家の前に着いて、アッシュは溜息をひとつ着いた。部屋の灯りがついていたからだ。勿論生真面目と評判のアッシュが、灯りの消し忘れなどするわけもない。だから、これはそんなありがちで日常的な、気の抜けた理由ではないのだ。

 またか……。

 溜息を付くと同時に抱えていた頭を上げて、もう一度確認するに、また溜息を付いた。全く、如何して、毎度毎度こうなのか。自分は決して過度なことはしていない。真面目にしていればまず問題ない程度だったのに、如何してこうなっているのか。
 為っていることはもう仕方が無い。そう割り切って、アッシュは、自分が灯りを消し忘れたという微かな希望に縋って、鍵を指した。
 希望も儚く、鍵は開いていた。

「おかえり、先生!」

 予想通りの少年が、其処に居た。予想が的中してしまったことにアッシュは落胆して、大きく溜息を吐いた。

「……?」
「なんでもない」
「そうか?あ、今コーヒー淹れるから!」

 少年は短い夕陽色の髪を揺らして、駆けて行った。
 彼の名前はルーク・フォン・ファブレ。十七歳高校生二年生。苦手な科目は数学と物理。……というより、どれも大したできではない。
 何故そんなことまでアッシュが知っているかというと。
 彼はアッシュの生徒だからだ。








 端から見ると如何映るのだろうか、とアッシュは悩んだ。高校教師の家に、そいつの生徒が臆面も遠慮もなく、我が物顔……までは言わないが、とにかく、勝手知ったると言わんばかりにコーヒーメイカーを使う様は。

 如何見ても、普通の関係では無いように映る。

 何度も想像した事を反復して、アッシュは溜息を吐いた。
 背広を脱いで、ソファにかける。振り向くと夕陽色の髪がぴこぴこ動いて、忙しない。
 向き直ってソファの前のテーブルを見れば、参考書とノートが広げられていた。ネクタイを外しながらノートを手に取ると、コロコロとシャーペンが転がって行く。ノートには何度も消した跡があるが、結局頁の丁度半分から下は白いままで、参考書から写したらしい問題文だけが並んでいた。アッシュは其れに溜息をついてから、頁を捲った。いくつか問題は解いてある。無論、壮絶な消し跡を伴って。問題文を目で追って、その下の計算過程に目を走らせると、アッシュは六度目の溜息を吐きながらソファに座り、ノートをテーブルに放った。

「先生、コーヒー淹れたぜ!」
「……ああ」

 カップを受け取って、一口飲む。脇でルークはじっと其の様子を見ていた。いつものことなのだが、アッシュにすれば何をするにも見詰められているのはちょっとした障害だ。しかし子供相手にそう言うのもなんだか大人気ない気はするし、第一、彼が自分に興味を持っていることは少なからず悪い気はしない。
 喉を滑り落ちると、アッシュはルークを一瞥して言った。

「薄い」
「うげ、こないだ濃いって言ったから薄くしたのに!」
「薄すぎだ屑。加減を知れ」
「屑って言うなって!お前教師だろ!」
「確かにそうだな。ならお前は、教師を『お前』と呼ぶのか、馬鹿野郎が」
「うぐっ……、先生だからいーんだよ!」

 如何いう理屈だ。と思うが、これ以上続けても意味は無いので、アッシュは無視しておいた。そしてノートに眼をやる。もう一度問題文を読んで、解いてある答えと見比べる。ルークはアッシュの隣に座って、じっと待っていた。

「一問目から間違えている」
「え、うそ!」
「こんなくだらねえ嘘なんか吐くか。二行目、見直してみろ」
「うう…………、なんで?」
「xの置き方が違う。よく見てみろ」
「……うわーお」
「やり直せ」
「はい……」

 渋々、という表情で、ルークは転がっていたシャーペンと消しゴムを拾い、じっとノートを見詰め始めた。ルークは別に頭は悪くない。一度基本を叩き込めれば応用が利く場合が多いし、間違いを指摘すれば其処から自力でいけることのほうが多いし。ただし、基本を叩き込むのにかなり時間が掛かるし、間違いに気づくのにも時間が掛かる。自分で気づかない場合が殆どだ。だから、新しいことを教えるたびに引っ掛かって抜けるのに時間が掛かるのだ。其処さえ治れば、アッシュがこうして教えることも、アッシュが課題を出すたびに彼がこうして訪問する事もないのだが。

 だいたい、ガイの野郎が勝手に鍵を渡すのが悪い……。

 同僚であり親友である物理教師を思い出して、アッシュはもう何度目かわからない溜息を吐いた。ぐしゃぐしゃと髪を掻き、前髪を下ろす。

「出来た!」
「どれ…………。次、三問目、頭から違う」
「二問目は当たってんの?」
「奇跡だがな」
「先生口悪ぃ……」

 悪態をかわして、アッシュは二杯目のコーヒーに取り掛かろうとし、ふと思い立って時計を見た。二本の針の様子を見て、アッシュは眉間の皺を増やした。

「……いつから居た?」
「え? えっと……学校終わってすぐだから、五時ぐらい?」
「で、ずっとやってたのか?」
「いや、飽きて不貞寝してたら、先生帰ってきたか、ら……」
「ほう……不貞寝か」
「ち、違うって!昨日遅くまで起きてたから」
「お前今日HR寝てたじゃねえか」
「えーっとだからー……そのぉー……うう」

 アッシュはルークと一睨みしてから、コーヒーを淹れて、ルークの隣に戻った。何も言わないアッシュにきょとんとしたままルークは其の様子を見詰めた。

「五問目までは付き合ってやる。あと半分は自力でしろ」
「えー!」
「付き合ってやるだけ感謝しやがれ。大体これぐらい自分でやれ」
「わっかんねえよ、こんなもん!」
「威張るな。半分終わったら帰れ。ご両親も心配してるだろ」
「……わかったよ」

 わかりやすく不貞腐れていたが、アッシュは気づかなかった事にした。

( 気づいてなんてやるものか )


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