ベルケンド行きの船の一室で、其れは続いていた。
 船内で出される昼食に文句の付ける宛があるわけでもなく、また文句を付けたところで結局如何にかしなければいけないからこそ、の目の前で下らない争いは続いていた。
 先程までいくらか和やかで賑やかな雰囲気は、船室を包むこの当人ばかりが真剣な睨み合いの所為で消え失せた。平穏こそ最も儚いものだとは痛感する。
 寝台の下段に腰掛けるの視界に映るに、船室の中央のテーブルに着く赤髪をぶら下げた二人の男。―――アッシュとルークは、用意された食事に入っていた人参を巡って押し付け合いなどという子供も笑うような子供っぽさを発揮していた。

 ……馬鹿だ。馬鹿が二人いる。

 は嘆息した。ティアがいれば、無理矢理にでも二人の口に放り込むことが出来たかもしれない人参の皿を見詰めて。
 ルークの偏食っぷりには予てから情けないことに定評があったし、アッシュの人参嫌いは蛸と並んで過去自分がどれだけ頑張っても破壊できなかった言うなれば鉄壁だ。二人とも食べられないわけではないのだが、出来ることなら避けて通りたいと常々思っているに違いない。だからこその現状だ。
 にしてみれば何が嫌なのかさっぱりわからないが、其れを言えばその皿が向くのは明らかに自分であろうから、彼等の為にと口を噤んでおく。だいたい、今満腹だし。

 そうして。
 暫時の睨み合いと一瞬の勝負によって、二人分の人参はアッシュの胃へと運ばれた。只でさえ苦手だと言うのに二人分の量というダメージ、当人にしてみれば相当らしく、そこまでかとが思うほどに難しいというか最早苦渋の域に達する表情で、アッシュは人参を咀嚼し嚥下した。
 向かいに座るルークの嬉しそう且つ勝ち誇った笑みというものは、アッシュに更なる怒りを生み出させたらしいが、ジャンケンで負けたのは自分だという自覚がちゃんとあるらしく、其れを表情には出すものの声にすることはなかった。けれど収まるものでもないらしく、

「……外の空気を吸ってくる」

 と未だ苦々しげな声で眉根の皺を減らさぬまま出ていった。そこまでくると、寧ろ哀れみすら感じるの心境であった。

「うーん、人参其処まで駄目かあ……。私の努力ってなんだったんだろうなあ……」
「努力って……たとえば?」
「人参ジュース作ったりとか、毎食人参攻めしたりとか、あと」
「も、もういい!……聞くんじゃなかった……!」

 想像したのか相当な青い顔でルークは止めた。人の努力を何だと思ってるんだ、と憤慨し、いつか人参攻めしてやろうと思いつつ、ふと昔のことを思い出して微笑う。

「?」
「いや、アッシュも昔はそんな顔して嫌がってたなって思って」

 寝台から腰を上げ、先程までアッシュが座っていた席に腰を下ろし、アッシュが去っていた扉に目を向ける。
 ルークの翠の双眸に映るの笑みは、今まで見た何よりも綺麗な其れとして映り、さながらフローリアンの面倒を見るアニスやナタリアを見守るガイに共通する『何か』が感じられ、其処に存在する共通点として一番最初に思い浮かんだ其れを天気でも伺うような気軽さで問うた。

は、アッシュの事好きなのか?」
「は?」

 は見事に固まった。
 何をほざいているんだこの実年齢七歳とちょっとのガキは。
 と思ったけれど、口には出さずに仕舞い込んだ。

「なんで?」
「なんでって……前からそうなのかなって思ってたし、今すっげえ綺麗に笑ったから」
「……ふうん」
「如何なんだ?」

 ルークが催促すると、は少しだけ困ったような顔で笑ってから、眼を伏せる。
 何かを懐かしむようで。
 何かを想うような。
 ほんの数秒、誰も犯すことの出来ない静寂の中で彼女は何かを想い、覚え、感じ、そしてその薄水色の瞳をルークに向ける。緩やかに細められた其れは、綺麗な弧を描く唇と同じく笑みという美しい表情を為す。

「ルークはティアが好き?」
「はぁ!? な、なんでそうなるんだよっ! 関係ねーだろ!!」
「そう? まあいいけど」
「流されたら流されたでムカつくな……」
「あはははは」
「笑うなよ!つーか話逸らすな!」
「逸らしたつもりは無いんだけどねえ」

 そんなに楽しそうに笑われては、外面は如何あれ内面は未だ年端もいかぬルーク、言葉を返せるほど器用ではなく、強引に話の筋を戻すしかない。其れに答えるといえば飄々とまるであの性格の悪い死霊遣いを思い出させて、其れもまた癇に障る。けれどそんなことで怒る程ルークも子供染みているわけでもないので、先程のアッシュさながらの我慢を通す。

「私はね、ルークも好き」
「は!?」
「多分ー……、世界で三番目くらいじゃないかな。それくらいは好き」
「あ、ああ、そういう……うん。……なんか好成績だな、俺」
「そだね、って言ってもスターと同位置だけど」
「…………。じゃあ一番と二番は?」
「二番目はアルバートとシグムント」

 あの蒲公英みたいな色をしたチーグルと同位置であることに、多少の落胆を覚え力なく問うたルークは、今度は其の答えに驚いた。てっきり二番目に自分の片割れの名か、彼女が最も慕う始祖の名が出てくると思っていたのだ。そして、一番に其のどちらかがくるものだと、確信していたのに。

「一番好きなのはユリア、ユリア=ジュエ。これは誰にも揺るがせない。誰よりも好き、大好きなユリア」

 そう断言するには、確かにそうなのだろうと納得させられるほど、其の感情に見合った表情が浮かんでいる。
 きっと、誰よりも好きで、大好きなのだろうと。
 実感する。
 けれど、それでは。

「……アッシュの場所、無くねえ?」
「あはは、好きランキングにはアッシュ入ってないよー」
「え、マジ!?」
「うん」

 あっけらかんと言って、はくすくす笑う。ルークにしてみれば何が可笑しいのかわからないし、だいたい何故アッシュが、あのアッシュが、このという女性の曰く『好きランキング』に入らないのか。それがあまりにも不可解すぎる。

「な、何が可笑しいんだよ!それにアッシュが入らないってお前」
「だって、アッシュは別だもん」
「別?」
「アッシュは特別。全然違うの。アッシュの事は好きじゃないよ」

「私は、アッシュを愛してる」

「好きなのは沢山居るけど、きっと私が愛せるのはアッシュしかいないよ。一番とか何も無いの、アッシュだけ、愛しているのはアッシュだけ」

 恥かしげもなく言い切り、ルークが眼を見開いているとは視線を合わせ、微笑んだ。なるほど、綺麗な笑みである理由がわかる。アッシュが如何想うにしても、の其の気持ちは変わることは無いのだろう。
  果たして、ルークと同じ顔の彼は如何想っていることやら。子供心の抜け切らぬルークでもわかることだ。
 アッシュだって、きっと、そうなのだろうと。
 なんとなく、確信した。




「…………」

 当のアッシュはというと、船室の前でとてつもなく気まずそうな顔をして扉に手を掛けたまま、其の会話を聞いていた。
 しばらく扉の傍で硬直し、大きな溜息を吐く。
 決して熱くなった頬を冷やす為ではない、と言い聞かせながら、甲板へ向かった。

( そんな、それだけの話よ )


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