「ああ、今日はさん休みだよ。風邪だって」
「……は?が風邪…?」
 今にもゼミが始まろうという時間になっても現れないの行方を沖に尋ねたところ、当たり前のように返されたのが今の台詞だ。周囲の人間も今の沖の台詞に特に驚いた反応を見せないことから、この場でそのことを知らなかったのは俺一人だったらしい。あの傍若無人で自由気ままな人間が、風邪なんか引くのか。昨日だって勝手に約束を取り付けて勝手に反故にしたくらい図太い神経を持っている、あのが。
「っていうか、さんって身体弱いほうだよ?1年生の時も結構休んでて単位危なかったって……あれ、知らない?」
「いや……ゼミに入るまで、ほぼ面識なかったし……」
 沖の知っているという人間と、俺の知っているとの間になにか大きな隔たりを感じる。そしてそのことに俺は、なんとなく不満感を覚えていた。いやいや、どうして俺がなんて言う傍若無人な輩のことを知らないことに不満を感じるのか。人好きのする性格の沖のほうがとの付き合いもあって、彼女のことをよく知っている、ただそれだけの当たり前のことだというのに。
「そっか、ユイくんとさん、あのころあんまり接点なかったんだっけ。今がすごく仲いいから、付き合い長いのかと勘違いしてたけど」
「別に仲良くは!……、……別に、特別仲がいいわけじゃ、ない」
 反射的に反論しそうになって、俺は途中で言葉を飲み込んだ。一瞬だけ大きくなった声に、沖はまるで何かをわかってますよとでも言いたげな優しい笑顔で俺を見つめる。時折沖はこういう目で俺のことを見るが、なんかすごく馬鹿にされているか、あるいはすごく子供に見られている気がして、あまり良い気はしない。しかし、どうして沖がこんな目で俺を見るのかわからずにいるので、反論が出来ないのもまた事実なのだった。
「そうかな?ユイくんと喋ってる時のさん、すごく活き活きしている気がするけど」
「……気がしてるだけだろ」
「ふぅん……まぁ、ユイくんがそう言うなら、いいけど」
 沖が全く納得していないような顔で俺を見つめて、小さくため息を付いた。ため息を付きたいのは俺の方だと内心で思いながら、俺はいよいよ始まるゼミに向けて意識を切り替えることにした。


 何処かで俺の歌を聞いたらしいから突然、お前の歌には色気が足りないだの、堅苦しいだの散々言われ、「お前の歌をこの私が良くしてやる」なんて無理矢理居酒屋から連れだされたのは数ヶ月前のことだ。その晩以降、俺は事あるごとに呼び出され、レッスンと称するスパルタ練習をやらされるという迷惑を被っていた。しかしそれでも、の歌に関する知識の多さと指摘の的確さには感心せざるを得ない。沖や藤澤にも近頃は歌の調子が良くなっていると褒められたばかりだし、無茶にしか聞こえない要求も最終的には的確に俺の弱点を指摘し、克服させるための術を示していた。
 レッスン以外にもやたらと俺の飯だの健康状態だのにガミガミ文句をつけていたのことを考えれば、昨日のレッスンのドタキャンは俺に気を使ってのことだという可能性も出てくる。今日いきなり風邪でダウンしたと考えるよりも、昨日の時点で既に調子が悪かったと考えるのが自然だ。そうなれば、風邪を移さないために会うのを止めるのはレッスン中のを考えれば想像に難くない行動だといえる。昨日は突然のキャンセルに腹立たしさしか感じなかったが、こうして考えてみれば結局、心配されているのは俺の方なのか。
「……気付いてないのは俺だけ、か…」
 沖はのそういった優しさにも気付いていたのだろう。だけど俺は、苛立ちばかりを彼女に対して覚えていた。自分の捉えている枠組みの中でしか、彼女のことを判断していなかったのだ。そのことが尚更という人間を理解していないことの証のようで、寂しさと悔しさが胸に沸き起こる。
 他の人間が知らない、ゼミで見せる冷静だけど大胆で人好きのする以外の姿を知っていることを、レッスンで見せる意思を曲げない強さや知識と経験に裏打ちされた自信たっぷりな姿は俺だけが知っていることを、内心では驕っていたのかもしれない。俺はのことを人よりも多く知っていると、そう驕っていたからこそ、俺の知らないが沖から語られた時に、不満を感じたのだろうか。
「ガキか、俺は……」
 大きくため息を付いて、目の前のアパートを見上げた。いつの間にか足がの部屋に向かっていたことには途中から気付いていたが、それをやめようとも思わなかった。心配されるばかりの、面倒見られるだけの立場は気に入らない。それに、沖が知っていて俺が知らないがいるのもなんとなく気に入らなかった。そのことに気付いてしまったのだから、それを無視して閉じ込めるのはそれこそ自分に負けたことになる。
 アパートの眼の前にあるコンビニでスポーツドリンクと差し入れ諸々を買って、袋をぶら下げたまま階段を登る。考えてみればレッスン以外での部屋を訪れるのはこれが初めてだと思いながら、日当たりの良い角部屋の扉の前で立ち止まった。部屋番号の下の空白のネームプレートを見つめながら、鈍りそうになる決意を必死に押し留めて玄関のベルを慣らす。
「はーい…?」
 扉の奥からくぐもったの声が聞こえて、俺はぐっと拳を握りしめた。聞こえてくる声は掠れていて、時折聞こえる咳もゴホゴホと辛そうな音をしている。これが、俺がフィルターを掛けてずっと見ていなかったの姿だ。ゆっくりとした足音が扉の前で止まり、ゆっくりと扉が開かれる。
「……ただし?」
 周囲にユイと呼ばれ続ける中でただ一人、俺のことを「ただし」と呼ぶ声は、今日は掠れて力がない。その上、扉の隙間から覗いたはいつもの元気そうな顔とは対照的な、不健康そうな疲れて青白い顔をしている。
「沖から、風邪だって聞いたから…見舞いに来た」
「……え?は?ちょ、……何考えてるの!?」
 俺の言葉を咀嚼しながら、の表情はみるみる険しくなっていった。そして青白い顔のまま俺を睨み上げ、そのまま扉を閉めようとするが、そんなことは予測の範囲内だ。ドアノブを掴んでいるの手を素早く掴んで、すっと扉の内側に身体を滑り込ませる。
 普段より反応の遅いは、ドアノブから腕を引き剥がされても抵抗しなかった。もしかすると、抵抗できなかったのかもしれない。掴んだ腕から伝わる体温の高さに、俺は思わず顔をしかめる。後ろ手にさっと扉を閉めると、強引ながらもさっさと靴を脱いでを部屋の中に引き込んだ。
「って、こら、ただし!?いいからさっさと帰れ…」
 声を張ろうとしたが派手に咳き込む。俺はその細い背中を撫でながら、咳がおさまるのを見計らってベッドまで強引に腕を引っ張る。部屋の隅に置かれているベッドはさっきまで寝ていたことが丸わかりの乱れ方で、そこに彼女を強引に押し込んで赤い顔のを見下ろした。
 そしてまた文句を言おうとするを制して、手に持っていたビニール袋の中から買ったばかりのマスクを取り出して目の前でつけてみせた。俺の行動にぽかんとした表情でこちらを見つめるは、今までの俺の知らない初めて見る姿だった。
「この部屋にいる間はマスクしてるし、家で手洗いうがいもする。だから俺に風邪を移す心配なんかしてないで、少しは自分こと考えろよ」
 買ってきたスポーツドリンクを目の前に差し出すと、は気の抜けた表情のままペットボトルを受け取り、それをただ呆然と両手で握り締める。暫くじっと俺の顔を見つめ続けた後、は目を伏せて小さく笑った。
「そこまでして部屋に見舞いに来たいほど、私のこと心配だった?」
「……一応は心配してるけど、がちゃんと健康管理できるのも知ってる」
 のペースに振り回されずに見ればちゃんとわかる。俺はニヤニヤと楽しそうに俺を見ているから目をそらさずに、じっとその目を見つめた。熱があるからか少しだけ潤んで赤くなっている目は、どうやら見つめ返されるとは思っていなかったようで、驚いたように見開かれる。
 熱も出して確かに青白い顔をしているが、それでも自力で動くことはできるようだし、医者に行って薬を飲んでいることもテーブルに広げられた薬剤シートで判った。適度に加湿された室内、キッチンに置かれたしょうがと、おそらくお粥が入っているだろう小さな土鍋。は一人でも十分に現状に対して最適な行動を取ることができる。そしてそのことを俺は知っているし、その点に関しては信頼もしている。
 そもそも俺の健康に口を挟むが、自分の病気でへばっているはずがないのだ。自分のことを棚に上げるような行動はしない人間だと、短い付き合いでも理解していた。だから俺はここに見舞いに来たのであって、看病に来たわけではない。
「俺はただ……もう少しに自分のことを考えて欲しいと思ったから、来たんだ」
 が昨日俺とのレッスンをキャンセルしたのは、俺に風邪を移さないためだ。そのキャンセルの理由を自分が風邪を引いたからだと言わなかったのは、きっと見舞いにこさせないためだ。それらは結局全部、俺のことを考えての行動に他ならない。はいつだって、自分勝手に振舞っているように見せながら、その実俺のことをずっと考えてくれていたのだ。
「俺のこと心配する前に、自分のこと心配してくれ。それだけ言いたくて来たんだ」
「……なにそれ、ただしくん、おもしろい」
 は笑った。その笑みはやっぱり見たことのない、しかし多分素に近いの笑みだった。くつくつと笑いながら枕に頭を預けたは、寝転んだまま改めて俺のことを仰ぎ見る。その視線は何の含みもなく、純粋にただただ俺のことを見つめていた。
「ていうか気付くの遅いー!ただしの最大のネックその一人でぐるぐるするとこでしょー、その上にさらに小さな問題山積みなんだから、根っこの問題くらいさっさと解決してくれないと!」
「言ったそばから俺の話かよ!」
 思わずため息を付いた俺に、は楽しそうににやりと口元を引き上げた。そして、まるでそれを聞いた俺の顔が徐々に朱に染まるのを見越したかのように、意味深な微笑みを浮かべたまま、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「いーでしょ、それが私のためなんだから」  

  • 心配はしてるよ、でも信頼もしてる