人混みをさけて講義の合間にある空き時間を食堂で潰しながら、勉は音楽記号達が忙しなく走る五線譜を瞳で追いかける。彼の弾く演目は今までその九割九分がクラシックの楽曲であり、バロック派か古典派か印象派か近代派か、そのような差異はあったものの同じ括りの中の歌曲にしか触れていなかった。しかし先日、部員不足と言う切実な問題に衝突した管弦楽部存続の為に同じような状況にある軽音楽部と手を結ぶことにして以降、今までのように決まったジャンルの中だけで泳ぐことは許されなくなったのである。
 無論、それを疎んでいるわけではない。触れたことのない音の重なりはそれどころか、長年共に在り続けた半身であるはずの音の見知らぬ世界を教えてくれた。重ねたことのない音が混ざる瞬間は脳が溶け合って一つになるような高揚感に満ち、それを永遠に続かせるような心持でコントラバスと歌う瞬間は至上の喜びだったのだ。恐らく共に楽器を弾いた誰もが、そしてそれを捧げられた人物までもが、同じ衝撃と感銘を心臓に受けたに違いない。だからこそ、まるで噛み合わない分野の相手と同じ曲を弾くことに決めたのだ。
 しかしそれは、ただ楽しいだけのものではない。魂が震えるような喜びはそこに至るまで自らの技術を高め、奏でる曲との対話を続けてこそ得られるものだ。どの曲であろうと労せず弾けるものはないし、そのような音に神経の焦げるような感覚は訪れない。勉がこうして楽譜を読み続けているのも、その感覚を追い求めるからこそである。あの融合の中に自らが飛び込んで半身を奏でられることに勝る喜びを、勉は他に見付けられないでいた。
 行動を共にすることが多い幼馴染の青年が隣にいないこともまた、楽譜を読み進める意識へ拍車をかけている。言葉を交わして楽曲への理解を深めることも当然必要な作業であり、また音を模索する上での楽しみの一つである。しかしそれを行う為にも、一人で音に向き合う瞬間が必要なのだ。そして勉も件の人物も、それを行う瞬間は隣に相手を置いていなかった。
 彼がいなくとも、彼の奏でるヴァイオリンの音色は神経へ烙印を押されているかのように刻み込まれている。耳慣れた美しい音を流しながら楽譜を追い、最近覚えたばかりの音を意識してそこに重ねながら楽譜を目で追い続けて、果たしてどれほどの時間が経過しただろう。ふつりと解けた集中力に勉は緩く息を吐き、眼鏡を外して眉間を指で何度か揉む。薄いレンズをかけ直して腕時計の針を確認してみれば、どうやら一時間近くは楽譜に向き合っていたらしい。後に続く講義がないから良かったものの、長く没頭して周囲の状況把握を忘れる癖は、どうにかした方が良いのかもしれない。そんなことを考えながら何か飲み物でも買いに行こうかと考えた矢先、肩を軽く叩かれた。
「あ、さん」
 ほんの僅かに肩を震わせながら振り返った先にいたのは友人の姿で、こんにちはと目を細めれば「Ciao」と流暢なイタリア語を返される。生粋のイタリア育ちの人物の口から不意を突いて出て来る言葉の多くは勉の耳に馴染むそれではなく、しかし耳馴染みのない音を紡ぐ声にはすっかり馴染んでしまっていた。
「随分集中してたみたいじゃないの」
「え……も、もしかして、見てたの?」
「十分も眺めてはいないわよ」
 からかうようなの言葉に気恥ずかしさを覚え、頬に熱が向かうのを感知しながら問いかけると、彼女の顔におかしさを堪えたような笑みが薄く浮かべられる。しかしそれは、十分近く眺めていたことになるのではないだろうか。言い出せない言葉を口の中で転がしていると、勉に向き合うような形で席の一つへ腰を下ろしたはテーブルの上に散るものを見て瞳を瞬かせた。
「あんたがクラシック以外を見るなんて、珍しいこともあるものね」
「あ、うん。ミクスチャーを、もっとやろうって話になって」
「ああ、軽音楽部と弾くってやつ」
 と親しい関係を続けているのは、彼女もまた勉と同じように音楽を好む身であるからと言うのが最もたる要因であろう。管弦楽部の演奏会にも幾度となく足を運んでいる彼女は勉の弾く曲目を知っていたし、世間話の中で零れた言葉から彼らの現状も把握している。クラシックを好んではいるものの音楽であれば手広く何でも聞くのだと言うはそれに対する視野と好奇心の幅が広く、ロック・ミュージックとクラシックが混ざる中にジャズピアノが入るのだと語れば、感情の波が緩やかな瞳へ僅かな光が飛び散るのだ。事実、今の彼女の瞳は好奇の光を帯びて煌めいていた。
「この間はクラシックのアレンジをやったんでしょう。今回は違うのかしら」
「うん。同じものばっかりじゃなくて、色んな風に色んなものを弾いていけるのがミクスチャーの面白さだって軽音楽部の部長さんが言ってたし、僕もそう思うから」
 既曲のアレンジも新曲の精製も、混ざる音を作るすべてが勉の胸に光を注ぐ。その光を一筋浴びたかのように瞳を輝かせて楽譜を追うへ紙束を彼女に向け直せば「Grazie」と謝礼が紡がれ、彼女の瞳は先ほどの勉のように楽譜を追い始めた。僅かに震える指先は、一体どの音を辿っているのだろう。女性にしては些か節の太い指は、テーブルとそこの隙間の空気を楽器として動かされていた。
 長い時間をかけて楽譜を読み終えたが、そっと詰めていた息を吐く。勉の知らない何かを歌っていた指は楽譜の束を彼に返すと、薄い笑みが向けられる。他意なく与えられるそれが貴重なの素顔であることを知っていたからこそ、不意に胸が華やいだ。
「完成するのが楽しみだわ」
 それは、演奏者にとって最大の期待を傾ける言葉であり、曲を作る身にとっては最大の賛辞である。それが耳の肥えた人物からの評価であるならば、尚更に。薄く浮かべられた笑みに答えるように心臓が脈を打ち、楽譜をそっと握り締めながら勉も頬を紅潮させながら笑みを返した。
「うん。僕も、すごく楽しみ」
 楽譜を追うだけで思い出す高揚感をそのまま唇に乗せれば、の笑みは更に深くなる。演奏者が曲を咀嚼し、それを骨身に染み込ませ、自らを愛するかの如く触れることが出来るからこそ、弾く曲の一つ一つへと感情が零れて行く。は恐らく、それを知っているのだろう。眇められた瞳は、弾き手のそれのような楽曲への慈しみが湛えられていた。
「……まぁでも、打ち込むのも程々にしておいた方が良いんじゃないの?」
 しかし次の瞬間には慈しみも期待も霧散してしまい、揶揄するような言葉がまた振りかけられる。集中しすぎて講義に遅れてたら洒落にならないわよ、と言う意地の悪い言葉は、そうなりかけた勉の前科を知るが故のものだ。からかいが多分に含まれた言葉に苦笑を零しながらもそれを拒まないのは、それの本質が善意であることを勉は知っていたからであった。
「あはは、うん。たまにやりかけちゃうから、気を付けないといけないとは思ってるんだけど」
 高すぎる集中力の弊害を、心配してくれているのだろう。こうして様子を伺い、声をかけてくる人物がいることは幸いであることを、勉はよくよく知っている。ありがとう、と流れる文脈からは浮いた言葉を続ければ、瞳を瞬かせたは薄く笑った後に自らのサブバッグへと手を伸ばした。
「礼を言われるようなことをする前に言われるなんて、思いもしなかったわ」
「え? それって、どう言う……」
 自らの行為にすらも笑うは、勉が疑問を吐き切る前にテーブルへと答えを出す。小さな器の蓋が開かれればそこには一口分のプチタルトが身を寄せ合うようにして並んでおり、それに勉は思わず瞳を輝かせた。
「これ、さんが?」
「お腹を壊さない保証はするわ。口に合う保証はしないけど」
 軽い調子で紡がれる謙遜と共に差し出されたのは自動販売機の吐き出す缶の紅茶であり、その表面には薄らと汗が浮かんでいる。恐らくはおよそ十分前に買われていたのだろう、の手元にあるもう一つの缶は彼女が天輝へ差し入れることの多い銘柄の珈琲であった。
 空いた時間の多くは部室で過ごしているものの、食事時の前後はそのまま食堂へ居座ることも少なくない天輝と勉の行動パターンを知った上で、彼女はここまで足を運んだのだろう。迷うことなくプルタブを押し上げられた珈琲の行き先ばかりは、想定外だったのだろうけれど。一口それを煽るは瞳を瞬かせ続けている勉へ視線だけで缶の紅茶を促し、それに勉が眉を下げた。
「もらうだけじゃ、なんだか悪いよ」
「あら、私は貰ったものを還元してるだけだけど?」
 それに、いかにも水分の少なそうなお菓子だけ渡されたら喉が詰まるだけでしょう。は僅かに肩を竦めながら何でもないことのように言い、また珈琲缶へ唇を押し当てた。厚みに欠ける唇から放たれた言葉に勉はまたも目を丸くさせていたものの、彼女の言葉の真意が理解出来ると少しばかり頬を緩ませる。の差し出す好意はいつだって、与えられる側が素直に受け取ることを許すだけの理由を持っていた。
「じゃあもしかして、このオレンジ色のタルトって……」
「人参と、あとオレンジ」
「こっちの緑色は?」
「ほうれん草とチーズ。野菜を使うと、甘ったるくならないのね」
 知る人物こそ少ないものの、家庭菜園は勉のささやかな趣味である。天輝曰く「家庭菜園と言う響きから想像出来る範疇を越えている」ガーデニングによって生まれた野菜は兵頭家のみならず幼馴染の青年の家でも食べられているし、にも時折裾分けをしてはいた。
 それに対して、貰った側の礼儀だと言って勉から渡される野菜を調理しては味の感想を返されることは多かったが、こうした形で還元されたのは初めてのことだ。丹精を込めて育てた成果を丁寧に料理して返されることは自宅でも神藤家の夕食でも少なくなかったけれど、労わりと謝意を込められた愛らしい形はそう目にするものではない。その素材を、そして菓子とするには不向きであろうものすらそこに混ぜられた理由を理解すれば尚更に輝かしいもので、そろりとプチタルトの一つを摘まみ上げたもののそれを口に運ぶ勇気は生憎と沸いてこなかった。
「すごい……さん、野菜からお菓子まで作れちゃうんだ」
「人参とか南瓜なんて、珍しくもないと思うんだけど」
「ううん、そんなことないよ。僕、自分で作った野菜がこんなに可愛い形になるなんて、思いもしなかった」
 しかしは一つを摘まむと、何の感慨も込めず口の中へ放り込んで咀嚼してしまう。それを見ていると自分も食べなければいけないような気がして、それでも小さなタルトを一口で食べ切ってしまうのは勿体無くて、タルトの端をそっと齧った。さっくりと焼き上げられたタルトに詰まったベイクド・チーズの甘味とそこに混ぜられたほうれん草の香りはキッシュではなくタルトであり、些か意外なほどに味の調和が保たれている。すごい、と思わず呟けば、人参のタルトを食べ切ったがひょいと肩を竦めて見せた。
「見付けたレシピの通りに作っただけよ。同じ方法で作ったら、誰でも出来るわ」
 私はあんたの作る野菜の方がよっぽどすごいと思うけど、そう漏らされた言葉は過度の賛辞も入っていない、恐らく底からの心持だ。にとっては放たれた言葉の通り、菓子の一つや二つを作ることなど何てことはないのだろう。しかし、勉にとってもそれが同じように感じられるか否かと言えば、そこに一致が見られるとは言い難かった。
さんがそう思ってくれるのと、同じだよ。僕は、こうやってお菓子を作れるさんの方がすごいなって思う」
 だって勉は、どうしたってこの味を作ることは出来ないだろう。酷く涼しい顔で置かれたタルトから渡された居心地の良さだって、彼が生み出すことの出来るものではない。切れた集中力を慰め、それを行わせていた意識を癒す甘味と慈しみから零れるように笑みを咲かせながら言えば、は少しだけ目を丸くさせた後に薄く浮かべられていた笑みをほんの少しだけ濃くさせた。
「Grazie. そこまで言ってくれるなら、また還元するわ」
「それなら、僕もまた収穫時期になったら連絡するね」
 しかし勉がそうであるように、施されたもので心の慰められる瞬間があるのであれば。笑むに告げれば一段と深みを増す笑みへ酷く満たされた心で、勉もまた零れた笑みをほろりと落とした。

  • ただ笑ってくれるならそれが一番良い