは解らない。
 だからやはり振り解けない。
 そう、私はやっぱり、縋られては甘やかすことしか知らないのだ。
「……ピオニー、さん」
 一度恋した人の腕の中で、は静かに瞼を落とした。

( 愛は自由に踊るものね とどまることなど知らぬ様に)


back