「ううう……」

 きっと自分は今までにないくらい青い顔をしていて、遠目で見ても「あいつ絶対体調悪い」と解るほどに違いない。そう確信出来るほど、ルークは酔っていた。
 ふらふらぐらぐらする頭が気持ち悪さを加速させていて、なんだか右も左もわからない。けれど、大勢の貴族が居るこの場でそんなふらふらするわけにも行かず、気力を以ってしてなんとかまともに歩いているという具合だった。
 沢山の人、匂い、声、色。
 全部が全部煩わしいものに感じられて、正直に言えば今すぐ此処を出て行くかしてしまいたい。けれどそんなことも叶うはず無く、ルークは懸命に此処に居るのだった。
 城内にあるホールでは今日、インゴベルト陛下の誕生祭ということで、大規模なパーティが開かれている。勿論、ファブレ家も参加しているのだが、ルークやアッシュは、きちんとした社交の場はこれが初めてだ。とどのつまり不慣れである。度の低い酒も、貴婦人だけならず紳士の嗜みでもある香水も、ルークにしてみれば初めてでは無いはずなのだが、何が如何して、其の匂いが凡て混ざってくると、もう―――最悪だった。
 言うなれば今のルークの状況というのは、人と酒と香に酔った、というものだった。
 かといって無断で帰る訳にもいかないし、伯父に顔向けすれば青い顔を見て心配されるだろうし。如何にかして帰る方法は欲しいのだが、どうにも出来ない状況だった。大人しくしていれば慣れるかも、なんて希望ももってみたが、悲しいかな、体調はどんどん悪くなるばかりだった。

 だいたい、こんな匂いを金払って手に入れるなんておかしいって……。

 此処に居る人間は殆ど位の高い貴族達で、相応に高級なものをつけているはずなのにこの匂いはなんだ。もしかしてそう思ってるの俺だけなのかな。俺ってこんなとこまで劣化してるのか?
 などと馬鹿げたことを考えながら、ふらふら歩いていると。

「あ」

 アッシュが居た。
 かといって如何ということもなく、自分の体調が良くなるわけでもないのだが、やっぱり見れるのは嬉しい。誰かと話をしているようだ。……女の人。

 ……いやなもん見ちまった。

 よりにもよって、アッシュが女性と話すところ。
 胸の辺りがぐるぐるして嫌な感じだ。
 言葉になど滅多にしないが、そういう感情を抱いてそういう関係になっているアッシュが、女性と話すのを見るのは、当たり前に、良い気持ちはしない。言い出したってしょうがない事だし、こういう場ならば尚更、しょうがない。だいたいアッシュと話す女性凡てに妬いていたのではこちらが疲れてしまう。

 ナタリアとかだったら全然平気なのにな。

 おそらく恋心と呼べる代物を、自分よりずっと前から抱いていた筈の彼女は、思いのほかあっさりさっぱり自分達の関係を祝福してきた。いや、いいことなんだけど。
 今日のアッシュは(自分もだけれど)当然ながら子爵の位置に相応しい振る舞いと出で立ちで、ちょっと見ると別人のようだ。ルークと違って着慣れている雰囲気すらある正装、三つ編みに纏められた長い綺麗な髪、清潔な白に包まれた長い指。似合っていると思うし、実際準備の際には見惚れてしまっていたのだが、いつもの彼ではない様子が如何にも落ち着かない。
 知らないアッシュを見ているようで、自分とはかけ離れているようで。
 疎外感というか寂寥感というか、とにかくそんなものを感じていると、アッシュが此方に気づいた。
 やっぱり、俺はすっごい青い顔してるんだ。
 そう自覚できた。アッシュの余所行きの丁寧な様子の顔の、其の眉間に、今しがた皺が彫られたのだから。
 けれども其処で「気持ち悪い」と口に出せるはずも無く、ルークは曖昧に笑って其処から離れる。人を相手をしていたのだからアッシュも追ってこないだろうから、心配されることはあっても問い詰められる事はない。そう決めて掛かって、其の場から離れようとした其の時。
 人込みの中、誰かに手を掴まれた。
 ぐい、と引かれる。
 誰なのか確認できないまま、もつれそうで人の足を踏みそうな自分の足をなんとか操って引かれる方へ歩いていく。
 誰も居ないテラスまで来て、漸く足は止まった。
 顔をあげて此処まで連れてきた相手を確認する。でも確認なんて必要ないんだ。
 手を取られたとき、既に誰だかわかっていたから。

「アッシュ……」

 恋しい愛しいその人だ。
 先ほどまでの優雅な仕草とは違い、乱暴に、でも彼らしい態度で、睨まれた。

「う…何だよ」
「何じゃねえだろ、お前こそなんだ、吐きそうな面して人から逃げやがって」
「べっ別に逃げてなんか……!」

 ぽつぽつと、雨が降り始める。答えに詰まったルークの頬を雨粒が打って、煩わしそうにルークは其れを拭った。

―――お前、話中だっただろ?戻らなくて良いのかよ」
「俺じゃなくても話し相手なんぞ五万といるだろ」

 そんなことない、とルークは確信する。もし自分であれば、アッシュと話すことは何よりも特別な事なのだ。言葉こそ交わさなかった、視線すら交わさなかったあの頃とは違う。自分は、ちゃんと、認めてもらえてると一番わかる方法だからだ。
 誰にとってもきっとそうだ。言葉を交わし、視線を交わす。それだけのことだけれども、それでも、其の他大勢よりは確かに誰かに存在を残せる事だから。
 つと黙っていると、アッシュは徐にルークの手を取った。気がついてルークが顔を上げると、ぐい、と手を引かれて、アッシュはそのままテラスからホールに戻ろうとした。

「アッシュ?ちょ、っおい」
「帰るぞ」
「へ、なんで?」
「そんな青い顔で歩き回れたら迷惑なんだよ」

 ルークが了承しないまま、アッシュは歩みを進めた。ルーク自身の反論も煩わしいはずの人込みも何の其の、アッシュの為に人が割れてんじゃねえのかとルークが思うほど、スムーズに城を出られた。足早に歩き去る二人に眼を丸くした兵が居た事に、二人は気づかない。
 ルークの手が離されたのは、結局ルークの自室についてからだった。離すとかそんな解放的なものではなくて、どちらかというと突き放すというべきか。とにかくルークはアッシュに引かれ、あるいは押され、寝台の上にボスン、と尻餅ついた。文句の一つも言ってやろう、とルークがアッシュに向くと、彼は勝って知ったると言わんばかりに見つけ出したタオルを投げて放った。アッシュの言わんとしているところがわかって、ルークは正装の胸元を楽にして、がしがしと濡れそぼった髪を拭いた。
 アッシュも同じように、けれど無言のまま、自身もかちっとしたやけに似合う正装を緩くして、落ちてきた前髪を掻き揚げる。

「今日はもういいだろう。父上や叔父上には俺から言っておく。さっさと寝ちまえ」
「……」
「? なんだ?」
「いや……」

 じっと見詰めるルークが気になったのか、アッシュは訝しげに問うた。それでもルークはじっと見詰める。ちょっとだけ、気になることがあったからだ。もしかしてもしかするのかなあ、と思っていたのだが、それならそれできっと口にすれば怒ってしまう。ルークは浮かんだ其れを大切にしまいこむ事にした。だから追及しない代わりに、言葉にすることにした。

「アッシュ」
「だから、なんだ」
「ありがとう」

 そう口にしても、アッシュに怒鳴られるだろうと思ったていたのに、想定されていた声は微塵も無かった。あまりにも意外で、意外だったものだから、ルークは反応に遅れた。言い訳をするならそれしか思いつかなくて、其の後目の前で起こったことを理解するにも、相当時間が掛かったのだ。
 だから、きがついたらアッシュが目の前にあった。

――
「……間抜けな顔だな」

 吐息が掛かるほどの距離で言われたのは罵りだったが、先の通り呆けたルークだったため、すぐには反応できなかった。
 えっと。
 えーっと……。

「なっ!?」
「遅ェんだよ、屑」
「ななな、だ、な、お前っ!!」

 不慣れな其れはルークの思考を止めるに事足りた。ルークは髪に負けないぐらい真っ赤になって、喚き、落ち着いたかと思えばその唇に触れてまた喚いた。想い合う同士であるのだから其れは当たり前の行為なのだが、初めてではないとは言っても、人生経験の少ないルークにとって、其れは赤くなるを得ない行為だ。さっきまで真っ青だったくせに、とアッシュが笑う。
 慌てふためくルークを見下ろし、アッシュは溜息を一つ吐く。なにやら不満そうだがルークがそれに気づくわけも無い。

「だって……うううう……」
「……もう寝ろ。明日も忙しくなる」
「寝れるかっ!」
「なんだ、興奮してやがるのか」
「!!!?!?!?!?!?」

 大袈裟過ぎるルークの反応をアッシュは鼻で笑った。其の反応がまた癇に障るのだが、何も言い返せずルークは不貞腐れた顔するだけだった。やたら子ども扱いして、ルークの神経を逆撫でしてから、漸くアッシュは去った。あんなにいじめられていたというのに、いなくなると寂しいのだから、自分はなかなかに末期だ。多分、アッシュも。
 先ほどの、ホールでの自分との違いに呆れてしまう。アッシュと居るとやっぱりそのままで居られて、酷い扱いを受けることも多々あるが、それはそれ、そういうのが自分達なのだと実感する。ホールで嫉妬していた自分が馬鹿馬鹿しい。素直でいられるのは互いで、互いがその場所であるのだから。きっと口にすれば「下らない」と鼻で笑われたのだろう。そうなるときっと自分はかちんと来るのだが、でも実際下らないのだから。

 優しくされると互いにくすぐったくてたまらない。だから大きなことは出来やしないけど、細々としたそれが一番心地良い。
 冷たくなったタオルを抱いて、一瞬だけ塞がれた唇をなぞって、ルークはまた赤くなって枕に伏せた。

 ああ、きっと幸せな夢がみられるのだろう。
 誰よりも幸せな夜なのだから。

( 安穏な僕らの愛しい日々 )


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