「脱ぎなさい」
そう言い放てば、アッシュはらしくない程過剰な反応を見せ、は其れを彼と帰ってきた其の時と変わらぬまま睨みつけた。
そのようなことを言われ、齢十五の思春期真っ只中の少年が反応を示さないわけが無いのだが、されどアッシュの表情というものは其れに起因するものとは違い、何処か居心地の悪そうな其れであった。其の理由は睨みつけるに他ならないのではあるが。
「……」
「アッシュ、脱・ぎ・な・さ・い」
「……っ」
「自分でしないなら脱がせるわよ私が」
「……わかったわかったから服に手を掛けるなそして本当に脱がそうとするなっ!」
わかればよろしい、と言わんばかりの態度で、苛立ったように席に着いた。
言われた通りに、渋々だが服を脱ぎ出したアッシュの素肌を見るに、は溜息を盛大に吐かずにはいられない。
別に、青年と呼ぶには幼く、少年と呼ぶには逞しい其の身体に非があるわけではない。むしろ一般には、アッシュの其の肉体は素晴らしく惹かれるものがあると思われるし、自身、其れに興味がないわけでもない。
けれど問題は其れ自身の性質ではなく、其の身体につけられた瑕であるのだ。
アッシュの左の鎖骨より少し下に位置する、傷跡のようなもの。
慣れぬ第七音素での即興の治癒術であったから、帰宅に至るまで、今の今まで傷が塞がっていられたことは最早奇跡だ。この点に関して、は自分を褒めたいと思う。
けれど。
けれど、その創を負った要因を考えれば、其の賛美は一瞬も掛からず責苦へと変貌するのであった。
「ギリギリ間に合った、て感じかな。重畳重畳」
アッシュが上半身に纏っていた衣服を凡て脱ぎ捨てたところで、は其の傍に近づいて其の創にそっと触れた。アッシュにしてみればくすぐったい所の話ではない。目の前に、相手の匂いが感じられるほど目の前に、色の白い細い指が、自分の身体に、其処まで優しくと触れられると。
―――先も述べたが、アッシュは現在思春期真っ只中である。
「……っ おい、」
「なに?」
「……なんでもねえ」
如何にか意見を述べずには居られないのだが、けれど当のはと言うと、アッシュの思考に全くと言って良いほど気づかずに居た。其れに脱力感を誘われ、緊張を一気に解き溜息を吐いた。
「あそ」と気にする様子もなく、一度離れて治療の準備を始める。彼女が離れると同時にアッシュは自分に傷跡に触れる。素肌を触る感覚とは違う其れを感じて、アッシュは其の指を見る。紅い雫が拡がって、指を汚していた。視線を戻せば塞がっていたはずの傷跡からじんわりと其の紅が滲み出して、途端痛みが走ったと思えば、
「つ……」
「アッシュ何してるの、触っちゃ駄目でしょっ!」
其れを皮切りに、傷跡であったはずの其れは創へと変化を遂げたのだった。心臓に近いし、傷は浅くは無い。だらだらと容赦なく紅は身体を滑り始めた。
「ああもう、早く座って!はいこれで創押さえて!」
忙しなく彼女は動き回り、血を拭い、―――、
その間、彼女がアッシュと眼を合わせることは無かった。
「……はい、終わり。動かしにくいとか、窮屈な感じは?」
「いや。……包帯なんてはこんなもんだろう」
「そ。なら本当にお終い」
縫合するほど大きな傷でもなかったから、血を拭って清潔にして薬を塗り、それで終了した。勿論、其の始終、の髪やら顔やら身体やらがこれでもかと近くの在ったりしたわけで、アッシュは落ち着きはしなかったのだが。
漸く離れたは、処置に使った凡ての道具を片付け始める。手持ち無沙汰のアッシュは、自然其の処置に手を伸ばした。先程のように痛みが走る事もなく、ただ皮膚より固い感触を感じるだけだった。先程動かしにくいかと問われ、妥協を口にしたアッシュだったが、やはり気になるものだった。暫く仕事はデスクワークだけになることが眼に見えるようだ。身体を動かさずに居るという事は退屈他ならない。なるほど、確かに窮屈だった。
「やっぱり、気になるよね……」
「……」
「ごめんね」
常の彼女とは思えないほど、殊勝で小さな声であった。其の声に驚き、アッシュは目を見張る。
確かに。
この創は、先刻の任務でを庇い受けたものでは、あるけれど。
「お前がそんな面することじゃねえ」
「私の所為だもの。こんな顔だってするわ」
「俺が勝手にしたことだ」
「私の力不足の為にね」
「……」
「……不毛だよねー、こんな会話」
気だるげに溜息を吐いて、が頭を振りながら言った。アッシュも同意を示す。責任の被り合いなど、不毛他ならない。どちらも譲らない事は、五年も付き合えば知らないはずが無い事実。
「でも、ありがとう。心配してくれた」
「っ 心配なんぞ……!」
一気に血が上ってきて声を上げるとは、くすくす微笑んだ。そうなってしまうと、これ以上何を言っても無駄と言うもの。アッシュは居心地の悪さばつの悪さを感じつつ、黙り込む。
「……あのさ、アッシュ」
「なんだ」
「庇ってくれた事は、確かにありがたいんだけど、もう、やめてね」
「……」
「別に、アッシュの身体を心配して言ってるわけじゃないの。……まあ、心配していないわけじゃないけど。……私、痛いの嫌だから」
「……?」
アッシュは素直に眉を潜めた。
其の言は矛盾だ。傷つけば、痛い。其れを防いだ自分の行為をやめろなどと、何処に理論が通っているのか。
「どういう意味だ?」
「なんていうかな。ほら、わからないものって、怖いでしょう?」
それは、まあ確かに。
けれど、それに関連性を見出せないのだが。
「他人の痛みは、怖いよ」
「……なに?」
「だって、理解できないもの。どれだけ痛いのかわからない。どんなに痛いのかわからない。―――それくらいなら、自分が、痛い方が良い」
「……」
「アッシュの痛みは、私にはわからない。だから、私は、すごくすごく、痛い」
「……」
「理屈っていうか、そういう理論だよ。アッシュが痛い思いをすると、私はそれがわからないからずーっとずーーーーっと痛いの。……今回の事は、私の力不足注意不足だけど、これからそういうことがあっても、絶対、止めて」
と言っては笑った。
それはとても、悲しそうで。
とても、痛々しく、見えた。
創を受けたのが、彼女のように。
傷ついたのが、彼女のように。
そんな風に、見えた。
簡単に食事を済ませ、身体を清め、気がつけば深夜だった。そういえば報告書を書かねばと思い立つと、「報告書は私が書いておくから」、と無理矢理私室に押し込まれてしまった。
寝台に身体を伸ばすと、ゆるゆると眠りに誘われる。先程、これまた無理矢理に彼女に飲まされた痛み止めの所為である。言ってみれば麻酔に近い其れであって、感覚が鈍るからと断固拒否を示したのだが、相手に叶うはずもなく敢え無くアッシュは其れを口にしたのだった。
思考が緩い。
幕が掛かったように曖昧だ。
ぼんやりと、先程のことを思い出す。
彼女の言。
の声。
――― アッシュの痛みは、私にはわからない。
ならば、自分も彼女の痛みを分かり得ないということか。
それは、確かにそうだ。
他人の感覚を絶対的な域までわかるはずも、ない。
けれど。
ならば。
「……、下らねえ」
そんな理論だと、思うけれど。
せめて、彼女が計り知れないという自分の創で、痛みを感じる事の無いよう。
今よりもずっと、強くなろうと、思った。
( ひどく痛むこの胸は、彼女の痛みを感じ得ないからこそ )
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