そうだと自信を持って言えるわけではないが、今自分達が居るこの瓦礫はおそらくエルドラントの成れの果てだろうと思っていた。
タタル渓谷の延長線上にある芝に腰を下ろし、瓦礫に背を預け、見詰め合う様は。まさに鏡のようだと、ルークは思う。これで、彼がもう少し穏やかな表情をしてくれれば、という希望的な意見を入れてでの話ではあるが。
ルークにとって、此処に居るのは不思議でならなかった。
其れは、アッシュも同じらしい。
考え込んでいるんだろう、眉間に皺を寄せ眼を伏せる様は、自分と同じ顔にはとても見えない。抱き留めた時からいくらか降り始めていた前髪が、今では凡て降りていて、いつもの前髪を掻き揚げた彼をそんなに見ているわけではないけれど、やはり珍しく感じた。
……って、何観察してるんだ、俺は。
いつの間にか、じっと見詰めていることに気がついて、音もなく苦笑する。しかしどうしても視界に入ってしまうらしく、正面に居るアッシュに睨まれた。
「何がおかしい」
これで身体が動けばこんなに睨まれることもなかったのかも知れないが、乖離が進んでいる身体はそう簡単に動いてくれやしない。こんな小さな動作に其処までこだわることもない、とルークは其れを行わなかったわけだが。
「お前のことじゃないよ」
そこまで睨まれるのならやはり難しくても手で隠せばよかった、と少し後悔した。このまま睨まれるのも恐ろしいので、ルークは無理ない程度に話を変えようとする。
「なあ……、俺は乖離が進んで消えるけど、お前は如何なんだ?」
「…」
「一回死んでたお前が今生きてるのかも不思議だけど……」
「……」
「このまま、生き残るのか?」
「………」
「何か知ってるんじゃないか?」
「…………」
「だから―――」
「如何でも良いだろう、そんなこと」
しれっ、と返すその様に、ルークはむ、としてみせた。アッシュの眼に映るその表情はまるで子供のそれで、些か頂けないと思わせる。
「お前が知ってて俺が知らないって、ずるくね?」
「煩い」
「……」
また、子供のようにむくれた。アッシュはひとつ溜息をつく。
暫く。
ルークは黙った。アッシュにしてみれば、今この状況を整理するのに好都合だ。
この状況。
答えが見つかったとき、自分は其れを喜ぶのか、それとも。
「本当はさあ、」
この状況になった時から変わらず膝を抱いているルークが、呟いた。おそらく彼よりは自由が利いているアッシュは、思案の為に俯かせていた顔を上げてルークを見た。アッシュの眼に映るに、あまりに其れは小さく頼りなく見えた。
「ちょっと、わかってたり、する」
「……なんだと?」
「わかるんだ。多分、アッシュもわかってるだろ。……俺の離れていく音素がお前に溶けていくのが」
「…………くそったれが」
苦虫を噛み潰した顔で言うアッシュが、何に悔しがっているのかわからない。だから、苦笑して見せるに終えた。
じわりじわりと。乖離を続けるこの身体に宿っている音素は、ゆっくりと着実に、彼の許へ。それは、大方不幸なことであるとは、認識しているのだけれど。
何故だか、アッシュなら悪くないと、むしろ心地好いとすら思える。「何でかはわからないけどさ」と、こんな状況で笑みを零せるほどだ。
死ぬのは怖い。死にたくない。消えたくない。生きていたい。
そう思っているのは、願っているのは真実だ。それなのに、それなのに、何故こんなにも穏やかでいられるんだろう。
「なんか、さ」
「何だ」
「お前から沢山奪ってきたお前に、与えられることが出来るみたいで、嬉しい」
おもむろにアッシュが立ち上がった。目線だけで其れを追うと、彼はルークとの距離を詰めて、真正面で膝をついた。表情が、よく見えない。ただひたすらに紅い髪だけが、見える。
ああ、なんて綺麗な。
紅の、聖なる焔。
眼にするだけで、胸が焦がされた。
「どうせなら最後まで奪っていけ」
「?」
そんな感覚に浸る間もなく、彼の形の良い唇から紡がれた言葉に、何を言うのかと眼を剥いた。
「なに、」
「―――スピノザの野郎にもっと詳しく聞くべきだった。音素の放出現象など、一端に過ぎねえじゃねえか」
ルークの言葉を遮っておいて、アッシュは顔を背けて独り言を呟いた。勝手な奴だと思う。とりあえず、何のことだか理解できないけれど、其のことで顔を顰めているらしい。
……いつも顰めてるけど。
「なあ、アッシュ。教えてくれ。ほんの少しでも、お前わかってるんだろ?」
「……」
「……此処まで来てだんまりかよ、あーもー……いいや、なら。無理強いするつもりもねえし」
「……やけに素直だな」
「素直っていうか、何ていうのかな。多分、どっかで解ってたんだと思う。だから、ていうか、寧ろ、嬉しいんだよ、俺」
どこか。
頭の、心の、
彼と繋がっている意識の、何処かで。
わかっていて、理解していて、
だから、尚更、きっと、そうなることが。
そう出来る、そうして、生きることが。
「……っ!言っただろう!」
胸倉を掴まれて引き寄せられて、無理矢理立たされた。急に近くなったアッシュの顔は、如何してだろう、怒っていて、まさに逆鱗に触れてしまったような其れで、……でも、それでも、
如何してだろう、
悲しく見得た。
「あ、しゅ……?」
「一貫しやがれ!今更……、今更こんな、償いみたいな真似すんじゃねえ!!」
「つぐない、って……、だって、俺は、」
「誰がこんなことしろって言った?俺はこんなこと望んじゃいねえ!奪うんなら……、奪ってきたんなら、最後まで、奪えっ!お前が俺に与える機会なんぞ作るな!!」
瞳が揺れているのを、ルークは見た。
何故か、其れが嬉しかった。
けれど、口には出来なかった。
「お前が何って言ったって、俺はお前に『生きて』欲しい」
「黙れ」
「わかるだろ?変えられないんだ。絶対なんだ。俺が望んだ世界で、お前が残って、俺が消えて、お前が生きることが」
「……っ!」
ああ、泣きそう。
アッシュが生きてくれることが、こんなに嬉しい。
死んでしまうことは、悲しい。
でも、きっと、俺はアッシュの中に残っていられるから。
それは、とても、幸せな、こと。
「なら、どうして泣く」
「だって嬉しいから」
「……屑が」
「何言ってんだよ。アッシュだって、泣きそう、だろ?」
「泣くか」
「じゃあ多分俺が代わりに泣いてるんだよ。二人分」
俺はもう、
泣くことも、出来なくなるけど。
揺るがない。
其れが摂理だ。
其れは真理だ。
何にも、誰にも。
きっとローレライにだって。
解っているからこそ、揺るがない其れだからこそ、
泣きそうな、否、泣き顔で笑っているようなこいつに、苛立つ。
「贖罪なんかじゃない。俺の願いでもあるけれど。でもこれは、事実なんだ、アッシュ」
「……」
「アッシュが生きて、アッシュが『ルーク』として、皆のところに、帰るんだ」
「……黙れ」
「お前がどれだけ嫌がったって、……俺の事、嫌いだからって、それは」
「煩ぇ!黙りやがれ!!」
ルークの言葉は封じられた。決して其れはアッシュが声を荒げたからではない。物理的に其の方法を止められたのだ。
互いの柔らかい部分が触れて、塞がれて。
思いのほか自分の身体が冷えているのを、相手の体温が一方的に強く伝わってくる事で感じ、ルークは身震いをした。
それでも意識が向かうのは其の紅に向けてだけだった。ただひたすらに赤い紅。この世でただひとつの其れを、如何して愛しく思わず居られようか。
綺麗。
きれいな、ほのお。
このまま消えて行けば、再びと其の紅に見える事は出来ない。それは確かに、悲しく恐ろしかった。其れも合わさっての身震いかもしれなかった。
離れた途端にぐい、と身体を引かれて、アッシュの胸に顔を押し付けられた。それが抱き締めるという行為だという事に気づいたのは、数秒たって、アッシュの声が頭上から聞こえてきてからだった。それまでの時間というのは、長く長く感じられさながら永遠。
「今は―――」
おそらく今は。
あの頃程憎らしいとは思わない。
あの時程疎ましいとは思えない。
もっと違って、おそらくそんな悪とするような意識や思想ではなく。
けれど、其れを其れと自覚してしまうのは怖い。
だから飽く迄否定の形をとって言葉にするのだ。
されど其の象徴のような行為をして止めるのだ。
奴の言葉をただ聞くだけでいると頭が痛くなる。
「―――嫌いでは、ない……」
ルークが聞き取れたアッシュの声は、あまりにもあまりにも小さな声だった。おそらくルークがこの距離で居なければ聞き得る事は不可能だっただろう。
ああそうか。
だからこんなにも。
こんなにも嬉しくて、こんなにも泣きたくて、こんなにも、怖くない。
そうだ、俺は。
「なあ、アッシュ」
「……なんだ」
「俺さ、アッシュのこと、好きだよ」
「……」
「だから嬉しい……。俺は、もう消えちまうけど、こんな風に此処で消えるなら、悪くないって思ってる―――
―――終わりが、アッシュの腕の中で、よかったって思ってる。
だから、ありがとな。アッシュ。こうしてくれて、ありがとう。嫌いじゃないって言ってくれて、ありがとう。……ありがとう」
俺は、もう消えてしまうけれど。
お前は生きてくれるから。
俺が夢みた、夢の中でしか想えなかった幻のような世界を。
お前が生きてくれるから。
「生きる」
「……?」
「『生きて』やる。お前が望んだ通りに」
「……そっか。……じゃ、約束な」
「―――約束、だ」
軽くなっていく身体も、薄くなっていく感覚も、途絶えそうな意識も、
すべてが、彼が紡ぐ言葉が、愛しい其れだととわかっていたから。
「ルーク」
「ん……、なに?」
だから、たとえ届いてこなかったとしても、次の言葉は理解していた。
「…… 」
大好きだよ、アッシュ。
言葉を紡いでしまうと。
目が覚めた。
其の手には何も残っていなかった。
何も。
何一つ。
じ、と手を見詰める。見詰めたところで何も帰ってこない。あるのは実感だけ。ただ自分達は一つに為り得たという実感だけ。
それは、確かな、悲しみを伴って。
「……約束、だからな」
自分と彼との、誰よりも自分への誓い。
少しでも、君の居ないこれからの日に、強く居られるように。
彼―――ルークは月明かりの下を歩き出した。
君がみた世界という名の夢を『生きて』いこう。
( 生きていく為の十字架を )
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