絵になる人というのは不公平なことに存在する。例えば、同じ大学の三年生、天才と誉れ高き神藤天輝なんてのがそうだ。フランス人の祖父から受け継いだ柔らかな金色の髪、周囲の目を惹いてやまない美貌、そして何より、コンクールでも軒並み優勝していく天性の、そして彼自身が磨き上げたヴァイオリンのセンス。彼の努力以外は、神様に嫉妬せざるを得ない。一度彼の演奏を聴いたが、の耳はびっくりしてしまって、暫く動けなくなったものだ。美しい旋律というのは、きっとああいうのを言うのだろう。
 そんな彼の周りには、よくよく取り巻きがいる。あの顔で女が寄らない方がおかしい。はその様を、いつも遠くから見ては、疲れそうだななんて感想を抱いていた。結局のところ、世界が違うというやつである。
 けれど何故、どこをどうしたのか、彼の世界と彼女の世界は出会い、なんのかんのといううちに親しい関係と言える程度になっていた。
「てるくん」
「ああ、さん」
 バイト上がりに図書館で待ち合わせて、一緒に課題をこなす程度に。そして、名前で呼び合う程度には、である。
「ごめんごめん、待たせたよね。忙しいのに」
「いえいえ、今日はこのために時間をとっていましたから」
 何がどうして、自分の為に時間を割いてくれるような関係になったのか。世の中不思議でいっぱいだ。
 図書館と言っても、その入り口、その外側である。まさかずっと外で待っていたというわけもない。が目をやると、彼の手にはいつもの煙草。彼の傍には、図書館備え付けの灰皿。他人が言う王子様であるところの天輝には、到底似合わないそれ。
「やっぱり」
「やや、まだ一本目ですし!」
「まあ灰皿見たら解るんだけど、そういうことにしておきます」
 灰皿には、古くない吸殻が二本。まあ、そういうことだ。ヘビースモーカーと言える程度に吸っている天輝を考えれば、少ないほうとも言えるけれど、待たせた事実は変わらない。
「まあまあ、そんなことはいいですから、ちゃちゃっと済ませちゃいましょう。資料は集めてありますので」
「えっ、本当? そこまでやらせちゃったのかあたしは……、もっともっと早く来れたらなあ」
「早く来ても無理だと思いますよ、さんの背じゃあたたたたたたた」
 余計なことを言う口を、頬を引っ張ることで黙らせた。すらりと高い背格好の天輝の頬を引くのも、では一苦労である。
 と天輝がそういう――所謂、恋人という関係になったのは、最近のことであった。遠くから見るだけだった世界と世界が出会って、擦り合わされて、そして今、二人で時間をとるようになっている。信じられない、というのがの本音であった。何せ、あの神藤天輝である。が興味を持つことはあっても、向こうからなんてそんなこと、正直天変地異みたいなものだった。それでも嫌じゃないし、それこそ信じられないぐらい嬉しかったから、こうしているわけだが。
 天輝は勉強も出来る。要領がいい。の間違いをすぐに、とても上手に修正する。その姿すらやはり一枚画の美しさを持っているから、時折気後れするものだ。美しい人というのはかくも人を慄かせる。
(あたしには勿体無いひとだと思うけど、な)
 とて、そこそこ可愛らしい顔はしている。けれど、それで神藤天輝の隣に立てるレベルかと聴かれたら、はYESとは言えない。彼のように気立てがいいとは思わないし、成績だって中の上ぐらい。本当に、見劣りするのだ。それで卑屈になるほど細い神経はしていないが、どうしてなのかと疑問には思う。未だ、彼には聞いたことはない。少し怖いのかもしれない。
「終わったー。本当、重ね重ねありがとう、てるくん。正直無理かなって思ってたんだけど」
「どういたしまして。じゃあ、僕はこの本戻してきますね」
「ああ、待って私も行くよ」
さんじゃ届きませんが……」
「次言ったら足踏むからね。ぐりぐりと。ごりごりと」
「今日ヒールでしたよね……」
 きれいな顔を暗い予想に歪ませた天輝に、はにやりと微笑んだ。
 薄暗く、しんと静まり返った書架に二人分の足跡と、雰囲気に圧された小声だけが響く。本を背負って、他愛のない話をしながら歩くことも、にとっては信じられない事実である。
「っと、これで終わりですね」
「うん」
 であれば踏み台が必要になる高さに、天輝はひょいと本を戻す。が一人であったなら、脇に本を置き、近くにあるだろう踏み台を探してを繰り返しなければならない動作も、天輝にすれば簡単なことだった。そう、この人は、あたしと違ってたくさんのことができる。
「てるくんは、すごいね」
「えっ?」
 突然の賞賛に、天輝が本棚からに視線を移す。不思議そうに丸くする瞳を、は苦笑しながら見つめ返した。
「忙しいのに、あたしの為に時間を割いてくれて、それをなんでもないことのようにやって。課題手伝ってくれて、あたしに届かないところに手が届いて」
 にできないたくさんのことを、彼はのためにやってくれて。他にやることも、やりたいことも、やらなきゃならないことだって、あるだろうに。
「なんか、あたしにも何か、てるくんにいてあげられないかなーって、思うよねえ。思う思う」
「……」
 小さな体では、たかが知れているのだろうけれども。勉強を手伝うなんてこともできないし。そもそも何かを手伝うなんて、余計なお世話のような気もする。
「あは、難しいね。てるくんがあたしの為に何かしてくれることすっごい嬉しいから、」
さん」
 静かなそこに、天輝の強い声が響いた。思わずも言葉を飲む。特に怒っている様子もないけれど、それにしたって、彼の表情は、どこか深刻で、必死で、痛ましいほどであった。
「てるくん」
「何かしたいというなら、僕の――俺のお願い、聞いてくれないか?」
 彼の口調が少し変わった。どきりと心臓が鳴る。うすうす感じていた、彼の秘密のようなものを、少し覗いた気がして。
「う、ん」
 頷かないという選択を許さない程、天輝は真剣だった。頷いてから、せめて内容を聞けばよかったとは思ったものの、後の祭りだ。仕方がない。それに、天輝からのお願いである。いつも助けられている自分に、何かできるのなら、それに越したことはない。
「その、……」
 だから、言葉に詰まった彼の手を、は優しく握った。するとぎゅっと握り返してきて、
「…………、キスしていいですか?」
「――は?」
 は逆に、手から力が抜けてしまった。
「なんでそうなるなんで!?」
「だってさんさせてくれないじゃないか!」
「そりゃ雰囲気の問題だって! てるくんのムード力の問題だって! てるくんの底力が試されてる時だって!」
「僕は何度か努力しましたけど、悉くかわしているのさんですよ!?」
「か、かわしてなんかないよっ! てるくんのムード力がないだけで! ないだけだよ!」
「二回も無いって言うのやめて! 言葉が刺さる!!」
 今だ彼は怯んでいる。畳み掛けるなら此処だ。ええい大学も四年通ってキス如きでと言われようが構わない。こちとら恋愛慣れしていないのだ。いやそりゃあ付き合った人はいるけれどそれだって半ば自然消滅みたいな感じでずるずるっとぬるぬるっとした関係で終わって特に何したとかなかったし大体てるくん程ドキドキしたりはしなかっ――
さん!」
(はいぃぃいいっ!)
 自分の過去の恋愛経験に想い馳せているうちに、返答が止んだと見たらしく、天輝は物理的行動に出ていた。の両肩を掴んで、少し屈んで顔の高さを合わせている。天輝のきれいな顔が、今まさに恋人のみが許される距離での前に存在していた。
(ちかいちかいちかい!! しぬ!! ころされる!!!)
 人は美しさで殺されることもあるのだとは悟った。今死んだらきっとそのせいだ。
「僕が毎日、さんに会う度にどれだけ我慢しているか、わかりますか?」
「へっ?」
「またそんな変な声出して。さんを抱きしめたくてしょうがないんですよ、抱きしめて、キスしたくて。本当に、かわいくてしかたがないんです」
 毎日毎日、そんな風に考えていて。
 抱きしめてキスしたくて。
「そ、そう、言われても」
「嫌ですか?」
「嫌じゃないけど」
「けど?」
「あたしの心臓がどうなっているか知ってから言ってほしい、かも」
「なら、教えてください」
「!」
 するりと天輝の手が滑る。肩を掴んでいた手が離れて、逃がさないかのようにの頬を挟んだ。逃げ場がない。視界が天輝で埋まる。きれいな、きんいろの睫毛。耐えられなくなったはぎゅっと目を瞑って、けれど一瞬で見開いて
「やっぱりだめ!!」


 あまりのことに天輝は蹲り足を押さえた。痛い痛いものすごく。悶絶し声を出せないほど痛い。世の女性は、いや男性でも、ヒールは武器ということをよく把握しておいたほうがいい。思いっきり踏まれてしまった足を抱えながら、天輝は涙を飲んだ。
「何胸を撫で下ろしているんですか!」
「あ、ごめんなさい……痛い、よね」
 申し訳なさいっぱいで言われてしまって、そもそも怒るつもりなどなかったけれどそれでもこちらが申し訳なくなる。無理強いしたのは自分だから、正当なのはであるが、それでもやっぱり痛いものは痛い。
「ん」
「はい?」
「てるくん、まだ煙草のにおいするから、キスは、だめ。最初のキスが煙草の味は、嫌だもの」
 突き出された拳に合わせて手を出すと、の手からぽとりと何かが落ちた。天輝の手に落ちて確認すれば、個包装の飴のようだ。薄い黄色の、レモン味。意図を測りかねていると、
「あたし、先に戻って片付けておくから、それ舐め終わるまで戻ってきちゃだめだからね。……あと、足、本当ごめんなさい」
 と言って、はパタパタと走っていく。
(これは、)
 拒否されたと思ったけれど、
(猶予を作っただけなのでは……?)
「あと!」
「はいっ?」
 誰も居ない書架とはいえ、図書館なのであるから、もう少し声は抑えたほうがいいではあるのだが、天輝にもそしてにももうそんな余裕はないようだ。少し距離のある天輝から見ても、彼女の狼狽っぷりったらない。そうさせたのは、間違いなく自分であるのだが。
「あたしは、煙草の匂いも、煙草吸ってるてるくんも嫌いじゃないよ。そんなてるくんの方が、なんか自然で、見ててほっとするから。……だから、えーっと、なんというか……」
さん」
「はいっ!」
「ありがとう」
 嬉しくてしょうがないから、そう言った。言われた彼女は少し頬を染めて足早に去っていった。ぱたぱたと小さな足音を鳴らし、それも徐々に小さくなって、聞こえなくなった頃。
「あー……なんだよあれ」
 ぽつりと。
 天輝が呟いた。足はもうそんなに痛くない。なんだかんだで加減してくれていたんだろう。
「かわいい、かわいすぎるって。あーキスしたい。キスしたい! ぎゅってしたい。持って帰って抱きしめて寝たい」
 思いつくままにつらつらと欲求を述べる。誰も聞いてないのだ。これぐらいいだろう。彼女とてうすうす感じ取っているらしい素の自分は、やたら素直に顔を出した。
 彼女は自分は何もできていないというけれど、たくさんもらっているのは自分の方だ。
 かさり、手元の飴を見る。舐め終わってから戻って来いと言われた。口に含むと小さなそれは、それでもそこそこの時間を要する。その間、彼女はどうしているんだろう。自分のことを考えてくれるのだろうか、それはそれで、時間をかけて味わっておこうかとも思う。
 未だに、それなりに、彼女に嘘をついている。そのままの自分を曝け出してもきっと大丈夫とは思うのだけれど、タイミングがない。それでも彼女は、気づいているのに待っていてくれて、その時間がこそばゆい。
「甘い……」
 彼女を愛しいと思う。それ故に気張っていい格好をしようとしているけれど、さらにその上をいかれている。
 ああ本当、美しい人だ。  

  • からり、レモンの飴の音