目が覚めると、アッシュは何も考えず、ただただ視界に映る景色を見詰めた。見慣れた、見慣れてしまった天井。其れをじ、と見詰める。暫くすれば意識もはっきりしてきて、無心だった自分はいくらか思考を始め出した。

 こんなものを見慣れてしまうとは全然思わなかった。此処に来てからもう結構な月日は経ったけれど、そう思わずにはいられない。こんなことになると思わなかったし、なれるとも思わなかった。なろうとも思わなかった。

 瞳を閉じる。
 微かに熱を持っている体は、意識を不安定にさせる。そんなふらふらぐらぐらした熱の中で、思い出すのはやっぱり彼だったから、自分に舌打ちする。

 そのとき。
 ぱたんと扉の閉まる音とぱたぱたと歩く音が微かに聞こえた。いつもより控えめな足音だけれど、扉の音から隣の部屋の彼の足音だということがわかる。
 アッシュとアッシュが思い出していた彼の部屋は隣合っている。屋敷の別棟というか、屋敷からは中庭を挟んで孤立と言える状態にある。アッシュの部屋に一番近いのは彼の部屋だし、彼の部屋に一番近いのはアッシュの部屋だった。
 だから、彼の足音が短い間に、アッシュの部屋のすぐ傍から聞こえるようになる。そして、止まった。

 何かしらの用があるんだろう。暫く待てば、ノックがある―――いや、ないか。ノックをしろと何度も注意した覚えはあるが、あいつが守ったのは一度たりともない気がする。

 今回も突然開かれるんだろう扉を、重たい体を起こして見上げる。いつもは綺麗に後ろに流している前髪も、パラパラと少しだけ落ちてくる。これもいつもなら掻き揚げるはずが、熱とだるさでそんな気も起きなかった。
 扉の先を見詰めるけれど、いつまで経ってもノックの気配も扉が開く気配もない。それどころか、遠ざかるような足音がした。まだアッシュが眠っているものと思ったのだろうか。けれど、また足音。今度は近づくような。
 とどのつまり、彼はアッシュの部屋の前を行ったり来たりしているんだろう。

 ……手間の掛かる奴だ。
 入るのか入らないのか決めてから来ればいいものを。

「おい、」
「っ」

 盛大な溜息を吐いてから扉の向こうに聞こえるように大きな声で呼び掛けると、息を呑むような気配がした。部屋の前で立ち止まっているんだろう、足音は止まった。けれど、扉は一向に開かないし、ノックの音もしなかった。遠慮なのか躊躇なのか、彼にはそういう傾向があまりに気まぐれにあまりに多大にありすぎる。こんな風に間怠こい時もあれば、配慮の無さに呆れる時もある。今回は前者のようだ。

「用があるならさっさとしやがれ」

 先程と同じように、聞こえるように大きな声で言い放つと、遠慮がちに扉が開かれ、夕陽みたいな色をした髪がゆっくりと現れる。其の顔は俯きがちで、髪に隠れて表情はうかがえない。けれど、きっと罰の悪そうな顔をしているんだろう。
 確信に近い予想に、小さく舌打ちをする。そんな顔させたいわけではないのだが、性格上仕方ない。だいたい、そこまで素直に言葉を受け取らなくてもいいだろうに。
 そんな舌打ちは彼に届いたらしく、そして彼は先程まで部屋の前をうろついていたという自分の行いに対してだと思ったらしく、一度顔をあげて、また伏せた。

「あの、ごめん」
「……もういい。如何した?」

 自分は言葉の選び方が本当に悪いというか。ちゃちなプライドが邪魔をして適切な言葉を掛けてあげられない。優しくするのは癪だし、優しい言葉を掛けられるわけも無い。

「様子見ようと思って。大丈夫か?熱とかまだあるんじゃないか?」
「お前に心配されるまでも―――」
「嘘吐け、まだ熱あるじゃんか」

 言いながらアッシュのベッドに近づいてきた。未だ残る微熱とだるさを隠して答えようとすると、彼は当たり前のように、ベッドに右手をついて空いている左手でアッシュの頬に触れてくる。其れはひどく自然な動作。

「冷てえ」
「お前が熱いんだろ。……にしても珍しいよな、アッシュが風邪だなんて」

 その「珍しい」ことが面白いのか何なのかわからないが、彼は笑んでみせた。彼の言い分にアッシュは顔を顰める。其の間も、頬に手は添えられたままだった。微熱を持つ自分の頬に触れ続けられる彼の幾分冷たい手。

「大丈夫か?やっぱり辛いんじゃないか」
「―――そんなことより、ルーク」

 黙りこんだアッシュに彼はそう声を掛ける。心配そうに顔を歪ませて。
 それがどうしてだかひどく嬉しかった。
 だからかどうかは自分でもわからないが、珍しく彼の名で彼を呼ぶ。彼は―――ルークは珍しく名前を呼ばれたことに驚いたのか、眼を丸くしている。好都合だとアッシュは添えられていたルークの手を取り、空いている手を彼の後頭部に添え力を込める。自分も少し身を乗り出す。予想外だったらしく、力なんて何処にも入っていなかったルークは簡単に体を傾けさせてしまい、同じ形の唇が触れ合った。突然のことにルークはバランスを取ろうとアッシュの肩に手を添えた。
 状況を理解するのに相当時間を掛けてからルークは体を強張らせ、きつく眼を閉じアッシュの肩に添えた手に力を込めた。其れまでの隙をアッシュは逃さず、舌は開いたままだった口内へ簡単に侵入を果たした。逃げようとする舌を絡め取るとくぐもった声が漏れる。

「っ、……は」

 いつもよりは短くすませた其れを終え後頭部に添えた手を離すと、ルークは反射的に少しだけ顔を離し肩で呼吸する。ルークの呼吸が整うまで無言で待っていると、未だ浅い呼吸をしたままルークは薄く眼を開けた。涙眼だった。

「何す、ん、だよ」
「さあな」
「……っ」

 口元だけに笑みを浮かべてアッシュが返答すると、ルークは尚も頬を染めた。それがまた可笑しくて、アッシュは内心笑った。取ったままの手は解かれない。

「病人が手ェ出すなよ」
「まともな看病も出来ないくせに、偉そうに言うな」

 言うと、む、と口を噤んだ。どうやら自覚はあるらしい。その様子がまたしても可笑しくて、とうとうくつくつと喉を鳴らしてしまった。笑われた彼は何が何だか理解しておらず、混乱気味だ。まったく、こんな天然が自分と同じとは、信じられない。確かに、自分達はまったく違う存在として生きていることを、こういうときに感じる。

 未だ混乱を続ける彼を引き寄せて、また唇で塞ぐと、先ほどより熱をもっているルークが殊更可笑しかった。

 いつかの自分から見れば其れは、歪に感じずにはいられないだろう思考。

( 気がついたら、こんな気持ちに )


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