夏を目の前にした空気は心地よいものだ。鬱陶しい長雨も終わり、照り付けすぎない太陽とくすぐるような風が快適な世界をつくっていく。こんな都会でも窓を開ければ若草――もう夏草と呼ぶべきなのか、そんな香りが部屋を見たしていく。人々のざわめいが耳に心地よく、さわやかな風も相俟って眠気を誘われたぜロスは、それに身を任せることにした。
 が、決めたその瞬間にノックが聞こえるのだから、世の中というのはなかなか残酷である。その残酷の塊に生返事で応えると、深緑の髪を揺らしてが入ってきた。
「今から惰眠を貪るところだったかな?」
「聞き方に棘があるな……」
 声を潜めたというのに届いたらしく、彼女はくすくすと笑った。その笑い方は年齢に似合わずどこか少女の気配を備えていて、彼女が不満だろうがなんだろうが、品の良い少女の印象は否めない。
「どーした、俺様に愛あるご用?」
「ええ。とっても愛あるお知らせですよ」
 肩肘をついて、だらしない姿勢を少しはマシな程度に変える。といっても上体が少し起きただけで、体全体で言えばベッドに投げ出されたままだ。それを咎めもせずはゼロスの脇に腰掛けた。もう承知のことなんだろう。ふわりと彼女からやわらかい夏草の匂いがして、さてはまた散歩と称して外に出てきたか、とゼロスは推測した。
 彼女の散歩は文字通りのそれで、何処に行くのかわかったものでなく、しかも限度が無い。とりあえず、夕方までには帰ってくる距離を気ままに楽しんでいるようなのだが、そのうちグランテセアラブリッジの向こうまで行くのではないかと心配だ。流石にあれを超えてまで散策はしないだろうが。
 ゼロスにとってもっとも驚きだったのはがヒルダ姫とよろしくやっていることだった。特に苦手そうだとは思ってはいなかったが、まさかお茶を共にする仲になるとも思っていなかった。から訪問することは少なくないし、姫から手紙が届くのもしばしばだ。大方、数日中のスケジュールなんかでも書いてあるのだろう。わざわざ合わせるほど彼女達は時間を共有したがっていた。いや、むしろヒルダ姫がそう従っているのかもしれない。気さくに逢える友人など、数少ないのだろう。
「さっき陛下からの使いが来てた。明日しいなも連れ立って旧シルヴァラント領イセリアに向かってほしいって」
「ええ?俺様も行くのかよ…めんどくせえなあ」
「そんなこと言って、知らせを心待ちにしてたでしょう?」
「――」
 口を噤まざるを得ない。は読心術でも心得ているんじゃないかと時折思わせる程、こちらの気持ちを把握する。的確さもものすごい。そういう風にはまったく見えてないのに、いつの間にそんなに観察されたのかと驚かされるばかりだ。それでもいやな気分にならないのは、彼女の性格そのもののおかげなのだろうが。彼女は人の気持ちにとても敏感で、だからといって傷つき易いわけでもない。軸がしっかりしているのだろう。柄にもなく、大人だなと感じる。
「統一されてから初めてだものね。しいなもきっと喜んでるわ」
 やわらかく微笑んで彼女は言った。後に続けて、自分も付いていくという旨を添える。嫌だといっても連れて行っていくつもりだったから、むしろありがたいことだ。先ほどの言葉は、彼女自身にも当てはまる事なのだろう。久しぶりなのだから。殊更、はあのイセリアのちびっこ達が大好きであるし。
 ふと思うことがある。
 彼女が好きなもの、彼女の気に掛かるもの、そういうものに思い巡らせるたび、其の疑問は脳裏を掠めては、自分の中に降り積もる。しかし、口にするほど積もった時いつも居ないものだから、彼女が傍に居るときにはすっかり溶け切っている疑念。
 彼女は如何して此処にいるのだろう。
 だらしなかった体を起こし座りなおして、ゼロスは問うた。
「なあ
「なあに」
「如何して此処を選んだんだ?」
 彼女は何処へでもいける。テセアラやシルヴァラントの境がなくなった今、行きたいところ、住みたいところ、見たいもの、何処へでも。過去二つに分かれていた世界に囚われる事の無い彼女だからこその、選択の自由が存在する。帰ることすら選べたはずだ。つい先日まで、夢想とすら思えた彼女の世界。並ぶ事すらないその世界へ帰ることを、彼女は選ばなかった。踵を返し、此処へ戻ってきた。はじめの日と同じ、メルトキオのこの屋敷に。何故、と思わずにはいられない。
「此処じゃだめかな」
 ゼロスを一瞥してから彼女は言った。
「場所という意味での此処ではだめ。執着なんて欠片もない。それこそ、私は何処でも良かったよ」
 ただね、と彼女を付け加える。
 それは夢を仰ぐように。
 ただ其処に在るだけの様に、何かが高鳴った気がした。
「私もあの時いろいろ考えたの。何処に行こうか、何処で生きようか。でも、そんなことは…多分、くだらなかった。私にとってはね」
「――?」
「明日までの宿題」
「は。いやそこまで言っておいて、そりゃあねえでしょーよ!」
「だめです。さらっと言えるほど私も恥ずかしい人間じゃないもの」
 ここまで引っ張っていてこれだ。ああ、いつもこうなのだ。簡単に近づくくせに、自分の手札は見せない。だからといって、見せることを嫌がっているわけではない。此方を試す、といえば「言葉が悪い」と叱られてしまいそうだが、――そう、ほかの言葉にするのなら、彼女は何かしらの行為を求めているのだ。
 曰く、努力を怠っては何事も成就しないらしい。彼女はいつも、其の姿勢を崩さない。彼女を崩せる者がこの世にいれば逢ってみたい、と思ったが、思い直すとそんなものがいたらたまったものじゃないので、ご遠慮しておく。きっと自分は、其の日が来てしまうと、情け無い様になるのだろうと予想がつくのだ。
(そんなやつお断りだぜ…)
 そんないつ来るとも、来ないかもしれないことを考えて萎れるのも馬鹿馬鹿しいので、今は目下の問題に取り掛かることにした。答えが見つかるとは到底思えないのだがご褒美があるのなら、とりあえず頑張ってみよう。
「はあ、そんじゃ考えてみますよっと」
「うんうん。正解できたら、いいものをあげるよ」
「何くれるんだよ?しょぼいもんだったら許さねーぜ」
「そうねえ……ゼロスもきっと好きだと思うけど」
「とりあえず、期待しないで期待しておくわ、昼寝でもしながら」
「やる気ないじゃない、もー」
 適当に返すと起こられてしまった。適当に考えているわけでもないのだが、そんなヒントも何も無い問題より、相手にまったりと過ごす方が明らかに有意義だと思えるのだが。
 街の大きな喧騒も、すっと音を潜めている。世界中が昼寝してるようにゼロスには思われた。

 統合された世界に問題は尽きないけれど、是が如何して、当事者とも言えるゼロスとは平和だった。きっと明日にはまた、今日とは違う一日になって、毎日違う日々が続くのだろう。唐突に奇妙で、当たり前に普通な日々が。
 退屈ばかりが蔓延るこの街も、決して嫌いではないのだが。それでも旅はずっと楽しいのだろうと思い、身体を倒して午睡に浸った。
 夏草の匂いも君の声も、凡てこの手に収めて眠ろう。
 きっと明日も良い日だから。

( それは夢よりも淡く現よりも確かな予感 )


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