決して広くはないワンルームからは、手狭な台所に立つ姿がよく見える。忙しなくシンク台の傍をうろついては手を動かす後ろ姿を見ていると相手だけを働かせている状況へ申し訳なさが浮かぶのだが、手伝おうかと言う申し出は既に幾度となく投げられており、今のところそれらすべてが断られている。二人で立てるほど広くありませんから、お客さんなんですから、ゆっくりしてもらえるのが一番ですから。手を出そうとする度に返される断り文句がすべて違うところが、また小憎らしい。何より家主の言葉を強く押し切ることも出来ず、唯は座卓に肘を着いたまませかせかと動き回る後ろ姿を眺めることしか許されていなかった。テレビなどと言う娯楽はこの部屋にない。倹約を第一とする下宿生の家にそのような贅沢品など、あろうはずもなかった。
「ゆいさん、お茶いります?」
「どっちでも。お前が飲むならもらう」
 洗い物を片付け終えたが振り返りながら首を捻り、それに小さく笑って答える。まるで彼女の判断に一任しているように振舞っているものの、彼女の口の中では飴玉大粒の飴玉がころころと動いているのだから、飲料物の必要性の有無など問いかけるまでもなく。もう、と唇を尖らせる稚い姿に、また笑みが零れた。
「ゆいさんのそう言うところ、良くないですよ。たまには甘えてくれないと」
「飯作ってもらった時点で、もう甘えてるだろ」
「この程度で甘えてるなんて言われたら、普段の私なんてどうすればいいんですか。甘えてるどころか、ゆいさんに寄生してるレベルですよ」
「自分のことを茸か何かみたいに言うなよ……」
 必要以上の出費を嫌い、倹約生活が染み付きすぎているきらいのある彼女がわざわざ自ら他人に投資したのには理由がある。危なっかしすぎる食生活を見ていられなくなった唯がへやれ食堂の昼食だ、やれ外食だとタダ飯と言う名の餌付けを続けた結果、「たまには奢らせて下さい」と唯の行動によって浮いた食費が彼に還元されることと相成ったのである。
 しかし食費と光熱費と手間をかけさせた食事を出されて、そのまま好意に甘えられる唯ではない。その礼としてまた唯が食事に連れ出し、そればかりでは悪いからとが夕食を提供する好意が飽きることなく続いてしまい、結果としてこのような状況が生まれてしまったのである。
「別に、好きでやってることなんだ。気にしなくていい」
「じゃ、ゆいさんも気にしないで下さい。私だって、やりたくてしてるんですから。本当に出費がヤバかったら、もう申告してますよ」
 唯がを食事に誘っているのも彼の意思であり、謙遜の必要性があるものではない。唯がから与えられるものとは違って。しかし彼女は穏やかな笑みで気付けば唯を押し切り、結局は湯を沸かし始めている。そうと感じさせない強引さに瞳を瞬かせた唯は、緩く息を吐くと「悪い」と呟いた。
「ゆいさん。私、謝られるようなことはしてませんよ?」
「……ああ。ありがとう」
「はい、どう致しまして」
 湯が沸くまでの間は手が空くからだろうか、台所に立ち続けていたは唯と向かい合うように座卓の前へ腰を下ろすと飴玉を転がしながら「これのお礼です」と笑った。些細な菓子ですら進んで買うことのないにとっては飴玉の一つですら貴重な嗜好品のようで、唯が渡せばまさしく蕩けるような顔をして食べ始めるのだ。偶然持っていた喉飴が切欠ではあったものの、ただの甘ったるい飴を持ち歩くようになったのはそれに魅せられてしまったからに違いなかった。
「その程度で喜ばれてもな」
「喜ぶ基準は人それぞれってことですよ」
 食後の口直しにと飴玉を渡しただけでこれほど上機嫌に笑みを零されるのだから安上がりだと苦笑せざるを得ないものの、そんな些細なことで喜ばれてしまうからこそ、菓子を持ち歩く癖が付いてしまったのである。しかし今日渡した分で最後の一個だったはずだから、帰り際にコンビニで何か買っておこうか。の口の中で忙しなく動く飴玉と、それを動かす口の動きをぼんやり眺めながら考えていると、視線を向けられていた娘はそれに照れることもなく首を捻った。
「……あ、もしかしてゆいさんもお茶より飴でした?」
 ただ何の気もなしに眺めていたのだが、にはそれが物欲しそうな目のように映ったらしい。湯を止めるべきだと判断したのだろうか、腰を上げかけた彼女へ「いや」と苦笑しながら首を振ると、僅かに力を込められた脹脛はすぐに絨毯の上へ落とされた。
「お茶でいい。それに、飴はそれが最後だったしな」
「そうだったんですか? 最後の一個なんてもらったら、何だか悪いような……」
 ついでに湯冷ましでも作るつもりなのだろう、薬缶の中に入れた水の量は中々多いようで沸き立つ水は沸騰の兆しすら立てていない。小さな音だけが零れる室内では唯の言葉に瞳を瞬かせると、まるで何でもないことのように問いかけた。
「そうだ。ゆいさん、食べます? 食べかけですけど」
「っ、お前は何言い出してるんだ!!!」
 薬缶の水よりも唯が沸騰するようなことを。
「大丈夫、虫歯菌は一切持ってませんから! 五体満足で視力も歯も内蔵もすこぶる好調、病院要らずの身体なんですよ」
「そう言う心配はしてない!!」
 その上彼女は、自分の提案をまるで何でもないことのように扱って笑っているのだ。食べかけの飴の譲渡など、その方法など数えるほどしかないだろうに。一体どう言う環境で育ったら涼しい顔でそれを提案出来るようになるんだと頭を抱えたくなったものの、沸騰寸前の思考回路は冷静に機能しそうにない。瞬間的に熱を持った頬をごまかすように掌全体を顔に押し付けると、その隙間から恨めしげにを睨み付けた。お世辞にも愛想が良く柔和とは言い難い顔に睨まれても、彼女は憎らしいほどにけろりとしている。
「あのな、。……そう言うこと、あんま軽々しく口にするな」
 親しい友人からは面倒見が良いと、お人好しだと評されることも少なくない唯だが、彼女に関してはただの善意ばかりで動いているわけではない。そうでなければ、どうして二つも学年が下の異性を一々食事へ誘いかけると言うのか。
「あら失礼な。人を阿婆擦れかビッチか尻軽みたいに言わないで下さいよう」
「あとそう言う単語をぽんぽん言うな」
 更に言えば、も善意だけで唯へ食事を提供しているわけではない。一人暮らしをしている女性の家へ異性を上げるなど、それがよほど信頼出来る相手であるか、そこで起こるであろう可能性をすべて享受しているかのどちらかでしかない。そしてにとっての自らがどちらかと言えば後者に当て嵌まる立ち位置にいることを、当然ながら唯も把握していた。そうでなければ、彼とて彼女の家の敷居を跨ごうとは思わない。
「もう、ゆいさんてば文句多いですよ」
「誰が言わせてると思ってるんだ、誰が」
 あのような言葉を投げかけられて、意識しないわけがない。色が濃いわけでもなければ化粧品の一つも施されていない唇はどちらかと言うと乾燥気味で、お世辞にも男を誑かす魅力には溢れていると言い難い。しかし、そこが薄い色素から与えられる印象に反して存外熱っぽいことを、唯は知ってしまっている。あからさまな振舞いだとわかりながらも深夜子から顔を背けると、不満げな声を上げられた。それでも唯は、唸る声が言外に伝える要望へ答えられないでいる。
「……頼むから、こう言う状況で言わないでくれ」
 誰からの邪魔すらも入らない空間で、収まるべき関係に収まった異性だけがいると言う状況で投げられた言葉は、にとっては何でもない提案であっても唯からして見れば強烈な毒なのだ。懇願するような声に短くない沈黙が続き、薬缶の中で粟立つ音だけが僅かに聞こえる。ようやく少しだけ、水が温められたようであった。
「もう。女の子にこんなこと言わせたら駄目じゃないですか」
 ただし、水以外に温められたのは一体何であったのか。呟かれた声に思わず掌から顔を上げれば、唯をじっとりとした視線で睨み付けながら、薄い唇が不満げに尖らされていた。
「誘ってるんですよ。わかりません?」
「っ、だから!」
「だから。飴、食べます?」
 惜しげも恥ずかしげもなく紡がれた言葉にまた頬へ熱が向かうものの、それは羞恥だけで作られたものではない。些か乱暴に突き付けられた誘いかけへ波打った感情と素直な欲望が零れた結果の熱を奥歯で噛み締めて堪え、しかしそれでも零れた衝動のまま身を乗り出して彼女の肩を乱暴に掴んだ。
「だから、……そう言うのは程々にしておいてくれ」
 鼻頭がぶつかる直前で顔を止めてそれだけ呟くと、返答も聞かずに飴玉を掻っ攫う。湯が沸騰するまでの短い残り時間、燃える火の音に混ざって唇と歯のぶつかりあう音と、もう一つ、小さな音だけが僅かに鳴った。

  • からり、レモン味の飴の音