どうしてこんなことになっているのだろうかと、下手洋平は痛む頭を押さえながらため息をついた。女性相手にこのような態度は、本来ならば彼のポリシーに反する。しかし今回に限っては、相手が問題なのだった。
 洋平の隣でグラスをちびちび傾けている女性は、行きつけとなったバーで今日初めてとなりあった女性だった。アメリカの地で偶然同じ日本人が隣に座るなんて運命だと最初は思ったし、彼女が酔い始めるまでは非常に楽しく会話を楽しんでいたのだ。
 しかし元来酒に弱いのか、それとも異国の地で同郷の人間に会って気が抜けたからなのか、30分もしないうちに彼女はすっかり酔っ払いと化していた。
「……ちょっと君、大丈夫?」
「だいじょーぶですよ、酔ってないです」
 彼女はにこにこと笑っているが、顔は真っ赤だし言葉は舌足らずで、何処からどう見ても大丈夫には見えない。カウンターの奥で馴染みのバーテンが苦笑しているのを横目で見ながら、俺は若干ふらふらと揺れている彼女が椅子から転げ落ちないようにだけ気を配る。
 酔っ払い始める前の会話を思い出すと、たしか彼女は近くの研究機関に留学しに来ている、非常に優秀な人間だったはずだ。日本の大学でずっと研究を続けていたところに、国が支援している若手研究者の外部派遣プログラムに参加することになり、つい先日アメリカに来たばかりらしい。そんな優秀な人間がこんなところで飲んだくれていて、大丈夫なのだろうか。
「ねー、おにーさん、聞いてくれません?今日ね、元彼からメールが来てたんですよ」
 彼女は唐突にグラスに残っていた酒を飲み干すと、俺を見てこれまた唐突に話を始めた。おかわりを頼もうとする彼女に、俺はバーテンに目配せをしてノンアルコールを用意するよう頼む。バーテンの方も慣れたようにウィンクを返して、飲み物の準備を始めた。
「最初はね、アメリカに来るの嫌だったんですよ、だって彼と離れ離れになるし、研究なら日本でも十分出来るって思ってたし。でもね、彼が行けっていうんですよ、しかも別れようなんて言い出したんですよ」
 バーテンからグラスを受け取って口をつけた彼女は、どうやらノンアルコールだと気付いていないようだった。そして前後関係をざっくりと無視した話を脳内で整理して、内容をつかみとる。
「彼が私にはこの研究が向いてるって、俺と一緒に研究しようって引き込んだのに、別れよう、アメリカに行け、ですよ?いみわかんない」
 その時のことを思い出したのか、ぐすぐすと鼻を鳴らしながら、何かを堪えるような震えた声で呟いた。その内容が、何処と無く俺と将の関係にも当てはまるような気がして、突然のことにぐっと胸が痛むのを感じる。俺は置いていった側、そして彼女は置いていかれた側だ。
 俺は将の音楽が、俺の好きだった音楽でなくなってしまうのが嫌で、あいつを置いていった。自分のわがままのために、将には将の音を奏でて欲しいと思った。置いていった側の俺は置いていかれた将が今何をしているのか知る由もないが、もしかして目の前の彼女のように、傷ついて打ちひしがれているのだろうか。ふと、脳裏に最後に見たショックを隠せない傷ついた将の顔が浮かんできて、俺は慌てて振り払う。
「そんで私は研究する度に彼のこと思い出して、寂しい思いしてるのに、メールなんて書いてあったとおもいます?研究順調だよすげえ楽しい、だって!ふざけんなって感じですよ」
 彼女は俺が別のことに気を取られていたことも気付かない様子で、ノンアルコールカクテルをちびちびと傾けている。あまり長くこの話を聞くと自分自身にもダメージが大きそうだと悟った俺は、にこやかな笑みを貼り付けてうんうん、と相槌を打った。相手は酔っ払いだ、親身に聞いている風を装えばすぐ満足するだろう。
 女性に対して自分がこういう行動をとることは基本的にはありえないし、どんな女性とでも楽しく過ごせる自信がある俺だが、どうしてか目の前の彼女にだけはそうすることが出来ずに居る。 「もともと研究者になるつもりなんてなかったんですよ、てきとーに研究して、てきとーに就職すればいいかなーって思ってたのに、そのプラン変えさせておいて、外で研究してこいって」
 ぽろり、と彼女の瞳から涙が落ちた。俺はすっと懐からハンカチを取り出して彼女に差し出すが、彼女はそれを受け取りはすれど握りしめたまま、次から次へと涙をこぼしていく。隣で声もなく泣き始めた彼女に周囲の視線を感じつつ、俺はその手からハンカチを取り上げてそっと頬の涙を拭った。
「女性の涙は魅力だけど、悲しそうな涙は君には似合わないよ」
「……!」
 彼女は俺の方を見て、驚いたように目を見開いた。こちらを見て固まる彼女の瞳から、溜まっていた最後の1粒の涙がころりと転がって俺の手に落ちた。俺は最後の涙をそっと拭い取った後、手の甲に落ちた涙をなんとなく舐め取る。酒に酔った舌に、程よい塩気が心地良いと思うのは、俺の頭にも随分と酒が入り込んでいるのだろうか。
 ふと目の前の彼女を見ると、目を見開いたまま耳から首筋まですっかり紅く染め上げていた。目が合うと思い切り視線を逸らされるが、時折こちらの様子を伺うように上目遣いでこちらに視線をやってくる。その物慣れない様子が、アメリカで健かな女性たちを相手にしていた自分にどこか新鮮に感じられた。
「お、お酒……!もう1杯っ」
「そろそろ止めておいたほうがいいんじゃない?」
 それまで扱いの分からない面倒そうな存在でしか無かった彼女だが、一気に興味を惹かれた。慌ててグラスを空にしようとしている彼女を見つめながら、俺は鞄の中に入れっぱなしにしていた小さな袋を取り出す。ぐっとグラスを空にして大きく息をついた彼女の肩をそっと掴んで、顔をこちらに向けさせた。
「な、に……んむっ!?」
 俺は取り出した飴玉を、彼女の口の中に放り込んだ。からん、と彼女の口の中で飴が歯にぶつかる音がする。飴を放り込む拍子に指先に触れてしまった艶やかな唇に、少しばかりの照れくささを感じながら彼女を見ると、彼女は目を白黒させたまま口元に手を当てて呆然としている。
「その飴がなくなるまで、次のお酒はだーめ」
「………ずるい」
 照れ隠しのように不貞腐れてみせた彼女の頬が、ころりと飴の転がる音とともにぽこりと膨らんだ。少し酔いが冷めたのか、飲み始めた時の凛とした雰囲気と相まってその飴を舐める仕草が妙に目が離せない。ふと目線が向いてしまう彼女の口元と、指先に残る柔らかな感触を誤魔化すために、俺はグラスに残った酒を一気に煽った。  

  • からり、レモンの飴の音