兵藤家の御曹司であっても、兵藤勉は家の外では極めて一般人と変わらない生活をしていた。専用のリムジンがあっても勉は電車で移動するし、なんとなくそうするべきだと思っている。彼個人に深い意味はない。最初は幼馴染と行動を共にするためであったし、それがずるずると続いて、良いのか悪いのかはわからないものの、なんとか行動圏内はスムーズに移動できるようになっていた。
 だからこのように、電車でばったり、なんてことも起きてくれる。
ちゃん、こんな時間までバイトだったの?」
「はい。あの、フリ大の近くの、ファミレスです。何度か勉さんの姿も見てます」
「そうだったんだ……全然気づかなかったよ」
 わたし厨房ですから、と彼女は言う。アルバイトをしているのは聞いていたけれど、そんなに近くだとは思わなかった。
 神藤。勉の幼馴染であり親友である所の神藤天輝の妹。故に勉とも付き合いがある。勉が夕飯をご馳走になるときは勿論一緒に食卓を囲むし、たまに、勉の家庭菜園を見に来たりしている。天輝の弟妹達のなかでも、勉とは関係が深い方だ。
ちゃん料理得意だし、向いてるんじゃないかな」
「そんな、……必要だったから覚えただけで」
「この間の豚汁も、ちゃんが作ってくれたんだよね。美味しかったね」
 にこりと勉が笑うと、は俯いて恐縮ですと小さな声で言った。昔は一緒に走り回ったものだけれど、最近は、彼女はとても照れ屋になってしまっている。天輝は思春期だろうと言って済ますのだが、勉としては少し寂しい。
「あの、勉さん。お兄ちゃんは、最近どうしてますか?」
「テル?」
 家族なのに、不思議なことを聞くなあと思いつつ、どう答えたものか考える。
「わたしはバイトだし、お兄ちゃんはここ数日コンサートの練習や準備で夜も遅いから、顔を合わせないわけじゃないけどあんまり話せなくって……」
 そういえば最近の彼は忙しそうだ。学校で顔を合わせる分には、あの仮面っぷりを発揮しつつそれでも要所要所で休憩をとっているが、それも校内での話。コンサートが近くなると、忙しさは計り知れない。のんびり勉が野菜の世話をしている間にも、彼はヴァイオリンを弾いている。
「テル、この間妹が反抗期って言ってたけど、あれちゃんのこと、かな?」
「えっ!?」
「一緒に洗濯しないで〜とか、言われたって、ちょっと凹んでた」
「それはっ! そのっ……だって……ううう」
 勉には計り知れないことだが、たぶん、女の子というのはそういうものなんだろう。狼狽するにくすりと笑って、勉は返答する。
「元気、だと思うよ。やっぱりちょっと無理してるけど……でも、無理してるのはいつもだよね、テル」
 はい、と小さく呟いた。座席で縮こまってしまうは、矢張り兄が心配なようだ。勉とてそれは同じだ、ただ天輝のそれは今に始まったことではないし、忠告こそできても、勉が無理やりに止める権利もない。けれどは違う。
ちゃんは、テルのこと大好きなんだね」
「……、はい」
 ちょっとした反抗を見せるのは、裏返しのようなものなんだろう。おんなのこは難しい。天輝が最近よく言う科白だ。思考回路があまりわからないらしいが、だからと言って投げ出したくないと言う彼は、
ちゃんのこと、大切なんだなあ……)
 仲のいい兄妹だなあと思いながら笑うと、が不思議そうに見上げてきた。金色の髪も睫毛もは、天輝によく似ている。
「……あ、でも、ちゃん、毎日こんな時間まで働いてるの?」
 女の子が一人で歩くには、心配になる時間だ。流石にそれは頂けない。そう思われているのが解ったのか、は鞄を掴んで申し訳無さそうに肩を竦めた。
(神藤家は、テルがあんなに頑張っているから、弟妹達にはそんなに負担になってないと思ってたけど……)
 駅に着いた。降りる駅はあと二つ先。


 口調の割りに、勉の目は真摯だった。
 目を合わせると、がたじろいでしまう程度には。たぶん、少し、怒っているのかもしれない。こんな時間まで、それこそ、補導されるギリギリなのだ。毎日毎日、そんな時間まで外にいるなんて、普通のリアクションはそうだ。両親はなんとか言いくるめた。下の子たちにも言い聞かせた。けれど、兄には何も言っていない。タイミングが無かったといえばそれだけの話なのだが、それはじわじわとの心を苛む。そこにきて、この男の存在は、諦めるしかなかった。
 誰にもいってなかったこと。もしかしたら、聞いてほしかったのかもしれない。家のことをよく知っていて、天輝のことを誰よりも理解している、彼に。
「兄は、すごいです」
「そうだね。自分のやることを確り考えてて、そのためにちゃんと努力してて」
「わたしたちの為に、頑張ってて」
「……」
 勉は返事をしなかった。が話を聞いてほしいと思っていることに、なんとなく気づいたようである。彼は周りから天然と称される割に、ときどき察しがいいというか、心地よい付き合いをしてくれる。今のにとって、これ以上有り難い沈黙はなかった。
「勉強もヴァイオリンも、お家のことも全部頑張っているんです。才能があって、努力する才能もあって。でも、わたしは違う」
 兄のように、すぐに稼げる才があるわけでもなく、眩しく輝くほどのそれでもなく。
 勉学すら、同じ頃の兄に比べれば。
 けれど、それでひねくれるようなではなかった。勉に笑顔を向けて続ける。
「でも、ううん。だから、わたしはもっと頑張ってやろうって思ったんです。兄と同じくらいになるのは、きっと大変だけど、わたしのできることを頑張ろうって。奨学金もちゃんともらえたし、家の為になること、できるかもしれない。わたしは兄ほど才能もセンスもないからそれはしかたないけど、でも頑張ったらできないことはないって、下の子たちにも伝わると思ったから」
 ベルが鳴って、ドアが閉まった。電車が速度をあげて走り出す。その間にも、は話を続けたし、勉は真摯に話を聞いてくれていた。それが嬉しい。
「えへへ、この話、秘密ですよ」
「うん。……ちゃんも、すごいね」
「そんなことないですっ。まだまだ、頑張らなきゃ! はやく、」
 そこで、の言葉が止まってしまった。彼女の視界には、にこやかな勉が映る。眼鏡の向こうで、優しい目をしている、兄の親友。ご近所さん。
 その彼が、の頭を優しく撫でていて、
「すごくって、えらいよ、とっても」
(わ、わわ、うわわわわわわ……!!)
 にとって、兵藤勉という人は異質であった。父親も、天輝を含む男兄弟も、クラスの男子をまるっと含めたところで、こんな人はいない。どう表現したらいいのかわからないけれど、彼は特別で、それを確信したのはここ数年だ。昔のように一緒に遊ばなくなったからこそ、そうやって特別になってしまったのかもしれない。今では、顔を見て話すのも恥ずかしいぐらいだった。
(なのに、うわあ、わたし、どうしよ、あんなに、自分のお話しちゃって)
 そして頭を撫でられて。
「あ。女の子の頭をなでるのは、よくない、かな」
 小首を傾げられる。
「いえ、あのっ、……ええと……」
 子ども扱いすると思えば、自分がかわいらしい仕草をする。なんなんだこの人。本当に大学生か。天然怖い。どきどきする。
「僕は、ちゃんもすごいって思うよ」
「? でも、」
「テルほどできないって思ってるのに、それだけ頑張ろうって、すごいと思う。ほんと、格好いい」
 意地を張って誰にも言っていない秘密を、笑いもせずに真面目に聞いてくれて。――ほめてくれた。
 誰も口にはしなかったし、本当はそんなことを思っていないかもしれないけれど、にはいつも天輝の影がちらついて。でも、それでもと続けてきたことを、彼は。
「頑張る才能って言うのは、きっとあると思う。それはたぶん、ちゃんも持ってるよ、テルよりたくさん、あるかもしれない」
(うわあ、どうしよう、ほんと、どうしよう……)
 臆面無く人を褒められる人は、少ない。それをこんな素直に、真っ直ぐにしてくれる彼は、の頭をぐるぐるとめぐらせるばかりだった。
「でも、こんな時間まで頑張るのは、頑張りすぎだよ」
 朗らかな笑顔が一転、真剣な表情になり、声のトーンも少し下がった。やっぱり、この人は、真剣に話をしてくれている。
ちゃんは、女の子なんだから」
「そんなの」
「頑張るのは、人に心配かけない程度に、だよ」
「う……はい」
 普段はあんな、ふわふわした人なのに、要所要所できっちり固めてくる。ずるい人だとは思った。これはきっと世に言うギャップ萌えみたいなやつなのだ。頭を撫でるのも、小首を傾げるのも、少し男らしくなるのも。
(男の人……なんだなあ)
「でもそれ、お兄ちゃんにも言ってくださいね」
「あんまり聞いてくれないんだよね、テルは」
「……やっぱり」
「全部一人でやろうとしているから、最近冷たいんだね、ちゃん」
 そして今度は鋭い。ずるい。ずるさの塊だ。
「冷たくなんてしてません。普通です、フツー。たとえそうだとしても、お兄ちゃんが悪いもの」  

  • 頑張ってる君は好きだけど、頑張りすぎちゃうのが心配