溜まっていた仕事を片付けた週末の夜ほど素晴らしいものはない。その理由は単純明快、翌朝の休みが確保されているからだ。休日と言う甘美な響きほど口内を満たす酒の肴になるものはない。それに加えて良い飲み仲間がいれば、求めるものは他にない。週末のバーはにそのどちらもを与えてくれるものだから、週末になれば通い慣れた道を辿ってバーまで行くのが彼女にとっての恒例であった。
 イタリアン・レストランで軽く夕食を取った後、繁華街の喧騒を抜けて路地裏の一つへ潜り込む。薄暗い通り道を抜けた先にあるバーは場所柄もあってか人の入りは多くないものの、喧騒と現実から解放してくれる穏やかな空間を求めるものは少なくない。週末となればそれは尚更で、ベルを鳴らしながら扉を押せば見慣れた常客でバーの中は適度な人数で席が埋まっていた。
 この店に通うようになって既に三年が経つにとっては、その常客の多くが顔見知りだ。店主のみならず客とも挨拶を交わしながら、彼女はカウンター席の一つに腰かける。そこは三年前から、彼女の為の席だった。
「隣、良いかしら」
「ああ、勿論だ」
 その隣に見慣れた男性がいれば、それは余計に。微笑む男性にも笑みを浮かべて彼女の席に腰を下ろし、羽織っていた上着を椅子の背に引っ掛けた。頬にかかる髪を払って肩に流せば、その間にもカウンターにカクテルの一つが鎮座する。マティーニはが常に注文をするそれだった。
 あら、と瞬きを一つ零し、次の瞬間には頬を綻ばせながら隣の男性へ視線を向ける。満足気に笑う男の表情からすべてを察知したは、カクテルグラスの縁を指でそっとなぞりながら小首を傾げて見せた。
「良いのかしら、甘えてしまって」
「そうしてもらわなきゃ、そいつが可哀想だろう? 君の為のカクテルなんだから」
 が腰を下ろして間もなく差し出されると言うことは、彼は予め店主に注文を伝えておいたのだろう。は週末の決まった時間に顔を見せるのだから、それに合わせてカクテルを用意することはそう難しい話ではない。男性の心遣いにありがとうと深めた笑みを返し、指でカクテルグラスを支えた後に、中身の半分ほど減ったそれを重ね合わせた。硝子のぶつかり合う涼しげな音が微かに響き、の口の中に強いアルコールが注がれる。広がる強い味を舐めるように飲んで唇を潤わせ、は笑みを携えたまま男性へと目を向けた。
「こんなことが出来るぐらいには、持ち直したみたいね」
 少しだけからかうような響きを携えて問えば、その瞬間に男の顔が罰の悪そうなものになる。隠した汚れを指摘されたような表情に、はくすくすと笑みを零した。
 こうして酒を酌み交わす中である男性――下手洋平とは、それこそがこのバーに通い始めて間もなく知り合った人物であり、一期一会でしかない客同士の関わりと言うには些か過ぎるほど長い付き合いをしている相手でもある。互いに連絡先を教え合うことのない二人の関係性は細い糸のようなもので、しかしながら繊細に編み込まれた糸の束は奇妙な硬さを有していた。
「相変わらず痛いところを突いてくるな、君は」
「仕方ないわ、貴方があんなに落ち込んだところなんて初めて見たんだもの。気がかりになるのも当然のことよ」
 プライベートな関係には至らない。しかし、互いのプライベートは知っている。酒精のかけた魔法の中だけで伝え合うことの許される言葉は、好きなだけ好きなものを晒し合うことの出来る、気の休まる空間であった。そしてと洋平は、互いに抱えた傷を見せ合うほどに近しい位置に立っている。彼女は、洋平の中にある生々しい傷の正体も当人から伝え聞いていた。
 一度聞いただけで耳の肥えた洋平の心を掴み取った、繊細で美しいピアノ奏者の存在。幾度となく重ねて行われたライブのことも知っているし、洋平が一方的に突き付けた三行半も聞いている。自らが犯したその行為に、他でもない彼自身が最も傷付いていることも。
 三年の付き合いの中ですら一度も見たことがないような洋平の痛ましい姿は、告げた言葉の通り酷く気がかりなものだった。この二週間ほどは週末でなくとも頻繁にバーへ顔を出しては彼を探してしまうほど、放っておくことの出来ない危うさを彼は内包していたのである。
 だからこそ、気持ちの整理がようやく着いたと言わんばかりに笑んでカクテルの一杯を差し出す洋平の姿に安堵を覚えたのだ。ころころと転がすような声で笑っていれば、洋平も苦笑を浮かべて僅かに肩を竦める。グラスの縁に少しばかり厚みのある唇を当ててそこをしっとりと濡らした後、洋平はグラスから離した唇を動かした。
「色々と考えるところがあってね。……海外に、行こうと思う」
「へえ、素敵じゃない」
 流浪のボーカリストと名乗る通り、洋平の歌声は多くの世界を渡り歩いている。それが楽曲内における話ではなく実際に世界を流浪するのであれば、どれほど美しい世界を飲み込んで行くのであろうか。素直な感想を答えれば洋平は苦笑を深め、それにも笑みを深めた。
 先ほど浮かべたものと良く似た、罰の悪そうな表情。酒精の魔力に魅せられれば、彼の表情は存外素直なものになる。
「怒られたそうな顔してる」
「……そんな顔、してたかい」
「それはもう」
 普段ならばその年齢に相応しいほどの成熟した味で持っての瑞々しさを堪能する男は、時折不意に未成熟な少年のような顔を見せるのだ。洋平だけではない、男と言う生き物はきっと、多くがそうなのだろう。不意に浮かぶ幼さは、成程女と言う生き物の弱い箇所をくすぐるものであった。
「貴方は、自分の選択を逃げだと思っているの?」
「いや、そうは思わない。……だけど、逃げじゃないと胸を張っても言えないところも、正直あってね」
 決してその名は明かされなかったものの、彼曰く“子犬のよう”だと言うピアノ奏者は彼の言葉から察するに、まさしく主人に対する子犬のように洋平へ懐いていたのだろう。だからこそ、突き付けた別離は洋平の罪悪感を塗り広げている。断罪を望む敬虔な信仰者のような表情で息を吐く洋平へ、はマティーニを舐めた後に言葉を傾けた。
「貴方の選択を逃げだと謗ることが出来るのは、貴方が捨てた子犬ちゃんだけよ。私は貴方の選択に、何の痛みも喜びも感じていないもの。だから私は、貴方を怒ってあげられない」
 洋平にとって惜しむべくは、が天使でも聖職者でもなかったことだろう。彼の懺悔をはどうすることも出来ないし、如何様にもする意思がないのだ。
「『真理はたいまつだ』とは、良く言ったもんだ」
「それもゲーテ?」
「ああ。『真理はたいまつだ。しかも、巨大なたいまつだ。だから私達は皆、目を細めてその傍を通り過ぎようとする。火傷することを恐れさえして』」
 彼の愛する詩人の言葉をなぞる顔は苦い笑みに溢れており、それにもほんの少しだけ困ったような顔で微笑む。火傷させてしまったかしら、そう問えば、苦笑がまた返される。しかしは、彼の瞳から真実を隠すような柔らかい薄布を持ってはいない。だからこそ、彼の望むものを与えることが出来なかった。
「子犬ちゃんのところに行って怒られて来るか、子犬ちゃんに会わずに自分で自分の心を苛めるか。それを選ぶのは私でも誰でもない、貴方自身よ」
 どちらにしても貴方は苦しいでしょうけれど、そう告げては先ほどから浮かべ続けている笑みを深くする。彼は既に、件の奏者と出会った時から苦しむ道を進むことが決まっていたのだろう。カクテルグラスを指でなぞりながら、茨の中を進む男性に息を吐いた。
 愛した音楽が、自らが関わることで崩壊して行く、その事実自体が洋平にとっては苦しみであったに違いない。崩れ変わる様を見届けることも、それに耐えられないと言う自らの我儘で切り離すことも、すべたが二人を傷付けている。
 何かと触れ合い、関わっている限り、各々の中にある世界に訪れる変化は避けられるものではない。ただ洋平は、子犬の変容に喜びではなく苦しみを覚え、そう感じる自らにも苦みを覚えた、言ってしまえばそれだけだ。彼の言う通りそれは洋平の身勝手なエゴに他ならない。彼を擁護するのであれば、エゴを抱き合う社会の中でその一点に罪悪を覚える必要はないと囁くことは出来る。しかし彼がそれを求めていないことを熟知していたからこそ、は進んで優しい言葉を選ばなかった。
「でも、『苦しみが残していったものを味わえ。苦難も過ぎてしまえば甘美だ』だったかしら」
「ゲーテの“格言”だな」
「貴方がよく教えてくれるから、覚えちゃったわ」
 代わりに傾けるのは、が洋平と関わったことで変化したその一部だ。詩人に触れたこともなかった世界はしかし、彼を愛する人物によって甘美な言葉が満ちるようになった。彼女の言葉に穏やかな笑みを零す洋平は、の変容に喜びを覚えているのだろう。子犬へのそれとは違うように、が洋平のそれに同じものを覚えているように。
「さっきも言った通り私は素敵だと思うわ、貴方の選んだ道。貴方が苦しいと思うことも含めて」
「へえ。で、その心は?」
「音楽のジャンルと言うだけじゃない、本当に世界を渡り歩いたら、貴方の世界はきっともっと豊かになる。貴方の苦しみもきっと、貴方の歌う声に還元されて行く。私は貴方の歌が好き、だから貴方の歌声がもっと豊かになって深みを増すのであれば、それを喜ぶわ。下手洋平の一ファンとして、ね」
 世界に溢れ返る美しいものへ、一つの星へ固執せず多くを渡り歩く様は、ともすれば軽薄だとも、執着心が薄いとも取られるのだろう。しかしは、多くの星の間を渡ってはその欠片を一つずつ飲み込んで行く洋平の歌声を愛していた。
 だから彼女は洋平に降り注ぐ喜びも悲しみも、満ちた愛で祝福する。洋平が飲み込み切れない星々の破片ですら、零れた光の一部も受け入れるのだ。
「一ファンとして、か。それじゃあ、君自身としては?」
「今みたいな貴方が一人海外に出るのは、少し気がかりかな。あと、こうしてお酒を飲む機会がなくなるのだと思うと、ちょっと寂しい」
 の言葉に洋平はようやっと、肩の荷が下りたような顔で笑みを浮かべる。成熟した大人のそれには甘える子供のような顔で笑って、素直な心根の一部を曝け出す。嬉しいことを言ってくれるねと囁く洋平にくすぐったさを覚えて笑い、はバーカウンターの向こう側に立つ店主へ声をかけた。注文するものは、カクテル二つ。間もなく出されたグラスの一つを洋平に差し出せば、笑みが深められた。
「良いのかい?」
「ええ。貴方の門出を祝って。そして貴方の旅路が良いものであるように」
 純度の高い白のカクテルは、究極の名を冠したものだ。グラスの縁をなぞりながら告げれば洋平の指が差し出されたカクテルグラスに巻き付けられ、の指も彼の動きを真似るように動かされた。
「そしてまた、友の愛に感謝を表して」
 の声に洋平の言葉が重ねられ、乾杯と囁き合いながら二人はまたグラスを傾け合う。長く重なったまま離れないグラスの縁は、まるで別離を厭う情人との口付けだ。一度離れた縁をまた鳴らし合ってようやくグラス同士を離して唇を濡らした後、と洋平はどちらともなく微笑み合った。
「祈ってるわ。貴方に与えられるすべてが、貴方の豊かさになりますように」
「俺も祈ってるよ。君に注がれるすべてが、君の光になるように」
 そうして心を通わせながら傾け合う別離の酒は、胸を焼くような味だった。

  • 心配はしてるよ、でも信頼もしてる