陽平が贔屓にしているカレー屋へ顔を出せば、夕食時と言うこともあってか小ぢんまりとした店内は随分と盛況しており、危うく座り損ねるところだったと自らの幸運に感謝をしながら空いたカウンター席に腰を下ろす。店員からの案内を待つことなく空席へ潜り込むことが叶うのは、偏に陽平の顔が認識されているからでもあった。他の客からオーダーを取っている店員の申し訳なさそうな視線に小さく手を振って答えると、カウンター越しに注文を投げ入れる。陽平の声はすっかり聞き慣れてしまっているせいだろう、マスターいつものと叫べば威勢の良い快諾が返された。
 店の規模の関係もあるのだろうが、ホールで働く店員は一人しか見たことがない。それもほとんどが同じ人物であることを考えると、ここしばらくは彼女以外に雇っていないのだろう。二年前から顔を見るようになった人物は、深夜帯まで働いている様子から察するに大学生ではあるらしい。しかしそれにしては稚さの滲む顔立ちは、女性と表現するより少女と言い表した方がしっくりと馴染む、そんな人物であった。
「いらっしゃいませ。すみません、ご案内出来なくて」
「いいよいいよ、忙しいみたいだし。俺こそ勝手に座っちゃって良かった?」
「はい、勿論です」
 オーダーを取り終えたらしい少女は一度店内へ引っ込むと、冷えたグラスと温められた布巾の両方を持ってホール側からカウンターへと顔を出す。ありがとうございますと微笑みながらカウンターへグラスを置き、忙しいだろうに客への笑みを欠かすことなくタオルを差し出す様は見目にも気持ち良い。サンキュ、と礼を言いながら受け取れば彼女は笑みを携えたまま首を振り、店員を呼ぶ声に返事を一つすると陽平へ一礼をしてからテーブル席へと駆けて行った。
 それを何の気もなしに瞳で追えば、どうやら会計を言い渡されたようでエプロンのポケットから娘は伝票の一つを取り出している。店員が一人しかおらず、店主は厨房にかかり切りなのだから彼女が会計のすべてを担当するのも当然のことで、妙に膨らんだポケットにはどうやら客席分の伝票が詰まっているようであった。あれだけ伝票あってよく間違えねえなあ、と心の底から素直に尊敬の念を抱いている間にも会計は済まされ、客が向けた笑みと辞去の挨拶に娘が答える。ドアに付けられたベルが鳴り、ありがとうございました、と彼女の声が些か強めに鳴れば、店主も同じ声を飛ばした。大きく張られた声は、どうやら店主の声を誘発させる為のものらしい。
 ぎっちりと埋まっていたテーブル席の一つに空白が生まれ、彼女は手早くカレー皿をトレイの上に乗せた。盛況時なのだから空席を早く片付けてしまいたいと考えるのも当然のことだろうが、慌ただしく動く姿は見ているだけで些か気を揉んでしまう。陽平が店に足を運ぶのは大概が盛況時を外していて、彼の目にする少女の働き方は丁寧なそれなのだ。だからこそ、忙しなく動いて常の丁寧さが僅かに欠ける姿には奇妙な不安を掻き立てられた。
 トレイに乗せて皿を下げていれば、他のテーブル席に座る客が空いた皿やグラスをそこに乗せて行くものだから尚更に。両手で持たなければバランスを取れなくなるほど盛られる皿には、客の方に少し遠慮してやれよと苛立ちに満たないささやかな不満を覚えてしまう。重なる皿の枚数が六枚を越えた時点で、陽平は白い食器の数を数えることを放棄した。
 後はそれをカウンターの中へ運び込めば一段落と言う頃に、一際離れた席から店員を呼ぶ声が響く。「すぐに参ります!」と上がった声は半ば反射的なものなのだろうが、それを受けて彼女の身体が急いたのは確かだった。動く足がスピードを上げ、客の間を擦り抜ける。しかし、そこで不意に立ち上がった客がいたのは些細でありながら不幸な出来事であり、客との接触を避けて多々良を踏んだ店員の動きもまた、当然の判断でありながら現状を重ね合わせれば不運なものでしかなかった。
 店員自身はその場で何とか踏み止まったものの、トレイの上で所狭しと詰め込まれている食器ばかりはそうも行かず、地震のような震えのせいで皿にぶつかったグラスが外へ飛び出す。陽平の目前で落ちたグラスは支える間もなく重力に従って床に落ち、耳に痛いほど派手な音が鳴った。
「っ、申し訳ありません!」
「うわっ、落ち着いて! ほらまた落ちるから!」
 落ちたグラスに顔を青くした娘が振り返ろうとするのだが、その振動でまた皿が暴れ出しては二次災害に繋がるだけだ。椅子から降りた陽平がそれを止めると己の席の傍で散ったグラスを一瞥し、騒音には気付いてすらいない店主へ声を傾けた。
「マスター、悪いんだけど箒と塵取り貸してくんない? グラス落っことしちゃって」
「お、お客様っ」
「いいからいいから。ほら、お客さん呼んでんだろ? とりあえずそれ置いて、早く行った方がいいよ」
 少女は慌てて止めようとするのだが、陽平が強引に押し切れば反論を唱えることもなく身を震わせる。落とされた眉の下の瞳は困惑に震えて焦りに脅えており、悪化すれば涙を流しかねない色に覆われている。陽平は彼女を安心させようと出来る限り穏やかな笑みを浮かべて宥める言葉を探り、先ほど店員を呼んだ客席の方向を指差した。席が離れていることは幸いであったのか不幸であったか、騒音に気付いていない客は顔を見せない店員に僅かな苛立ちを滲ませている。それに彼女は哀れみを覚えるほど顔色を悪くさせると、それでも慌てて取り繕って笑顔を向けて、またすぐに参りますと声を張り上げていた。
 常客となってから長いせいか、陽平が一声かければカウンターの中へ顔を覗かせても咎める声は飛ばされない。忙しなく飛び交う声に事情を把握したのだろう、それどころか店主は掃除用具のある位置を手早く示すほどだ。カウンターの中へ飛び込んだ次の瞬間にはホールに戻った少女の残像を見つめながら陽平は箒と塵取りを手に握り、砕けた硝子を踏むこともなくテーブル席へ渡った少女を見ている間に感じていた素直な心根を漏らした。
「……マスター。バイト、増やした方がいいんじゃね?」
 この忙しさを二人で捌くなど、どれほど接客業に慣れていたとしても物理的な問題として無理がある。くるくると働く少女は陽平が思っていたほど接客や盛況時の対応に不慣れなわけではなかったが、それでも一人の人間が出来る労働の範囲をそろそろ越えているようにしか見えなかった。
 そうさなあと唸りながらカレーを掬い上げる店主を横目に陽平はカウンターからホールへ戻ると、飛び散る硝子を片付け始める。そうしている間にも店員は幾度となくその横を行き来しており、その度に浮かぶ申し訳なさそうな表情とささやかな一礼に、陽平の心中も僅かに軋んだ。

 混雑のピークが過ぎるまでにはそれから更に小一時間を要し、カレーを食べながら店主と言葉を交わしていた陽平はようやく空席となった左右の席に目を向けてからホール全体を一望する。残る客の疎らになった店内は陽平にとって馴染みのあるもので、先ほどの喧騒を思い出してはひっそりと苦笑を零した。
「あ、あの、お客様。先ほどは本当に、申し訳ありませんでした」
 その陽平へ声がかけられたのは、彼のすぐ脇から。空いたテーブル席を眺めていた陽平が視線を手近な位置に戻せば、そこでは件の店員が深々と頭を下げている。トレイに乗せられたラッシーは、心ばかりのサービスなのだろう。報酬目当てで動いていなかった陽平にしてみれば予想外のサービスで、瞳が思わず輝いた。カレーは勿論のこと、サブメニューやドリンクに至るまでもがこの店は絶品なのだ。
「お、もらっちゃっていいの?」
「はい。こんな程度しか出来なくて、本当に申し訳ないんですけど」
「何言ってんの、充分過ぎるぐらいだって! こっちこそ、サンキューな」
 陽平にしてみればグラスの片付けなど謝礼を渡されるほどのことではなかったし、あそこで顔を青くさせる彼女を放って食事を待っていては寝覚めが悪いから手を動かしただけだ。それでも少女は沈んだ表情を消すことなく、ふるりと首を振っている。それは先ほどと同じ、哀れみを覚えるほどに追い詰められた表情であった。陽平の手間を取らせたと言う事実は、それほど彼女の心中を苛んでいるらしい。
「……あー、その。店員さん、名前教えてくんない?」
 心中に生まれた蟠りの原因は陽平にあるようだが、本当に、それほど大仰に構えられるような出来事ではないのだ。しかし陽平は王太郎ほど器用な立ち回りをすることが出来るわけではない。女性に対するカードがそう多くない彼にとっては、かけるべき言葉の一つすら探りながら放つことしか出来なかった。それにしてもこれはないだろうと放った後で内心青くなったのだが、少女はそれに気付いた様子もなく小首を傾げ、少しだけ晴れた表情で無防備にも頷いて見せる。
、です」
「そっか、ちゃんな。あ、俺は馬場陽平って言います」
 まるでこの場に相応しくない会話ではあったが、少女の胸の内側が先ほどまでのように罪悪感に沈まない結果となったのであればそれで良い。とりあえずはそう思い直し、陽平は緩く息を吐いてからを見下ろした。
「さっきのことだけどさ、本当に気にしなくていいから。ちゃんが来る前はマスターの手伝いだって、たまーにだけどしてたんだしさ」
「でも、お客様にお手間を取らせてしまったのは事実ですし……」
「ほんとに手間じゃないんだってば。あそこで無視する方が後味悪かったから手ぇ貸しただけ、自分の為にしたことなんだから」
 しかし彼女は、陽平が想像していた以上に生真面目な性格をしているらしい。確かに客へ店の処理をさせてしまったとなれば罪悪感の一つも覚えはするだろうが、その謝礼をしても尚これほど気にかける必要はさすがにないのではなかろうか。どれほど言い募っても首を振る姿は生真面目な上、自らに甘えを許してもいないようだった。そこまで考えたところで不意に脳裏へ後輩が過ぎったが、それは忘れることにする。これほど健気で一生懸命に働く少女と、ふてぶてしさばかりが年々増して行く後輩を同じ括りに入れるのは、に対してあまりに失礼な所業であった。
「あれだけ忙しいのを一人で捌いて、ミスしないわけないと思うわけよ。むしろあれ以外ミスしなかったなんて、相当すごいと思うし」
「そんなこと」
「あるよ、少なくとも俺にとっては。で、頑張って働いてるちゃんに胸を打たれちゃったわけ。そんで、手伝わなきゃ男じゃないって思ったっつーか、なんつーか」
 どのような言葉を選べば心痛を取り除くことが出来るのか、女性の心中となれば余計に陽平の判断が及ぶところではない。それ故に探って見付けた言葉があれば碌な吟味もすることなく放っていたのだが、音の塊となったそれを耳で捉えて、これは相当恥ずかしいことを言っているのではないかと耳の先へ熱が集まり始める。そこで言葉を詰まらせてそろりとの様子を窺えば予想通りと言うべきか、彼女の顔もほんのりと赤く染まっていた。
「……ご、ごめん。いきなりこんなこと言われても、わけわかんねえよな」
「そ、そんなことないです。その、いつも来て下さるお客様にご迷惑をおかけして、そこはやっぱり申し訳ないんですけど。……そう仰って頂けて、嬉しいです」
 まるでナンパでもしているかのような言葉へ、今更ながら羞恥心が沸き上がって思わず頭を下げると、予想外の言葉が返される。瞳を上げれば頬を染めたまま赤みを引かせることのない顔で、が柔らかく微笑んでいる。酷くいじらしさを与える姿へまさしく胸を打たれながら、むず痒さが背骨を駆け上がって行くのを否応なしに感じ取った。何故だか不思議なほど、背中がくすぐったい。
「そ、っか。それじゃ、また忙しい時は、俺がいたら声かけてよ。ちょっとぐらい手伝えるし」
「え、でも、お客様に何度もそんなことをさせるわけには……」
「悪いと思うなら、またこれくれたらいいから。……って言うと、たかってるみたいで格好悪ぃけど」
 どうしたって抜け切らない気恥ずかしさが胸中でぐるぐると走り回りながらも、それは存外悪い感覚ではない。放った言葉でがくすぐったそうに笑ったり、そんなことないですと首を振ったりする様を見ていると、それは余計に。しかし、それでも未だに頷くことのないへ陽平は内心で僅かに眉を顰める。客と店員と言う立場の差を思えばの対応は当然のものだとわかりながらも、どうにかして彼女を頷かせたかったのだ。
「一人だけ頑張ってるのに何もしないなんて、気持ち良く飯も食えねーの。だから、な?」
 それがただの意地でしかないのか、それとも胸中で渦巻くむず痒さに類似した感情に所以しているのか。生憎と陽平はそこを眺め直すことすら出来なかった為に、を説得させる為の言葉を探って重ねることしか出来なかった。

  • 頑張ってる君は好きだけど、頑張りすぎちゃうのが心配