特に予定も無い日曜日。空も快晴で、篭っているのが勿体無い。こういうときは、何かいいことがあるかもしれない。たくさんの根拠の無い期待を詰めて出かけた藤澤将は、その日を思うに出かけて正解だったのだと確信した。
 その人は大量の荷物を持っていたからだ。
「……、なにあれ」
 古本屋から出てきたその人は、大きな紙袋を二つ、両手に一つずつ持っていた。遠目でもずしりと重そうなのがわかる。少し距離が近くなると、白い手に紐が食い込んでいるのがわかり、将の印象が重みからその痛みに転じたとき、
「大丈夫ですか? ……えっと、さん」
「あ、こんにちわ、藤澤さん」
 つい、声をかけていた。その人は――はなんでもない顔をして挨拶をしてきた。その荷物に、まるで苦労していないようである。
「学校の外で会うなんて、珍しいですね」
 にこりと彼女は笑う。学内でも評判になる程度の美人にそうされたら、いくら周りからは天然天然と言われている将でも、どきりとしないわけがなかった。きれいなひとは、ずるい。少しそう思う。気になるひととなれば、尚更だ。
「あの、大丈夫? その荷物」
「え、ああ。平気ですよ」
「いつものことって……、うわ、これ全部、本?」
 頷いて、は自分の出てきた店を示した。いかにも、重厚な古書店である。外から見ただけでも、中の年季が伝わりそうな場所だ。扉は閉まっているからそんなことはないはずなのに、古い紙の匂いが将の鼻をついた気がした。
「あはは……ついつい」
「ついついって……、冗談で済む量じゃない気がする……」
 お店の方にも言われましたとは笑う。彼女が読書家で本の虫で活字中毒なのは、交流していくうちに解ることだし、それがきっかけで出会ったのだがら重々承知ではあるが。まさか、大きな紙袋に、底が抜けないように二重に重ねて本を詰めて、それを二セット持つ程とは。読書量は人並みな将にしてみれば、驚愕に値する量である。
「う、今日はたまたま、ですよ。いつもこんなには、買いませんし……」
「えっあ、あ。ごめんなさい! そういうつもりじゃなくって、ちょっとびっくりしたっていうか……」
 二人してじめじめとした雰囲気になってしまう。いかんいかん。これではまた余計なお世話、迷惑をかけて。ここは自分でどうにかしなければ、その一歩を踏み出さないと、いつまでも坊やのままだ。
(えっと、こういうときは、うまく話を、自然に、切り替えればいいんだよな)
 チラリと話題を探ると、こうしている間にもは本の山を持ったままだった。紙袋の紐が手に食い込んでいる。
「……さん、この本、持って帰るの?」
「そうですよ」
「あの、さ。もしよかったら、俺、手伝ってもいい?」
「え、いえ、結構ですよ。重いですし、私は平気ですから、藤澤さんにも都合が……」
 少しむっとする。未だ浅い間柄でも、彼女がものすごく消極的で、控えめの極みで、助けを求めることなんてそうそうないと解っている。けれど、平気と言いつつも持っている姿は矢張り大変そうだし、手は赤い。そして将は、その痛ましい赤を放っておけるような人間ではなかった。
「重いからだよ」
 がさり。少々強引に、紙袋を一つ奪い取る。
「藤澤さん」
「それに、俺ちょっと散歩しようって思って出てきただけだし。こんなたくさん荷物持って大変そうなるのに、ここで別れたら俺の気が治まらないっていうか、なんていうか……」
 頼ってくれてもいいのにって、思う。
「――」
「だから、そっちも貸して。俺に、手伝わせてください」
「……こっちは、だめです」
 懇親の頼みだったけれど、一蹴されてしまった。焦って下げていた顔をあげる。将の目に映ったは、怒っているわけでも、拒否しているわけでもなかった。
「藤澤さんは、ピアニストですよね。だったら、こんな重いもの、――二つは、だめです」
 それはとても優しい目をしていて。
「じゃあ、持っていっていいの?」
「私の方こそ、お願いします」
 丁寧に頭を下げられる。の黒い髪がふわりと揺れて、なんとなくいい匂いがしそうだななんて、思ってしまった。
さんち遠いの?」
「いえ、この近くですよ」
「……あれ、もしかして俺思いっきり余計なお世話……?」
「いえいえ、全然。正直言うと、買いすぎちゃったなって思ってましたから、有り難いです」
 などと会話を楽しみながら隣を歩く。二人とも揃って大きな荷物を持って、手が痛くなったら抱えたりしながら、けれど将にとっては苦痛ではなかった。の手助けができることがそれだけ嬉しかったし、彼女と歩くのが、楽しい。
 だから、気がついたらのアパートの前に居る。もっと時間を共有したいものだが、着いてしまったものはしかたがない。
「あれ、ここなら家も近いかも」
「お近くですか?」
「うん。もうちょっと行ったとこに、俺んちあるから。……へへ、ご近所さんだね」
「ふふ、そうですね。あ、っと、もうこんな時間ですね」
 ふとが手元の時計を見る。時計の針は、重なって真上を指していた。つられて将も時間を確認して、おひるか、と思った瞬間、正直な体が正直な音を立てた。


 さて何を作ろう。手早くぱぱっと済ませたいものだが、相手は大食漢である。一人であるなら昼は簡単に済ませられたのだけれど。
「本当にいいの? ごちそうになっちゃって」
「誘ったのは私ですよ」
 あんな盛大な腹の音を聞かされては、放置するのも申し訳ない話だった。家の前で健康的な空腹の知らせを鳴らした将に、はくすりと笑ってランチを誘った。本を運んでくれた礼にもなる。何より誘ったとき、あんなにキラキラした顔をされたのだから、今更やっぱり無理ですなんて言えるわけがなかった。
「藤澤さん、嫌いなものとか、食べられないものとかありますか?」
「全然! なんでも! 大好きです! 甘いものは特に好きだけど……」
「ふふ、デザートは昨日作ったミルクプリンですね」
 またぱっと表情が輝く。シンプルで、とても素敵なことだ。なんだかとても楽しくて、鼻歌まで出そうになる。自炊するのは、節約と時間潰し、そして趣味の一巻であるけれど、こんなに楽しい気分になったのは久々だ。
 それが将にも伝わったのか、きょろきょろとリビングを見回していた彼が、ひょこりと顔を出す。
「なんか、楽しそうだね、さん」
「そうですか? うーん……そう、私もなんだか、楽しいです。何故でしょう」
 素直に自分の気持ちを認めて首を捻れば、将も楽しそうに笑った。楽しさや笑顔は感染する。それはとても幸せな拡散だ。
「藤澤さんも楽しそうですね」
「うん、さんのご飯、楽しみ」
 これはこれは、ハードルが高いことだ。上手く超えられるといいのだが。
(……あ、そうか)
 将の言葉に、ピンと来るものがあった。いつもの昼ごはん。いつもの準備。違うのは、彼がいるという事実である。
「そっか、そうですね。……ありがとう、藤澤さん」
 突然の感謝の言葉に、邪魔しては悪いとソファに戻ろうとしていた将の足が止まった。きょとんとした顔でを見る。同い年のはずなのに、随分と、かわいらしく見える。言えば怒るだろうか。少なくとも、年頃の男性に言うことではなかった。
「楽しいって思うのは、藤澤さんのおかげですね。こうして、誰かの為に料理するのは、本当に久しぶりだから」
「誰かの、為って……」
 一人で暮らすには広い部屋。一人で使うには少し大きなテーブルや、ソファ。
「父は海外での仕事が多い人で、……母は、いませんから」
「……ごめん」
「いいえ。でも、今誰かの為に、藤澤さんの為にご飯を作るって、私とっても楽しいです。すごくわくわくして、楽しいにしてもらえて、美味しくできるかちょっと不安で。ご飯ができたら、一緒に食卓を囲むんだって思ったら、なんだか、嬉しいです」
 それはきっと、誰でもいいわけではなくて、彼だからよかったのではないかと思うぐらいに。嬉しくて、楽しくて、――幸せな。
「だから。藤澤さん、ありがとう」
 言ってから気恥ずかしくなって、彼に背を向け台所に向かう。メニューは決めたし、作ってしまおう。お腹を空かせている彼の、為に。
さん!」
「っ、はい?」
 けれど急に大きな声で呼ばれて、手を止めて振り返る。そこには当然、将がいる。その表情は真摯で、きりりとした印象を受ける。いつもの子犬のような彼とは違う、彼の一面。
「あの、俺が言うのも、変なんだけど」
「はい」
「……よかったら、今日だけじゃなくて、また、君の料理、食べたいなっ」
 まだ食べてもいないのに、と首を傾げる。
「俺も、誰かと一緒にご飯食べたり、音楽やったり、好きだから。さんと一緒にご飯食べるのも絶対楽しいって、思うから」
 だから、
「また、俺の為に料理してください!」
 誰かの為に料理するのは、楽しい。誰かと一緒にご飯を食べるのも。
 その誰かを、是非自分にと。
 楽しさの提供と、共有を。
「……女一人だと色々大変なことも多くて。また、力仕事とか手伝ってくれるなら」
「ほんとに!?」
「私も、誰かの為に料理したいし、誰かと食卓を伴にしたい。それが、同じことを考えてくれる貴方なら、嬉しいです」
 将のぱっと輝く笑顔に、も嬉しくなる。突然の申し出は、それはそれは驚くことだったけれど、彼の言わんとすることはよく解るのだ。自分で言ったことだ。誰かの為に、誰かと伴に。
 一人きりでは少し冷える部屋も、ほんのひとときでも。  

  • ただ笑ってくれるならそれが一番良い